機関紙誌等に発表した雑文等を掲載しています。
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あけましておめでとうございます
2020.1.1
虹に託された想い 2020.01.01
新日本医師協会機関誌への原稿を収録しました
2020.01.01 「新医協」 第1891号 (月2回発行)
私は1976年に富山県魚津市で歯科医院を開業しました。この地で、本業とは離れて、20年余り関わっていることがあります。
'95年9月6日。いつもどおり診療していました。そのうちに外が騒々しくなってきて、ヘリコプターが何機もとびまわる。何事かと思いながら診療していると、ニュースで、オウム真理教の坂本弁護士一家殺害事件で犠牲になった妻の都子(さとこ)さんの遺体が山中で見つかった、と報じられました。事件発生は'89年11月4日ですから6年近く埋められていたことになります。
テレビのニュース映像を見ると、どうやら、以前に行ったことのある林道のようです。魚津市の東側に、僧ヶ岳(1855m)が衝立のように立っていて、僧ヶ岳林道がその中腹を横切っています。
約30年前、思い立って自動二輪の免許をとり、ときどき近くの山道をオフロードバイクで走っていました。僧ヶ岳林道にも行きました。砕石を撒いただけのひどい道で、よろけて転倒。幸い怪我はなかったものの、記憶に刻まれました。遺体発見現場は、私が転倒した場所のすぐ近くのようでした。
それから3年ほどたって、突然、追悼のコンサートをしませんか、という話が飛び込んできました。何が何だかわからないまま、当時「地域雑誌」を作っていたメンバーが中心となって、会場を手配したり、パンフを作ったり、と準備に取り組みました。
第1回の追悼コンサートが実現したのは'99年8月19日。その前日、遺体発見現場に作られた慰霊碑の前で、ヴァイオリンとフルートの演奏が行われました。林道に入る直前まで激しい雷雨だったのが、からりと晴れて、あざやかな二重の虹がかかりました。山の奥で、虹といっしょに追悼の演奏を聞くという幻想的な光景です。慰霊碑の裏側に刻まれている都子さんの詩を読んだとき、ほんとうにビックリ仰天。都子さんが虹になって現れた!と思いました。
(慰霊碑に刻まれている都子さんの詩)
赤い毛糸に
だいだいの毛糸を結びたい
だいだいの毛糸に
レモンいろの毛糸を
レモンいろの毛糸に
空いろの毛糸も結びたい
この街に生きる一人一人の
心を結びたいんだ
このとき、演奏に使われたヴァイオリンは堤(つつみ)さん、フルートは都子さんの使っていた楽器でした。二人はともに音楽が好きだったのです。スポンサーを失い存亡の危機にあった日本フィルハーモニー交響楽団を支える市民団体に加わっていて、そこで交流のあった音楽家らが慰霊のコンサートに取り組んでいたのです。
しかし、二人を結び付けたのは音楽ではなく、障がい者や帰国子女を助けるためのボランティア活動でした。「全国車イス市民集会」が二人の出会いの場だったとのことです。
私は大学の6年間、東京の氷川下でセツルメント活動に参加しました。徳永直「太陽のない街」の舞台となった地域です。児童部、青年部などのいろんな分野に分かれていて、私は「保健部」に所属し、血圧計をを抱えて動き回っていました。
妻とは、そのセツルメント活動で知り合ったのでした。坂本さん夫婦とよく似ている。なんだか仲間のように感じ、オウムへの怒りだけでなく、坂本さんたちの生き方を伝えなければならない、と思うようになりました。
以後、「都子さんメモリアル愛とヒューマンのコンサート」と名付けて、2013年までは大きなホールを使ってのコンサート、それ以降も慰霊碑前や障がい者施設でのミニコンサートに取り組んできました。都子さんの詩が合唱曲になり、CDや楽譜も出版されました。私は実行委員会の代表として、妻は合唱団のメンバーとして関わり続けてきました。
しかし、実行委員会のメンバーも歳を取り、なかなか思うように動けなくなってきました。「語り伝える」ことの難しさを感じています。
イヌが仇を討つ・・ 2020.01.03
魚津演劇鑑賞会機関誌への原稿を収録しました
50年も昔のことになりますが、学生時代、両国に下宿していました。両国駅と下宿の間に、回向院という大きなお寺があり、その境内を通り抜けて通学していたものです。そこには「ねずみ小僧の墓」や相撲にゆかりの「力塚」がありました。
お寺の裏口を出てすぐ近くにナマコ壁で囲まれた小さな公園があります。公園とは言っても、30坪ほどの小さなもので、どこかの家の裏庭のような感じ。吉良邸跡と表示されていて、中に入ると、石碑や小さな鳥居があり、「首洗いの井戸」があります。なんだか薄気味悪くて早々に退散したくなる雰囲気です。
毎年、12月になると、ノボリがたてられ、赤穂浪士の討ち入りを記念する行事が行われていたように記憶しています。
「忠臣蔵」では、吉良上野介は悪者、浅野内匠頭は犠牲者、赤穂の四十七士は忠臣と色分けされます。成功しても失敗しても命を失うであろう「討ち入り」に身を投じるなんて、正気の沙汰とは思えませんが、それが忠義というものだと美化されてきました。本当にそうだったのでしょうか?
20年ほど前、富山で井上ひさしさんの講演会をひらいたことがあります。井上ファンだからということで、当日は司会の役をおおせつかりました。表題は「二つの憲法」。日本国憲法と大日本帝国憲法がテーマなのですが、「剣法」の話から始まりました。剣の達人ほど戦うことの空しさを知り、究極の強さは戦わないことにある、と悟る。日本国憲法の平和主義に話がつながっていきます。
井上さんは日本語使いの達人です。
こんどの例会は、井上ひさし作「イヌの仇討」です。なぜ「イヌ」なのか、どういう話の展開になるのか、楽しみです。
決算期 2020.02.15
2020年2月、72歳の誕生日の翌日、飛蚊症の症状が現れた。
眼科を受診したが、有効な治療法はないようだ。
男の健康寿命は平均72.14歳…そろそろ賞味期限切れということだろうか。
13年前、87歳で亡くなった父・三代吉は、晩年、「年齢は?」と尋ねられると、いつも「72歳」と答えていた。父は肺や心臓に病気を持っていて、「病弱」であることを自覚していた。72歳を、自分の寿命の目安にしていたのかもしれない。あるいは、認知症が進行する前、自分の年齢を自覚できた最後が72歳だったのかもしれない。認知症が進むにつれて若くなっていくようで、息子の私を兄だと言ったり、自分の妻を義母だと言ったりして、面食らったものだ。
人間の寿命は予想がつかない。母・ミツは、体が丈夫だったし、母方の祖母・フジが90歳すぎまで元気だったから、本人も周囲も長生きするだろうと思っていた。しかし、父より早く81歳で亡くなった。元気そうな人が早くに亡くなり、弱々しい人が長生きする、というケースはよくあることだ。
三代吉と兄の豊三郎 ミツと三代吉(みくりが池にて '96)
厚労省発表の簡易生命表(2018)によれば、72歳男の平均余命は14.38年である。あくまでも平均の話だから、自分がどうなるのかは見当がつかない。
それはともあれ、干支の6巡目である72という歳は、なにか一区切りといった雰囲気がある。還暦から古希、喜寿と記念される年齢があるが、72歳には、何も特別な名称はないようだ。
おりしも3月の確定申告にむけて帳簿の整理などに忙しい決算期だ。人生の決算仕訳にも、そろそろ取り掛からなくてはならない。「締寿」とでも名付けておこうか・・・
彼岸 2020.03.22
春の彼岸。今年は新型コロナ肺炎の騒動で、菩提寺(常泉寺)の彼岸会は中止になった。父母の墓に、山で採ってきたマンサクとユキツバキの花を供えた。風が強く、ロウソクの火はすぐに消えてしまった。
この機会に、彼岸の人を、思い起こしてみた。今回は「同業」の故人を取り上げる。
まず、母校でたいへんお世話になったSm先生
私が大学に入学したのは1966年。不本意ながら進んだ道だったが、「二足の草鞋を履けばいいんだ」と周りの大人たちから慰められ、そんなものかと自分を抑えた。2年間の「教養課程」の間は、授業をさぼってばかり。しかし、留年などして余分な年数を過ごすのは馬鹿らしいので、最小限の単位を取得して進級した。
文芸団体に所属し、草鹿外吉氏の主宰する同人誌に加わっていた。江戸川だったか荒川だったか、おおきな川に近い都営アパートのお宅に、なんどもお邪魔した。奥さんは、長崎か広島の被爆者だったように記憶している。当時の草鹿氏は、早稲田大学の非常勤講師だった。のちに日本福祉大学の教授になり、副学長をつとめた。
同人には、いろんな人がいた。話好きなタクシー運転手。広告会社勤務のインテリっぽい人。工場勤務のいかにも労働者といった雰囲気の人。いまでいうフリーターのような、アルバイトを転々としている青年。などなど。学生は私一人だった。
「専門課程」に進んだとき、「二足の草鞋」は無理だ、と思うようになった。文芸の才への見切りもあった。ともあれ専門の勉強に集中することにした。
Sm先生はそのころ助教授になったばかりだった。いったん歯学部を卒業し、口腔外科学教室にはいったのち医学部に編入、卒業して教室に戻って翌年助教授に就任された。
たまたままじめに勉強していた時期に、Sm先生の講義を受け、試験を受けた。「たいへんよくできた。100点をやりたいところだが、“満点”ということは専門家でもありえないことなので、95点にしておくよ」と言われた。助教授の小さな部屋があり、何度か呼ばれて行ったことがある。そこでジュンサイのお汁を頂いたことがある。
私は、卒業したあと山梨県の病院に勤務したが、ここの教室に籍を置かせていただいた。Sm先生にも、なんどか病院へ来てもらって、現場で指導していただいたことがある。
やがては教授になるだろうと思われていたが、いろいろとあったようで、母校の教授にはなれず、1981年に地方の国立大学の教授となって転出された。その後も学会などで、何度かお会いした。また、私が郷里へ帰ったあとは、当地の「シロエビ」をたいへん気に入っていただいて、毎年送っていた。年賀はがきは、日本語にドイツ語が混じり、裏面に入りきらなくて表面にまで続いていくような凄いものだった。
脳梗塞で倒れ、数年たって、88歳で逝去された。お世話になりました・・・
学生時代の仲間・Sz先生
学生時代の後半は、地方の無医村や、都内の下町でのフィールド活動に精を出していた。在京の学生の連携組織「歯科医療研究会」なるものを立ち上げて、日常的に交流し、フィールド活動を企画した。そのころの最も近しい仲間がSz先生だった。フィールド活動の準備のために現地へ一緒に行ったりしたものだ。大学は違うが同期で、やがて卒業したあとは私の母校の小児歯科学教室に入局した。
私が郷里へ帰って開業したころは、都内に新設された私大の小児歯科学教室の助教授になっていた。
そのころの歯科診療は「虫歯の洪水」と言われる状況だった。
とりわけ、子供の口腔内の状態は悲惨なもので、虫歯のない子などはクラスに1人いるかどうか、というのが普通だった。
朝9時に診療室にはいると、昼食は診療の合間に抜け出して大急ぎで掻き込んで、夜の9時〜10時ころまで休む間もなく仕事を続けた。こんなことを続けていたら殺されてしまう。小児の患者の状況を何とかできないものか。などと思い悩んでいて、Sz先生に相談した。
1983(S58)年、短期間だが、彼の教室で研修させてもらった。夜行列車で上京して大学へ、1泊して朝、大学へ、そして夜の列車で帰郷、週2日の「通学」だった。やがて、彼は東北地方の新設大学の教授として赴任した。いちど、東北自動車道のSAで、ばったり出会ってお互いびっくりしたことがある。
2010年ころ、がんを罹って療養生活を送っていたが、2014年4月に亡くなった。60代半ばだった。その1年ほど前に届いた手紙が手許にある。なかなかの達筆で、写真とともに近況がつづられていて、最後は「お会いできることがあればうれしいですね」と結ばれていた。古いアルバムから取り込んだフィールド活動時代の写真をCDに収めて送ったが、それが最後になった。
会いに行けなくてゴメン。
頼りがいのあるリーダー、F先生
私が病院勤務を辞して郷里に帰り開業したのは1976年の秋。その翌年から「富山県保険医協会」設立準備会に引っ張り出された。そのとき歯科部門のトップとして副会長を引き受けられたのがF先生だった。なにかとお世話になった。
歯科大を卒業後、陸軍に召集され、満州の陸軍病院で歯科軍医を務めていたが、やがて敗戦。中国八路軍の捕虜となり、歯科医師とはいえ医学を学んでいるのだから、ということで八路軍の軍医として徴用された。各地を転戦したのち、昭和28年、帰国。富山では県歯科医師会の会長を務めた経歴がある。
ほんとうに頼りがいのある先生だった。
あるとき、「君は欲のない人だね」と言われたことがある。やわらかい言い回しだが、誉め言葉ではない。最初は何のことだかよくわからなかったが、あとで少しづつわかってきたような気がする。
金にも地位にもこだわらなくて、淡々としている。そこまではいいが・・・ 自分の考えを持ってはいても、意見の違う人と議論しようとはしない。味方を増やして人脈をつくろうとしない。まわりと波風をたてず、覇気がない。「意欲」でなく「欲」と言葉を選ばれたのはさすが……
もどかしい思いで見ておられたのだろう。けれども、いろんな場面で支えたり守ったりしてくださった。
2007年暮、94歳で亡くなられた。「思い残すことはない」と語り、食事を拒否されたとのこと。
お世話になりました。「欲」のない私は相変わらずです。
高校・大学の先輩のH先生
先日、ある患者の「無縫冠」を除去した。昔々、保険診療の主流だったこともある治療法で、金属板のパーツを金型に合わせて鍛造する。「ずいぶんと昔の治療ですね」と話しかけたら、「大学進学の前に、駅近くの歯医者で治療した」とのこと。50年余まえということになる。駅の近くということは、H先生であろう。
私の父は歯科技工士をしていて、H先生の仕事も請け負っていた。中学校へ通う道の途中だったので、ときどき、納品する技工物を届けに立ち寄った。だから、先日除去した冠は、父が作ったものである可能性が高い。
H先生は高校および大学の16期先輩だ。私が郷里へ帰ったあとは、同窓ということもあって、それなりに付き合いがあった。いつのころか、奥さんが子供を連れて家を出てしまい、一人で生活しておられた。2002年に、古希を迎えてじきに、亡くなられた。
その少し前に、息子さんが帰ってきて、近くで仕事をするようになったのだが、H先生がなくなられたら、さっさとたたんで首都圏のほうへ移って行かれた。
じつのところ、私も早々に仕事をたたんで、東京へ引っ越したい、などと夢想していた時期があった。東京なら、電車に乗って、あちこちの美術館や博物館などを巡ってあるけば、金もかからず、退屈しないだろう。たまに劇場へ行ったり、外食したり、といった贅沢をしても、アルバイト程度に仕事をすれば何とかなるのではないか、などと算段していた。
しかし、年を経るにしたがって、あれこれとしがらみが強まり、じわりじわりと身動きが取れなくなっていった。さらには老後の資金を使い果たしてしまい、夢をみるどころではなくなってしまった。
ともあれ、H先生、お疲れ様でした。
最後に、高校の後輩のY先生
Y先生は高校の3年後輩だ。「新聞部」に所属していたと聞いたことがある。部活でも後輩ということになる。
国立大学の出身である。私もその大学を受験した。当時は1期校・2期校の時代で、1期校のその大学も受かっていたが、2期校のほうに入った。手続きの行き違いがあって、入学手続きをしてしまってから取り消した。
Y先生は、まじめな人だった。当初、地元の総合病院に勤務し、のちに開業した。それほど酒に強くはなさそうなのに、よく飲んでふらふらになっていた。
病院勤務時代に、抜歯したあと脳梗塞をおこしたケースの話を聞いた。責任を問われてもねぇ…というぼやきであった。抜歯など外科的な処置や、外傷など、体に損傷があったとき、人間の体は自己防衛のために、出血を止めようとする。血液が固まりやすくなるので、脳梗塞や心筋梗塞を起こしやすくなる。そのため、近年は、「血をさらさらにする薬」などを服用している場合、抜歯のまえに止めないように、という学会のガイドラインが出ている。
歯科診療の場では、局所麻酔や小手術の頻度はどの診療科よりも多いと思う。麻酔剤の「アナフィラキシーショック」は10万人に1人ともいわれる。もしもそんな出来事に遭遇したら、落ち着いて正しく対応できるだろうか。心配しだしたらキリがない。
また、開業した後で、クレーマーが待合室に居座って、警察を呼ぶ騒ぎになった、という話を聞いたことがある。見当はずれの思い込みで押し掛けてきたもので、話をしても聞くような人ではなかったようだ。
Y先生はまじめだったがために、ストレスを抱え込みやすく、それを紛らわすために、酒を飲みすぎたのではないかと思う。脳梗塞で倒れて、長い療養生活の末に、62歳の若さで亡くなった。
いまさらですが、お酒はほどほどに…
寄席 2020.11.15
公民館で寄席があった。演者は越中家漫欽丹。県内で活動しているアマチュア落語家で、東日本大震災の被災地には80回以上も行っているとのこと。
83歳とのことだが、元気いっぱいで、ハモニカを吹いたりして、座を盛り上げていた。
寄席はひさしぶり。20年余前に、新川文化ホールで立川志の輔の寄席に行って以来だ。
両国に住んでいたころは、人形町の末廣亭によく行った。入り口で下足と引き換えに木製の短冊のような下足札を渡され、中は畳敷きだった。寄席が終わると、30分くらい歩いて下宿まで帰ったものだ。
「人形町末廣」というのが正式名のようだが、1970年になくなった。
イワウチワ