機関紙誌等に発表した雑文等を掲載しています。
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あけましておめでとうございます
2021.1.1
青年劇場の思い出 2021.01.28
2月18日、魚津演劇鑑賞会の例会で
青年劇場「キネマの神様」の公演があり、
それを機会に青年劇場の思い出をメモしてみた。
青年劇場との出会いは55年ほど昔(1965年?)のことです。魚津高校の講堂で青年劇場の演劇が上演されました。タイトルは忘れましたが、シェークスピアの作品でした。演劇鑑賞教室(学校巡回公演)が盛んだった時代です。
そのとき、ちょうど学校側とサークル活動をめぐってぶつかりあっていて、処分を恐れて不安を抱いたり、今後の活動で悩んだりしていました。ある先生が間を取り持ってくれて、劇団の宿舎を訪れることになりました。若者の文化活動について相談にのってくれるという。
夜、自転車で滑川市の宿に向かいました。もうひとりの仲間はバイクで合流。古びた旅館で、おもに対応してくれたのは後藤陽吉さんと瓜生正美さんでした。後藤さんはそのとき配役にはついておらず、資材を運ぶためにトラックの運転を担当しておられました。がっちりした体格と面構えから、俳優ではなく専属ドライバーかと思ったものです。瓜生さんは歳よりずっと若く見える小柄な方で、押入れの棚に腰かけて話しておられたのを覚えています。
そこではじめて「総括」なる言葉を教わりました。単なる反省ではなく、さまざまな視点から意見をだしあって、まとめていく。異論反論があったほうがいい。学校側との対立の中で、鬱々としていましたが、すこしは光が見えたような気がしたものです。
大学に進学して最初の年、後藤さんに誘われてメーデーに参加し、青年劇場の旗を掲げて行進しました。その後は関係が途切れてしまいましたが、大学のクラブで演劇部に(1年ほどでやめたけど)入ったり、夏休みに運送屋でトラックの助手(荷物の積みおろし)のアルバイトをしたのも、後藤さんたちの影響があったからかもしれません。
文中にある「ある先生」とは濱田實さん。新聞部や演劇部の顧問をしていて、のちに地域雑誌「新川時論21」や「都子さんメモリアルコンサート」で一緒に活動した。この1月18日に突然亡くなられた。朝、寝床の中で息絶えておられたとのこと。安らかな旅立ちであった。
「魚高新聞」縮刷版を調べてみたら、上演は昭和40年(1965年)9月20日、タイトルは「真夏の世の夢」だった。右の画像はその新聞縮刷版から取り込んだもの。
大学の演劇クラブでは、主に大道具を担当した。学園祭の上演では、タイトルは忘れたけど、
「衛兵2」という役で、セリフは「敬礼!」というひとつだけだった。
パイプをくゆらせながら指示を出すだけの先輩部員や、てんでバラバラな部員。
そんな雰囲気に馴染めず、1年たらずで退部した。
バイトの思い出 2021.02.10
青年劇場のついでに思い出をメモしてみた
学生時代、周りの学生のバイトといえば、「家庭教師」がほとんどだった。
時間のわりに稼ぎがいい。…しかし、点数稼ぎの受験勉強を経験していなくて、そんな勉強の仕方に反発を抱いていた。
自分は、他人にモノを教えるような人間ではない、と思っていたので、家庭教師はする気がなかった。
研究室の試験管などを洗うバイトや、病院の宿直(診察ではなく電話番)のバイトをした。
急患の受付が主だが、亡くなった患者を霊安室に運んだりしたこともある。
両国に住んでいたころ、夏休みに、近くの運送屋で「トラックの助手」のアルバイトをした。
大型トラックで運転手と一緒に行動して、荷物の積み下ろしをする。
面倒見のいい先輩の「助手」がいて、ロープの結び方などを教わった。
なお、小型のトラックには助手がつかず、運転手が積み下ろしもする。
荷物で多いのは土木工事や建築の現場へ運ぶセメント袋だった。1袋が20キロか25キロほどある。純粋な肉体労働だ。短期のアルバイトは私だけで、仲間は、結構長く働いている。
「いずれは免許をとって運転手に」というのが彼らの目標のようだった。
元従業員(トラックの運転手)で、いまはタクシーの運転手をしている人がときどき遊びに来た。
昔の職場で昔の仲間と楽しそうにひと時を過ごして、また仕事に戻っていく。
トラックの運転手も、次は「タクシーの運転手」、さらに「路線バスの運転手」というのが
「出世」の道だと言っていた。
あるとき、ペアで仕事をしている運転手が、「今日はやめた」と言い出した。
何があったか分からないけど、その日は仕事がいやになったらしい。
「車が故障した」と運送屋の頭に言って、その日は車の整備で終わってしまった。
運送屋の頭というのは、元はトラックの運転手で、その運送屋の娘と結婚して、いまは仕事を差配している。
故障のウソは見抜いていただろうけど、見逃してくれたのだと思う。
ひと夏だけのバイトだったけど、若かったからこそできた貴重な体験だ。
大震災を忘れない 2021.03.15
とやま保険医新聞 第432号 掲載の原稿
東日本大震災から10年になります。JMATに加わっていわき市へ行ったのは震災から1か月後、4月8日〜13日の第6陣でした。そのときの光景が、いまだにくっきりと目に浮かびます。中里先生、山守さんをはじめ、自らが被災しているにもかかわらず、一緒に行動してくださった現地の歯科医師・歯科衛生士の方々を思い出すと、胸にぐっとくるものがあります。
あらためてもういちど言わせてください…ありがとうございました!
当時のJMATは医師会が中心になって、看護協会、薬剤師会などが協力していました。富山では協会事務局を介して歯科医師が参加する手筈をととのえ、志願者を募り、リストアップしていましたが、JMATそのものが終了になり、私一人で終わってしまいました。
あとで知ったことですが、歯科医師が参加するのは「異例」だったとのこと。これには驚きました。今後はぜひ歯科が加わることを「通例」にしてほしいと思います。被災した人たちの身体はひとつ。ばらばらにアプローチする意味はありません。
あれこれと考えて準備していったものが、的外れだったこともいろいろとありました。
たとえば、歯ブラシとスポンジブラシを8百本余持っていきましたが、ほとんど活かすことができませんでした。「少ない水でもできる口腔衛生」を想定していましたが、予想以上に水回りの復旧状態が悪く「水がなくてもできる口腔衛生」が必要でした。これも貴重な教訓です。
いわき市にいる間に震度6弱の地震を2回経験しました。富山は地震の少ないところです。私じしんは2007年の能登半島地震での震度4が最大の経験でした。震度6弱は、身動きが取れなくなるような恐ろしいものでした。
巡回診療さきの避難所で、余震が来た時、衛生士さんにしがみついたお婆ちゃんがいました。私も、しばらくは風で窓ガラスが音をたてただけでもビクッとしていました。夜寝ていても、余震が来ると目が覚めます。
先日、地区の老人会で歯の話をする機会がありました。その後半を東日本大震災の話にあてました。現地で見聞したことや災害時の歯のトラブルや口腔清掃の大切さなどを話しました。前半の口腔衛生の一般論よりも、聞き手の集中度は高かったように思います。
東日本大震災以降、先日の福島県沖地震を含めて、震度6強以上の地震が国内で12回起きています。同じ時期に火山噴火が10ヶ所以上。台風や豪雨もあります。つくづく日本は自然災害の多い国だと思います。
いかに教訓を語り伝え、活かしていくか。ごく短期間の体験をしただけですが、まだまだやるべき仕事は残っています。
「虫歯の洪水」で溺死寸前 2021.07.20
新日本医師協会機関誌への原稿を収録しました
「新医協」第1924号(2021.07.20)〜第1925号(2021.08.20)
私が大学に入学したのは1966年。歯科技工士だった父から、歯学部でなければ学費はださない、仕送りしない、と言い渡され、入学したものの鬱々としておりました。
専門課程に進んだとき、他になりようがないなら、しっかり学んでまっとうな歯科医になろう、と殊勝な改心をしたのでした。きちんと授業に出て、先輩たちから声をかけられた勉強会などにもこまめに出ていました。新医協前会長・岩倉先生との出会いもこのころです。
専門課程の授業科目の中に小児歯科学がありました。教科書は市販されているものではなく、ところどころ文字がかすれています。タイプ印刷を簡易製本したものでした。
1967年、歯学教育のカリキュラムに小児歯科学を入れるよう通知がだされ、すべての歯学部に小児歯科が設置されるようになっていきました。小児歯科の黎明期です。
別の学科ですが、日本語の本がなくて、洋書を買い求め、講義が終わったときに神田の古本屋に持ち込んだことがあります。そしたら、改訂版がでているからダメだ、と買取を拒否されました。日本では成書がないというのに、欧米では改訂版が次々とでているのです。そのギャップに驚きました。
当時代々木病院の歯科に勤務し、大学の歯科麻酔科で研修していた笠原浩先生とつながりができて、いろいろと教えていただいたり、地域の健診などを経験させていただきました。健診と口腔衛生指導などで、歯学部の学生と衛生士学校の学生がチームを組んで活動しました。やがて、都内の歯科系の学生をつなぐ組織「歯科医療研究会」なるものを作って、日常的な活動を行うようになりました。
そのころは「虫歯の洪水」と言われた時代です。
ちかごろは保育園の歯科健診で、虫歯のある子はクラスに1人か2人です。虫歯がたくさんあると育児放棄(ネグレクト)ではないか、と疑われます。
「虫歯の洪水」の時代はまったく逆で、虫歯があるのが普通。虫歯のない子は、どうして?と注目されます。なにか特別のことをしているのだろうか、などと詮索したものです。
大学を卒業し、病院に勤務していたころは、治療に困難をともなう「非協力児」や障がい者のために鎮静法や全身麻酔などを使っていました。
笠原浩先生は、この分野の先駆者でした。笑気アナルゲジア(笑気ガス吸入鎮静法)やセデーション(静脈内鎮静法)、全身麻酔下集中治療の指導を受けました。
麻酔している間に、何本もの歯を歯髄処置から歯冠修復までやってしまう。口の中の状況が一変してしまいます。成果が見えやすい治療手段でした。
私が郷里で開業して40年余りがたちました。開業時に導入したレストレイナー(患児固定装置)のネットが傷んできて、交換しようと思い、出入りの業者に訊いてみたら、きょとんとしています。いまどきは扱うことがほとんどなく、何のことか分からなかったようです。
私のところにはレストレイナーが2台あります。「虫歯の洪水」の時代には、1台では間に合わなかったのです。最近は、めったに使わないのですが、それでも、1台は使ええるようにしておこうと思ったのでした。
開業したころは「虫歯の洪水」の真っただ中です。朝9時に診療室に入ると、昼食のために30分ほど抜け出して、そのあと夜の9時過ぎまで、ずっと休みなく診療するという日々が続きました。
こんなことをしてたら死んでしまう。「虫歯の洪水」で溺死だ‥などと思い悩みつつ、酒を飲んで気分を紛らわせていました。
学生時代、「歯科医療研究会」の仲間だった故鈴木康生先生が、そのころ昭和大学小児歯科の助教授になっていました。悩みを話し、短期間でしたが、彼のところで週に2日、研修させてもらいました。いろんな臨床や研究に触れさせていただきましたが、とくに興味を引いたのは「咬合誘導」でした。
咬合を管理していくテクニックも面白いのですが、健全な永久歯列に導いていく、という考え方にひかれました。
永久歯列への影響という点では岩倉政城先生の「指しゃぶり」へのとりくみもインパクトがありました。それまでは、開咬や交差咬合の原因として、やみくもに止めさせようとしていましたが、少しはおおらかな気持ちで対処できるようになりました。
とりとめのない話になってしまいました。この50年ほどのあいだに、成長発育の流れの中で、そして、心を含めた全身とのかかわりの中で、子どもを診ていくようになってきました。教科書もなかった時代から、ずいぶんと変わったものです。
喪中
2021.11
イワウチワ