ひとりごと97上  

北日本新聞夕刊「ドクターのひとりごと」 1997前半

 北日本新聞夕刊「ドクターのひとりごと」欄に掲載した文章を収録しました。版権は北日本新聞社が所有しております。引用などの際には、掲載日付と出処「北日本新聞」を明記してください。

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〜1996年12月 1997/01/08 「食べる」 1997/01/21 
1997/02/05 アドレス 1997/02/17 労働者 1997/03/03 寄席
1997/04/09 口呼吸 1997/03/24 新しく 1997/04/28 青天井
1997/05/19 口が狭い 1997/05/26 薬袋 1997/06/04 人間とコンピュータ
1997/06/24 老人の尊厳 1997/06/30 田毎の月 1997年7月〜

1997/01/08 「食べる」

 昨年一〇月、県民会館で「医療福祉交流集会」という集まりがあった。介護をめぐっていろんな職種の人が集まるシンポジウムである。
 大切なことが三つある、という話があった。第一に食べること、第二に排泄、第三に顔を大地に垂直に保つこと。まっさきにあげられた「食べる」ことについては、私たち歯科医に関係が深い。
 同じ月に京都で「摂食機能」についてのシンポジウムがあり、食べる機能が年齢とともにどのように変化するかについての講演を聞いた。
 加齢による摂食機能の変化は未解明の部分が多く、研究の遅れが指摘されている。おおまかにいうと、加齢によって、もともとあった個人差が拡大する、加齢そのものよりも環境的な因子の影響が大きい、とのことであった。
 臭覚は60才を過ぎるころから急速に低下するのに、味覚は案外低下しないらしい。高齢になると唾液の量が少なくなり、義歯が不安定になったり口の粘膜に傷をつくりやすくなる、というのが定説である。じっとしているときの唾液の量は少なくなるが、食物が口の中にはいったときに出る唾液の量は思ったほどは低下しないという。唾液の量には、服用している薬剤の影響が強く作用するようだ。
 もっとも危険なのは、食物を飲み込むときの気道と食道の切り替えのタイミングのズレである。交差点にたとえれば、右と左の信号がうまく連動せず、両方とも青信号になってしまうようなものだ。もしも道路上でこんなことが起こったら、交通事故が続出するにちがいない。
 人間の身体でも事故が起きる。毎年正月にモチをのどにつまらせて窒息死する人が全国で一〇人を下らない。そこまでいかなくても、むせやすくなり、気道内に異物がはいって肺炎を起こす危険性が高くなる。 「食べる」機能のリハビリテーションは重要であるが、残念ながら、今後の課題といったところである。

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1997/01/21 米

 米をたべないのに「米国」、米を食べるのにジャパン。 ある雑誌をみていたら、こんな駄洒落があった。最近の日本人は米の消費が減って、パンをよく食べるようになった。私も朝食はパンのほうが多い。それでもやはり主食は米だ。外出したりして、なにかのはずみで一日中米のご飯を食べないことがあると、何かとんでもない忘れ物をしたみたいで、寝つきが悪い。
 それはさておき、アメリカを亜米利加と書くのは発音からの当て字だろう。亜国ではなく米国と略するのは亜細亜(アジア)の亜との混同をさけたものか。中国では「美国」と書くが、中国語の発音と似ているのだろうか。アメリカ人は男も女もみんな美人、ということになる。 言葉遊びをつづける。
 「歯」の字の中には米がはいっている。これは日本だけで使われている漢字らしい。日本人は米を食べるから、米を入れたのだろうか。誰が考えたのかしらないけれどうまくできている。
 「歯」のもともとの字は「齒」、中に「人」が四つはいっている。中華民国(台湾)では今もこの字を使っている。中華人民共和国(大陸)では簡略化して「人」を一つにしている。だから中国では人を食べている、なんてことはもちろんありえない。歯の形を三角形であらわしていたのが省略されて「人」になったものだ。四角い部分が口をあらわし、三角形四つで歯をあらわし、上の「止」の部分が「シ」という音をあらわしたものだと何かで読んだ記憶がある。
 永六輔さんが「ゲンキのキは氣と書こう」と提唱している。「氣」は「気」の古い形である。「メ」でなく「米」がはいっているところがミソ。米を食べてゲンキをだそう、日本の米作農業を守ろうという呼びかけである。
 米飯、麺類、パン類を食べたあとの歯の汚れぐあいを調べた人がいる。米飯がいちばん汚れが少なかった。歯にはやはり「米」である。

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1997/02/05 アドレス

 今年の年賀状には、ちょっとした異変があった。三〇〇枚ほどのうち一〇枚あまりに電子メールのアドレスが書いてある。昨年はインターネット元年などと言われたが、まだまだ前哨戦、今年がほんとうの元年になるかもしれない。いちばんのネックは通信コストだが、じょじょに改善されつつある。
 かくいう私も、年賀状に電子メールとホームページのアドレスを記した一人である。それを見た友人から、電子メールの年賀状第二弾を何通かいただいた。おたがいに、まだ物珍しさを楽しんでいる。
 市町村でもインターネットのホームページを作るところが増えてきた。私の地元、魚津市も今年になってホームページを開設した。さっそく覗いてみたら、きれいなイラストや写真がふんだんに使ってあり、なかなかに見栄えのいい構成になっている。専門業者に外注して作ったものだろうと思う。ずいぶんと費用もかかったことだろう。そのぶんデータのサイズが大きくなり、動きが重い。インターネットでいちやく有名になった山田村のホームページは手作りだ。いかにもシロウトくさいが、村民の参加があり、あたたかさを感じる。
 いま、全国で百数十人の歯科医がホームページを開いている。広告がわりのものもあるが、多くは外に向かって何かを主張している。しかし、これらは個人の責任で発表されているものであり、オールマイティではない。自分の得意な分野、自分の採用している学説・学派にかたよることはやむをえない。情報を発信する側にも受信する側にも自主性が求められているのがインターネットの特徴だ。 また、たいていはメールでの意見を受け入れている。そういう双方向性もインターネットの面白いところだ。
 〈付記〉筆者のホームページは http://www.micnet.or.jp/kyonc メールアドレスは kyonc@micnet.or.jp です。

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1997/02/17 労働者

 受付終了時間にいつも遅れてやってくる男性がいた。時間を守ってくれるように頼んだら、「われわれ労働者の医療を受ける権利はどうなるのか」と、逆におしかりを受けたことがある。「労働者」というほど武骨ではないけれど、医療機関にも働いている人間がいる。その権利はどうなるのか・・・・ しかし、それを言わせないような迫力があった。二〇年ちかく前のことである。 ふと、こんな昔のことを思い出している。
 以下は現在の話。
 「ちかごろの組合はおとなしくなったものだ」と仲間うちで話題になっている。
 健康保険本人の窓口負担割合が一割から二割になる。そのうえ薬代の一部が別途負担になるので、負担は確実に二倍以上になる。さらに、保険料も引き上げられる。踏んだり蹴ったりだ。 にもかかわらず、ほとんどの労働団体は声をあげない。ひとむかし前には考えられなかったことだ。保険制度への国庫補助率を引き下げたあげく支払いを延期し、国民の負担だけを引き上げる。こんな暴論がまかり通るとは、時代も変わったものだ。
 「世の中が豊かになったのかねえ」などと、あてずっぽうを言い、そう言いながらも首をかしげ、静かすぎることをいぶかしく思っている。 首切りもそうだ。いつのころからか「リストラ」と呼ばれるようになり、何がどう変わったのかは分からないけれども、なんとなく大した問題ではなくなったような雰囲気である。
 そもそもロウドウシャという言葉を耳にすることがない。バブル経済はなやかなりしころ、働くことと稼ぐことは別物と見る新しい物差しが普及した。働くことが尊ばれなくなった。医療関係の仕事などは7K(危険・きつい・きたない・給料がやすい・休暇がとれない・結婚できない・化粧がのらない)と言われ、嫌われた。 バブルのつけが、いろいろな形でやってきている。

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1997/03/03 寄席

 寄席に行った。新湊出身、立川志の輔師匠の落語である。
 場所は新川文化ホール。千席を超える広い会場だ。ナマの落語を聞くのは約二五年ぶり、椅子に腰掛けて落語を聞くのは初めてだ。テレビでは高座をアップで撮影しているから、それなりに演者の表情がわかる。しかし、この大ホールでは、表情どころか身振りでさえ細かいところは見えない。洋式トイレに初めて入った時のような戸惑いを覚えた。 学生時代、両国に長く住んでいた。隅田川をはさんで向い側が中央区、そのはずれ、人形町へよく行った。水天宮のすぐ近くに末広亭という寄席があり、木戸銭を払うと、長年使われてくろずんだ木製の下足札を渡される。中はタタミ敷きである。柳家かえる、柳家つばめという若手ライバル落語家がいて、体格も芸風も対照的だった。林家三平、三遊亭歌奴などが中堅クラス。都家かつえの三味線も好きだった。
 寄席が終わると、電車賃を節約するために三〇分ばかり歩いて下宿に帰る。木戸賃は、映画よりも安かったように思う。いまの落語家は噺家としてよりもテレビタレントとして生計をたてているのではないだろうか。当時はそのような副業もなく、落語界にとっては冬の時代。ほどなく末広亭もなくなってしまった。 志の輔師匠の噺の枕、いまふうに言えば「トーク」のなかで、東大出の人間はひとりひとりだとすごく頭がいいのに、あつまるとダラ(バカ)になる、という話があった。厚生省をはじめとする官僚の汚職のことである。
 高級官僚のもっとも困ったところは、国民をバカにしていることだ。自分は利口であると自負する人が集まって、みずからがバカになっていることに気付いていない。 テレビ出演などで忙しいなかでも、志の輔師匠は定期的に独演会を開いている。庶民の心を呼吸して、これからも社会の巨悪をチクリとやってくれることを期待しよう。

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1997/03/24 新しく・・・

 入れ歯がゆるくなって、ものを食べている最中に、はずれそうになる。新しく入れ歯をつくってほしい。 ・・・・そう言って、三月に来院した患者さんがいる。調べてみると、たしかにゆるくなっているけれども、それは「クラスプ」といって、残った歯にかかっている金属のバネの部分がゆるんできているのが原因だ。入れ歯がこわれたのではないし、顎の肉がやせてしまったせいでもない。バネの部分は使っているうちに変形してゆるくなることがよくある。わずかな調整で、ほぼ元どおりになる。ただし、微妙な調整なので、自分で勝手にやってはだめ。自分でいじくって、どうにもなおしようがないほど変形させてしまう人がいる。
 ともあれ、バネを調整して口の中にいれてみた。
 「これで、しっかりしたでしょう」
 「そうですね」
 あれこれと口を動かしてみて、そうですね、と答えながらも不満顔である。話を聞いてみたら、四月から保険の料金があがるから、早めに作ってもらおうと思ったのだという。なるほど自衛策だったか、と納得した。
 しかし、四月の保険の改定は、消費税の引き上げにともなう小幅なもので、変動はわずかである。消費税の影響分として〇・七%なにがしか引き上げられるが、薬剤や材料の価格の改定があり、全体としてはむしろ下がる計算になる。薬のほうは、たしかに開発費の回収などにともなって年々価格が下がっていく。いっぽう、医療材料が値下がりしたという話はとんと聞かないが、価格基準が下がっていくのが恒例になっている。
 そんなわけで患者さんの負担増はさほど心配はいらない。 ほんとうに大変なのは、今国会で審議される「医療保険改革」にともなう、負担割合の引き上げや薬代の別途負担である。 姑息な自衛をはかるのではなく、政治にたいして物申すことが大切ではなかろうか。

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1997/04/09 口呼吸 

慢性鼻炎やアレルギー性鼻炎などで鼻がつまっていると、鼻で呼吸ができないから、口で呼吸する。そのおかげで窒息しないですむのだけれども、口にとっては都合のわるいことがある。
 口で呼吸するため、とくに上の前歯付近が乾燥する。歯肉は粘膜なので、常に粘液でぬれていてこそ健康に保たれるようにできている。乾燥すると歯肉が慢性の炎症をおこし、ぷっくりふくらんで、独特な口呼吸性の歯肉炎をおこしてしまう。
 歯には唇によって前から後ろに向かう力がかかっている。これとは逆に、舌によって、後ろから前に向かう力がかかっている。口呼吸をする人は唇が開いたままなので、前から後ろへ向かう力が弱い。この二つの力のアンバランスがつもりつもって歯は前へでてくる。つまり「出っ歯」になる。 このように口呼吸は歯肉炎と歯列不正を引き起こす、というのは歯科の分野では常識である。しかし、それだけではないという。以下は学会で聞いた話の受け売り。
 鼻がわるければ臭覚が鈍くなるのは当然だが、味覚も異常をきたすという。味覚は、臭覚によって微妙に影響をうけているらしい。このように食べ物の「あじ」は、においや歯ざわり、姿かたちなどにも影響される総合的なもののようだ。
 つぎに、鼻がわるいと早食いになる。息がしにくいから、口の中にながいあいだ食物をおいておけない。さっさと飲み込まなくては息がきれてしまう。早食いは胃に負担をかけるばかりではなく肥満の原因にもなる。
 食物を飲み込みやすくするためや、口が乾くなどのため、水分摂取が多くなりがち。また、鼻という自然の空気清浄機をとおさずに空気を取り込むために、呼吸器系の病気にかかりやすいという。 口は、食べたりしゃべったりするのが本業だ。なにごとも本分をわきまえないといけないようである。

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1997/04/28 青天井 

 日本の医療費は、行なった治療行為に応じて費用を支払う「出来高払制」を基本にしている。この制度が医療費を「青天井」にするのだ、と批判されている。
 昨年度の全国最高は一ヶ月二千九六万円だった。難しい心臓手術の患者さんだ。おそらく、大病院が総力をあげて治療にあたったのだろう。一ヶ月一千万円を超えたケース六七件の大半は心臓・循環器疾患や悪性腫瘍の手術だったとのことである。いちがいに金額だけから高いとは言えない。
 不必要な薬や検査はもちろん問題だが、ひとりの人間の体に加えられる医療行為には、おのずから限りがある。さらに、「出来高払制」の場合には、医療内容が「診療報酬明細書」に細かく書かれて提出され、審査を受けてから支払われる仕組みになっている。
 代わって提唱されているのが「定額払制」。どんな治療をしようが、一律の費用にしてしまう。医療費を減らすための切り札と見られている。その究極の形はイギリスの「人頭払制」である。かつては「ゆりかごから墓場まで」と賞賛されたが、いまは医療の墓場だ。また、アメリカでは疾病別に費用を定めた「疾病別定額制」をとっている。いずれの場合にも、費用は一定額に決まっているから、最小限の医療にとどめようとする傾向が生じ、医療の質の確保が難しくなる。そのための監視機関が設けられ、医療内容をチェックしている。
 にもかかわらず、不思議なことに日本の医療費はアメリカの約二分の一、OECD二四ヵ国中二一位である(GDP比)。安上がりな医療制度として注目され、クリントン大統領の医療保険構想の手本にもなっている。また、日本の制度は「出来高払制」といいながら、じっさいには部分的に「定額払制」をとりいれている。
 出来高払制=青天井という言葉だけが独り歩きしているが、そう簡単に○×をつけるようにはいかないようである。  

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1997/05/19 口が狭い 

 いやーあ参りました。不便なものですねぇ。いままでのつもりでごはんをほおばったら、口の中が満員になって、いっちもさっちもいかなくて、目を白黒させて、やっとの思いで飲み込みました。口の中が狭くなったから、ひとくちにほおばる食べ物の量を加減しないといけないんですねえ。こんなに不便なものだとは思いませんでした・・・・
 初めて入れ歯をいれた患者さんのことばである。
 口の中は髪の毛が一本はいっただけでも大変な違和感がある。とても敏感な場所だ。そこへ、ときには小皿一枚くらいの大きさの入れ歯がはいる。これで何も感じないとしたら、むしろ神経が正常なのかどうか心配になる。
 入れ歯には歯ぐきをおおう部分があって、合成樹脂でできていることが多いが、強度をもたせるためにはある程度の厚さになることは避けられない。この厚みが、口の中を狭くし、しゃべりにくくし、また熱を伝えにくいためにノドにヤケドしそうになったり、というようにいろいろの問題を引き起こす。 樹脂のかわりに金属を使う方法だと、薄く作れるが、原則として保険ではできない。それに、薄くなったとしても、なくなるわけではない。熱は伝わるが、時間のズレがある。丈夫ではあるけれども、万一壊れたときの修理はむずかしい。一長一短である。
 ともあれ、かさばるのが入れ歯の宿命だ。抜けた歯の数が少なければ入れ歯も小さい。小さい入れ歯からじゅんじゅんに長い年月をかけて大きい入れ歯になった人は、少しずつ慣らされているから、まだしも新しい入れ歯になじみやすい。ところが、なが年にわたって抜けたままで放っておいた人は、いきなり大きな入れ歯をいれることになる。慣れるまでが大変だ。ながいあいだ放置すると歯や顎のズレなどの問題も生じる。
 自分の歯を大切にすることが一番だ、という月並みな結論に落ち着くようだ。

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1997/05/26 薬袋(やくたい)

 先日スーパーへ行ったら、錠剤の薬にそっくりな形をしたチョコレートが、薬とそっくりな包装で売られていた。固い台紙に透明なフィルムで固定してある。虫歯を作る薬のつもりだろうか。
  本物の薬に添付されている説明書を読んでいたら、包装から取り出して服用するようにと、わざわざ注意書きがあった。そのまま飲んでしまう事故が、じっさいに起こっているという。また、この包装のままだと、服用する数量を数えまちがうこともある。同時になくなるはずの薬が一方だけ残ってしまうことが、とくに老人ではめずらしくない。
  このような事故や間違いを防ぐため、1回分づつを分包する病院が多くなってきた。そうするとカサばかりが増えて、見た目にはいかにも大量の薬のように映る。また、慢性の病気の場合には、出す薬の日数についての規制が緩和され、一度に長期の処方できることになっている。通院の負担を軽くするためである。ますますかさばる。
  たとえば、4週間分の薬をもらったとする。一辺が7センチほどのパックに数種類の薬が1回分づつ分包されている。1日3回の服用とすれば、1日分で21センチ、4週で約6メートルになる。錠剤と粉薬がいっしょだと飲みにくいので別々にすると、さらに倍になる。これをグルグル巻きにして入れるのだから、薬袋からはみだすほどになってしまう。テレビでの「薬漬け医療」キャンペーンには絶好の映像となるらしく、アップで放映される。
  厚生省のお役人が国会答弁しているのをテレビで見た。「薬好きな国民性もありまして」と、薬の使用量がさも多いような口ぶりだったが、これは間違い。実際は先進国の平均をわずかに下回る。
  どうも、薬好きだと思いたがる、あるいは、思わせたがる国民性のようだ。などと益体(やくたい)もないことを言ってみたくなる。

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1997/06/04 人間とコンピュータ 

 「インターネットはトイレの落書きだ」 そう語るのは「インターネットはからっぽの洞窟」の著者、クリフォード・ストール氏。偶然見たテレビで、インタビューが放送されていた。
 「私が歯医者に期待するのは、その歯医者がコンピュータにくわしいかどうかじゃない。私の歯をちゃんと直してくれるかどうかなのだ」とも語っていた。まるで自分のことを言われたみたいで、ドキッとした。私が最初に手にしたパソコンは、まだ「マイコン」と呼ばれていた。ときには自作プログラムを投稿して悦に入っている。毎日のようにインターネットにアクセスしている。これがキーボードに触ろうともしない頑固者の言葉ならば、聞き捨ててしまうところだが・・・・
 氏の前著「カッコウはコンピュータに卵を産む」は、コンピュータネットを舞台にスパイ行為をしていたハッカーを追い詰める実話であり、世界的なベストセラーになった。氏の本業は天文学者だが、コンピュータの超一流の使い手でもある。
 テレビに映った姿は、まったく学者らしくない。ロック歌手のような髪の毛。からだ全体を使った身振り手振り。歯切れがよすぎて、縦横に話が飛び回るが、決して論点がずれているわけではない。
 ともあれ、「からっぽの洞窟」を読んでみた。コンピュータが人間に近づいたと思っていたら、じつは人間のほうがコンピュータに近づいていた──人と人、人と自然の触れ合いが失われ、人間性が失われていくことへ警鐘を打ち鳴らす書である。
 文藝春秋誌上で毎年行われている「文の甲子園」には、高校生たちの生の声がでていて面白い。今年(第六回)の入賞作品のなかに、学校では記憶することが強制され、忘れることを禁止されている、「僕らはコンピュータにならなければならないようだ」という内容のものがあった。
 電子立国日本もいいが、人間立国日本を忘れてはこまる。 

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1997/06/24 老人の尊厳 

 「寝たきり老人」という言葉が外国にはない、と聞いたのは約七年前だ。「寝たきり」ではなく「寝かせきり」なのだ、と福祉先進国の実例をあげて聞かされても、半信半疑だった。
 そんな話をしたのは大熊由紀子さん。朝日新聞の論説委員という肩書きからは想像できないような、女学生がそのまま年をとったような、不思議な雰囲気を持った方である。
 近著「福祉が変わる医療が変わる─日本を変えようとした70の社説」(ぶどう社)は大熊さんの執筆した社説を中心に、関連した話や後日譚などをまとめたものである。この本の最初のほうに、デンマークでの福祉改革に重要な役割をはたした看護婦ビエギッタさんの言葉が紹介されている。
 「痴呆のお年寄りには、入れ歯は特に重要です。まず、ご本人の自尊心のために、次に、まわりの人々がその方に敬意を払うために、第三に、食事を楽しめるように」 噛むことが最後にきているのは、私たち歯科医には少々不満ではあるが、実践のなかからの言葉に重みを感じる。しかし、痴呆症のお年寄りに入れ歯をいれるのは、なかなか大変だ。
たとえば── 入れ歯が急に合わなくなった、と来院した老人。数年前から痴呆状態になり、奥さんがいつも連れ添っている。なんだか形も変わったみたいです、と差し出された入れ歯をみたら、本人のものではない。口のなかをみたら、ちゃんと入れ歯がはいっている。その上から重ねて他人の入れ歯を入れようとしている。介護施設を利用したときに、間違って持ってきてしまったらしい。すぐに連絡して持ち主に返してもらった。
このように、思いがけないトラブルが起こる。入れ歯が個人の尊厳のために重要だとビエギッタさんが言うように、日本の老人たちの人格が尊重されているかどうか。入れ歯がやっかいものになっているのではないか、と気にかかる。

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1997/06/30 田毎の月

 所用があって長野自動車道を走った。上越から国道18号線を南下し、信州中野で上信越自動車道にはいる。更埴ジャンクションから先が長野自動車道である。山あいを縫って松本へ向かう。たいした交通量でもないのに四車線に整備されているのは、長野オリンピックのおかげなのだろうか。
 トンネルをいくつか抜けると、姨捨(オバステ)サービスエリアがある。地名からとはいえ、ずいぶん思い切った名前をつけたものだ。千曲川を見下ろす斜面には、いびつで小さな棚田がびっしりとへばりついている。「田毎の月」の本家だという。
 田毎に映る月のように、人にも、それぞれの老後がある。
 医療保険や介護保険をめぐって、「老人は身体的弱者ではあっても経済的弱者ではない」と断言した議員がいる。「年間の家計が三百万円、そのうちの月五千円程度の負担はせいぜい二パーセント」と解説した議員もいる。
 根拠は、厚生省の「国民生活基礎調査」にあるらしい。そのなかで、高齢者世帯の所得が調査されている。平均年収が三二〇万円(平成六年)である。しかし、この数字を鵜呑みにしてはいけない。
 まず第一に、一五〇万円前後の世帯が最も多く、およそ七割の世帯が平均以下になる。分布がいびつなのに、単純に平均値で代表させるのは間違いである。
 それ以上に問題なのは、「高齢者世帯」と「高齢者」の混同だ。六五歳以上の夫と六〇歳以上の妻の二人暮らしか、そのどちらかの一人暮らし、ただし一八歳未満の子どもと暮らす世帯を含む(*)──すなわち、子と同居する高齢者は除外され、経済的に自立可能な者を主な対象とした統計なのだ。該当するのは全高齢者の約四割である。これで高齢者を代表させることが間違いなのは言うまでもない。
 おかしな統計をひねり出した役人と、それを金科玉条のように振り回す政治家と、みんなまとめて山に捨てたほうがよさそうである。

 

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