BYPASS18  
 
機関紙誌等に発表した雑文等を掲載しています。


INDEX2008200920102011201220132014201520162017| 2018 | 2019



あけましておめでとうございます   2018.1.1



空間放射線量見直し  2018.03.03
「反核医師の会」MLへの投稿を収録しました

3月3日の新聞に「空間放射線量目安見直しへ」という記事がありました。
空間放射線量 0.23 μSv という数値が出てきます。それを「見直す」とは、緩めるということでしょう。
この計算の根拠は、たぶん、以下の通りと思います。 数字に苦手な私の推計ですので、あてにならないかもしれませんが……。
屋外8時間、屋内16時間 と仮定
屋内を「木造家屋」とすれば「低減係数」は0.4となりますので、 1日24時間を14.4時間として計算すればよいことになります。
 8+16x0.4=14.4
バックグラウンドの空間放射線量を、一般的に使われている 0.05μSvとすると 差引き 0.23 - 0.05 = 0.18μSvが過剰被ばく線量(時間当たり)となります。
年間被ばく線量を計算すると、
 0.18 x 14.4 x 365 = 946.08μSv/y
これで平常時は年間の(追加)被ばく線量の上限を1mSv/yとする ICRPの勧告値をクリアできる、という計算です。
実際に装着した線量計のデータから、被ばく線量は、それより少ないから 「見直せ」という乱暴な主張があるようです。 0.23μSv でも、普通にはありえない値なのに、「専門家」の感覚ってものはいったいどうなってるのやら??

注)年間1mSVについて
ICRP勧告による個人の線量限度の考え」(原子力百科事典ATOMICA)によれば、 放射線作業者の場合、年あたり20mSv(生涯線量1Sv)と見積もっている。公衆に関しては、低線量生涯被ばくによる年齢別死亡リスクの推定結果などを考慮し、実効線量1mSv/年を線量限度として勧告している。
公衆に対する線量限度を厳しく設定するのは、作業者と比較して被ばく期間が長い可能性があり、集団の中に各組織の放射線感受性が特別に高い小集団が含まれている場合があるためである─と記述されている。




核物質回収  2018.03.04
「反核医師の会」MLへの投稿を再編収録しました

3月4日の新聞に「不要核物質、国が集約断念」という記事がありました。
全国の大学や病院、民間研究機関など約1200か所に不要になった核物質が保管されており、 それらの核物質回収について、原子力規制委員会と日本原子力研究開発機構が協議していたが、話がまとまらず、協議の続行を断念した、と報じられています。
大学や病院に下駄を預けてしまうというのは、いくらなんでもひどすぎます。 原子力規制委員会がブラジルの「ゴイアニア被曝事故」を知らないはずはない。
あまりの無責任さに唖然・呆然・・・・・・

むかーーし読んだSFショートショートを思い出しました。星新一だったように思いますが、記憶は定かではありません。話は、自宅マンションに小包が配達されるところから始まります。国から発送された小包には書類が添えられており、そこには、「これは核廃棄物であり、貴殿の割り当て分なので、責任をもって厳重に管理するように」と書かれています。一体どうすりゃいいんだ・・・という話だったように思います。

注)ゴイアニア被曝事故: 1987年9月にブラジルのゴイアニア市で発生した事故。 同市内にあった廃病院跡に放置されていた放射線療法用の医療機器から放射線源格納容器が盗難により持ち出され、その後廃品業者などの人手を通しているうちに格納容器が解体されてガンマ線源の137Cs(セシウム137)が露出。光る特性に興味を持った住人が接触した結果、被曝者は249人に達し、このうち20名が急性障害の症状が認められ4名が放射線障害で死亡した。(ウィキペディアより要約)>




イタイイタイ病を語り継ぐ  2018.03.20
新日本医師協会機関誌への原稿を収録しました
2018.04.05 「新医協」 第1856号 (月2回発行)

百年の苦しみと五十年の闘いを伝え続ける
「イタイイタイ病を語り継ぐ会」のドキュメントライブに150人

 イタイイタイ病が公害病と認定されてから50年になります。原因は神岡鉱山から排出されたカドミウムの慢性中毒による骨軟化症であり、日本の公害病認定の第1号となりました。
 古くは16世紀に銀銅の鉱山として始まり、明治の初めから亜鉛・鉛の近代的な鉱山経営が開始されました。神岡鉱山の下流、神通川の流域で強烈な痛みを訴える病変が明治の末〜大正の初め頃から発生していたと言われています。
 1966年に被害者の家族らがイタイイタイ病対策協議会を結成し、三井金属鉱業を相手に訴訟を起こしたのが1968年。大変な苦難を乗り越えて、第7次までの訴訟が1972年に終結しました。
 2012年、土壌復元事業が完了。同年、富山県立イタイイタイ病資料館が開館。2013年末には神通川流域カドミウム被害団体連絡協議会が三井金属と全面解決の合意書を交わしました。2016年「イタイイタイ病闘いの顕彰碑」が建てられています。今年春には富山大学に「イタイイタイ病資料室」が開設されました。なんとなく「ひと段落」といった状況です。
 しかしながら、百年の苦しみ、50年の闘いと勝利─この歴史を伝えていかなければなりません。その教訓は、原発事故という未曾有の公害との闘いにも役立つでしょう。長年イタイイタイ病に向き合ってきた地元のジャーナリストを中心に、4年前、「イタイイタイ病を語り継ぐ会」が発足しました。
 本年2月25日に、同会の集まりがあり、ドキュメント・ライブ「小松みよと日本の近代」が発表されました。患者で原告の一員であった小松みよさん(故人)の言葉を中心に、当時の光景や新聞紙面などをスライド映写しながら、声優役のメンバーが語りかけます。集まった約150人の間に感動がひろがりました。
 併せて、「空気のなくなる日」で知られる作家岩倉政治さんが作詞し、地元の音楽家が作曲した「神通よ怒れ」も演奏されました。
 いろんな場面で「語り継ぐ」ことが重視されつつも、年月の経過とともに語り継ぐ人がいなくなっていくという困難に直面しています。この「ドキュメント・ライブ」という手法には、大きな可能性を感じました。
 新医協の岩倉会長が若かりし頃、カドミウム汚染を実証するため、流域の歯科医院を回って抜去歯を集めていたとのことです。10年前に開催された「新医協越中路学術集会」のメインテーマはイタイイタイ病でした。因縁浅からぬことを感じつつ、稿を終えます。

2018.02.25 イタイイタイ病を語り継ぐ会
あいさつする岩倉高子さん。(岩倉政治さんの次女、岩倉政城さんの姉) 右端は作曲された内山協一さん



暑中お見舞い申し上げます   2018.7.9





有機的協力に支えられ 2018.10.05
全国保険医団体連合会機関誌への原稿を収録しました
2018.10.05 「全国保険医新聞」 第2766号 (月3回発行)

 保団連を知ったのは、1970年ころでした。学園紛争の嵐が吹き荒れ、母校でもバリケードが築かれたり、ロックアウトされたり、騒々しい日々でした。
 あるとき、大学人や病院の勤務医、開業医をパネラーにして議論を交わす、という計画をたてました。そのとき、開業医への橋渡しとして保団連を紹介され、歯科協の今村国利先生とつながりができました。
 真摯に患者と向き合い、社会に目を向ける…開業医だってそういう生き方ができるんだ、と教えられました。
 79年に富山県保険医協会の設立に加わり、若くして役員となりましたが、実際のところ何をしていいか分からず右往左往していました。
 転機になったのは、93年秋におきた「富山個別指導事件」です。若き開業医を自殺に追い込んだ理不尽な個別指導…この問題に取り組む中で、多くのことを学びました。
 多面的多角的に迫っていく必要がある。そのときに、必要な資料を探し出し、しかるべく人またはグループに結び付けてくれる。そういう神経線維のネットワークのようなものが保団連でした。
 それから約10年後、県内で市民むけの「出前説明会」を70回余開き、その成果としての「グラフでみる医療改革」が刊行されました。これも協会と保団連の共同の成果です。
 協会と保団連の有機的な関係をこれからも守り育てていってください。




憲法をめぐって 2018.11.26
富山県保険医協会総会での発言を収録しました

 日本の国の形を変えようとする動き、特に憲法を変えようとする動きが活発になっていて心配だ。文言を変えないという意味での「守る」ということだけでは不十分ではないかと危惧している。
 戦前のドイツは憲法を変えずに全権委任法という法律をつくり、それを根拠に戦争に進んで行った。日本でも同じことが起こらないとは言い切れない。現在、自民党は改憲4項目の憲法条文案を示しているが、国民の注目を集める自衛隊の規定を明記することより、緊急事態に対応できる条項を入れることが一番の狙いではないかと心配している。
 改憲論者の中には、憲法の文言は変えなくてはいけないが、憲法が持つ基本的な考え方は変えてはいけないという人もいる。そういう人たちも巻き込んで何か行動をしていかなければいけないと思う。



表紙 Top Page 総合目次 Menu 更新情報 What's New 諌鼓を打て Menu 諌鼓を打て Contents

イワウチワ
イワウチワ