BYPASS05  
 
『とやま保険医新聞』のコラム「バイパス」など、機関紙誌に発表した雑文を掲載しています。


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あけましておめでとうございます   2005.1.1




バイパス (とやま保険医新聞コラム) 2005.1.5 第272号


 「三位一体」はキリスト教の根本をなす神学上の重要な概念であるらしい。
 <創造主としての父なる神と、贖罪者キリストとして世に現れた子なる神と、信仰経験に顕示された聖霊なる神とが、唯一なる神の三つの位格(ペルソナ)として現れるとする説>(広辞苑より)
 「聖霊」と「精霊」をとりちがえそうになる門外漢には、解ったような解らないような話である。ともあれ、このことから、三つの要素が不可分に結びついていることを「三位一体」と言う。
 いま話題の「三位一体」は、国庫支出金を減らす、税源を地方に移譲する、地方交付税を見直す、これによって地方分権をすすめることとされている。
 「三方一両損」以来、聞こえのいいキャッチフレーズを振りかざしているが、いつも裏がある。差引勘定で大幅マイナスとなる「地方」が、どこで帳尻を合わせようかとやっきになっている。まっさきに目をつけられているのは、障害者や難病患者の福祉や医療への支出である。
 憲法を引き合いに出すまでもなく、国民を守るのは国の第一の責務である。国が手を汚さずに「地方」に泥をかぶらせ、福祉を後退させようという魂胆のようだ。



バイパス (とやま保険医新聞コラム) 2005.2.5 第273号


 もし火星人の科学者がいたら、もし火星人の新聞記者がいたら‥‥著名な言語学者にして反戦活動家でもあるノーム・チョムスキー博士がよく使うたとえである。
 「真珠湾」を怒る同じ人が、どうしてヒロシマ・ナガサキに平然としていられるのか、イラクで行われていることがアメリカで行われたらどう思うか、と博士は問いかける。先入観を捨て、利害を超えて、物事を見なさいという戒めであろう。
 人類は言語のおかげで共通の知識、共通の理解を得ることができるようになったが、いっぽうでは人をだます道具にもなる。
 ある日の国会中継を見ていてあきれた。何を聞かれても首相は「適切に判断します」と繰り返し、適切とは何かと聞かれて「適切は適切だ」と言い放つ。これがコントのやり取りなら、そこそこ受けるかもしれない。
 「改革」や「民営化」の名のもとに多くが語られる。「郵政民営化」の主眼は、コストダウンでもサービス向上でもなく、貯金や年金として「退蔵」されている巨額の資金を市場に放出させることにある。経済効果は「振り込め詐欺」と同じだ。
 もし傍聴席に火星人がいたら‥‥




介護保険フォーラムのお知らせ  2005.04.19


 介護保険がスタートしてから5年が経過し、見直し案が国会で審議されています。大幅な負担増、サービスの利用制限などが目論まれています。
 かつて介護保険が成立したとき、当時の厚生省は「社会保障の未来像」であると胸を張りました。障害者の支援費制度が、まずは「介護保険化」されようとしています。利用者の不安や介護従事者の劣悪な労働条件は省みられることなく、財政問題だけが暴走しています。
 5月8日(日)、AM10時より、フコクビル2Fホールにて緊急フォーラム「これでいいのか!?介護保険」を開催します。

⇒案内チラシ(GIF:約30KB)



偏見でも妄想でもなく  2005.06.05
とやま保険医新聞


 ある著名なジャーナリストの著書を読んでいて、おや?と思ったことがあります。引用されている統計数値の出処に疑問を抱いたのです。普通には手に入りにくいデータが使われていました。そこで、著者について調べてみたら、厚労省の審議会委員でした。その立場を利用してデータを入手した、あるいは、当局が自分に都合のいいデータを提供して書くよう仕向けた、そのいずれかだろう、おそらく後者だろうと推測しました。
 それ以来、国政に関連するテーマの本を読むときは、著者が諮問機関の委員でないかどうか、チェックするのが習いになりました。
 ある学者の興味深いインタビュー記事がありました。かつて国の政策を厳しく批判したところ、役所のもっている資料を提供してもらえなくなり、研究を進めるうえでたいへん難儀したとのことです。そののち宗旨変えしたか、政府の方針が変わったかして、諮問機関の委員となり、いまや大物御用学者になっています。
 マスコミ関係者が少なからず諮問機関に委員として加わっています。自らの意見を主張するなら、世論に訴えるのがスジだろうし、情報を得るためなら、情報公開を求めるなり傍聴を求めるなりするのがスジではないでしょうか。
 マスコミは「第4の権力」と言われます。米国ではシンクタンクを「第5の権力」と言うようです。日本の民間シンクタンクにはさほどの権威はありません。むしろ政府の諮問機関が「第5の権力」と言うにふさわしく、しばしば立法府の議論よりも権威ありげに報道されます。「第5」が「第4」を凌駕し、掌中で踊らせています。
 マスコミ報道の統計の扱いにはしばしばがっかりさせられます。政府発の情報を、そっくり鵜呑みにして報じる。たとえば、某通信社が配信した最近の記事に「介護保険の在宅給付費が5年で3倍に増えた」とありました。給付費が急増しているから、抑制はやむをえない、とする根拠のつもりでしょう。が、制度発足時のデータと比較して、どんな意味があるのでしょうか。赤ん坊が産まれて5年たつと、体重が5倍強になります。百歳の人は小錦よりも大きくなりますか?
 数字にはなにかしら権威があります。そのため数字の前に最初から平伏してしまう。統計学的な検証がどうのというような高度なことを求めるのではありません。恣意的に集計され解釈されていないか、まずは疑ってみる、そういう基本的な姿勢を忘れないでほしい。
 ライブドア騒動は、企業買収をめぐるアノ手コノ手が注目を集めました。その間、マスコミのあり方についての重大な問題提起は、ついに表立って論じられることはありませんでした。ホリエモン氏によれば、儲かるかどうかが価値判断の基準であって、人気のない番組はゴミ、知られざる事実を堀り起こそうなんてムダ、ジャーナリストの気概などは「思い上がり」だ、という。その部分で議論をしなかった(できなかった)フジの側がなさけない。
 事実を誤りなく伝えるという、報道の基本がゆらいでいます。
 いっぽうで、マスコミにあっても現場に近いところで働いている記者には、ジャーナリズム魂のようなものが生き続けているのは確かです。フリージャーナリストは、危険を省みず紛争の現場に飛び込んでいきます。インターネット上では硬派の報道メディア作りが模索されています。やがて「第5の権力」を駆逐してくれることを期待します。

     とやま保険医新聞の前号(05.04.15)に読売新聞社会部記者、原昌平氏の「偏向報道か、被害妄想か」と題した講演録が掲載された。報道が「医師への悪意」に満ちているとする見方は被害妄想だと主張している。とはいうものの、毎日新聞論説委員の山路某のような、あきらかな敵意を持っている者もいる。偏見や思い込みのせいで的が外れている言説は、少なくない。だがしかし、感情的な対立を抉ってみても何の役にもたたない。主要な問題は、マスコミの情報リテラシーの欠如、政府情報への依存・追随にある。


応益負担を課す「障害者自立阻害法」
とやま保険医新聞  2005.6.25(第277号)

 軽度要介護者ほど重度化の率が高い、介護を受けることでかえって重度化する、筋トレで改善する、などと盛んに宣伝されています。しかし、ここにきて裏づけとなるデータの信頼性が崩れてきました。
 最近では、軽度認定者が2倍に増えた、居宅介護給付費が3倍に増えた、赤字保険者が3倍に増えた、などと財政危機を煽るだけの空疎な情報が当局から流され、マスコミは無批判にそれを報じています。
 介護保険成立当時の「老人は金持」キャンペーンと似通っています。

 介護保険がスタートしたとき、厚生省(当時)は、社会保障の未来像を示した、と胸を張りました。
 日本国憲法や世界人権宣言にあるように、社会保障は人権にもとづくものとされ、能力に応じて負担し必要に応じて給付を受ける「応能負担」が原則になっていました。いまは「応益負担」が原則とされ、定率負担や、いわゆるホテルコストの負担が、受給を抑制しています。
 竹中平蔵氏は大臣になる前の著書で「もっとも公平な税制は人頭税だ」と主張しています。応能負担は「勝ち組」の足をひっぱり経済活動の活性を損なう。競争原理の貫徹こそが「公平」とする論理です。

 障害者福祉に「支援費制度」がとりいれられましたが、さらなる「介護保険化」、すなわち応益負担を持ち込もうとするのが障害者自立支援法です。
 たとえば、1ヶ月共同作業所に通って1万円の手当てをもらっていた障害者が、1割負担が実施されると、逆に1万円支払わなければならなくなります。わずかなお金を励みにしていた障害者にはむごい仕打ちです。
 なによりも障害者が怒っているのは、福祉が「利益」と呼ばれることへの反発です。健常者には遠く及ばないけれど、なんとか生活できる、というレベルの福祉サービスに「応益負担」を課す。世界に例のない制度であり、「障害者自立阻害法」、「障害者引きこもり推進法」だと揶揄されています。


夏の終わりに
 2005.8.31「核兵器廃絶をめざす富山医師・医学者の会」会報

 ああ、この国はまた戦争をするのかもしれない。この夏、そんな思いに駆られた。
 「非常時」という言葉の下にあらゆる不条理が覆い隠され、やがてヒロシマ・ナガサキに至った歴史が、繰り返されているように思えてならない。「カイカク」という呪文が全ての思考を停止させ、異議申し立ての声をあげる者はまるで「非国民」のようにみなされる。
 戦争に突き進んだ指導者と、それを許した社会が、いま再現されつつある。
 戦争となれば、手段を選んではいられない。日本には、高濃度のプルトニウムが5トン以上備蓄され、それは核兵器600発以上を製造できる量だという。日本の技術力をもってすれば90日で核兵器を作ることができる、ともいわれる。
 セミの鳴き声が遠ざかり、夏の暑さが忘れられていく。どんなに歳月が経とうとも、忘れてはならないことがある。アンゼラスの鐘よ鳴り響け。

    (注)04年末時点で、日本国内に備蓄されているプルトニウムは約5.7トン。再処理のため英仏に送られている分を加えると、日本の所有するプルトニウムは約43トンになる。六ヶ所村の再処理工場は年間800トンの使用済み核燃料から6トンのプルトニウムを取り出す計画である。



アンゼラスの鐘

映画「アンゼラスの鐘」の上映会を開催しました。
詳しくは上の画像をクリックしてください。




バイパス (とやま保険医新聞コラム) 2005.9.25 第279号


 気が変だとしか思えないんだけど、人気さえあればアレでいいんですかね。この国の先行きが心配になるなあ。俺は年寄りだから先々のことはいいけどさ‥‥衆院選挙のさなか、長く保守系の地方議員をしている方が、ため息まじりに語った。「アレ」の部分は、いくぶん声が低くなる。
 今の世の中、タカ派が流行るようだ。アメリカのブッシュはもちろん、小泉首相に続いて、民主党までもタカ派で知られる前原氏が代表になった。
 「鷹化して鳩となる」という季語が俳句の世界にあるという。俳句の門外漢が辞書で調べてみた。獰猛な鷹が、穏やかな陽気に染まって鳩になってしまう、という意味で、春の季語だという。鷹そのものは冬の季語である。
 残暑のなかで、そうか今は冬なのだ、と納得した。「鳩化して鷹になる」である。世界を覆う困難な状況を打破するために、立ち行かない生活から抜け出すために、強力なリーダーシップを求める。争いを好まないはずの鳩たちが背伸びする。
 鷹は飢えても穂を摘まず、という諺がある。正義のために雄々しく闘うが、決して民を困らせない。タカ派のタカとは、だいぶ違うようである。

付録:選挙結果を祝福するパロディ → PDFファイル(約15KB)


9条をまもれ 25条をいかせ 

ちいさな旗をかかげよう  2005.10.27


    この日、地区の労働団体の集会に「九条の会からのメッセージを寄せてほしい」との依頼を受け、出席した。

 私は「憲法9条の会in富山」の呼びかけ人のひとりです。昨年6月、井上ひさしさん、大江健三郎さんなど9人の方がたが中央でたちあげた「9条の会」は、9条を守れという1点で連帯する組織です。富山県版9条の会もまた、そういうゆるやかな結びつきをもとにした組織です。ですから、会を代表してご挨拶する、ということは難しいのでして、会のメンバーの1人が、その個人的な意見を含めてご挨拶申し上げる、というふうにご理解をお願いします。

 9条の会は地域だけでなく、職域での組織作りを呼びかけています。「9条の会・医療者の会」というのがありまして、9月25日、朝日新聞に出した意見公告のキャッチフレーズは、「守ろう憲法9条、生かそう憲法25条」です。

 日本国憲法が公布されたのは1947年11月3日、施行されたのは48年5月3日です。同年12月10日、国連で世界人権宣言が採択されました。人権の無視や軽視、差別や格差が戦争を生み出した、という歴史の反省の上に立ち、人権を守ることが平和の基礎である、と世界に呼びかけました。第22条で社会保障を受ける権利を謳い、第25条で医療・福祉を受ける権利を謳っています。平和を求めることと、社会保障を充実すること、このふたつは密接に結びついています。

 戦争をなくすために民主主義を広めようというのが人権宣言の趣旨なのですが、さすがブッシュといいますか、民主主義を広めるためには戦争も辞さない、と読み替えました。
 「民主主義は銃口から生まれる」‥懐かしいですね。毛沢東思想(革命は銃口から生まれる)のもっとも忠実な後継者はアメリカなのかもしれません。

 社会保障関係の法律を調べてみたことがあります。
 戦後早い時期にできた法律は、冒頭で「憲法の理念」を謳っています。たとえば教育基本法。前文で「日本国憲法の精神に則り‥新しい日本の教育の基本を確立する」と謳っています。国民年金法、生活保護法なども同様です。
 その後、憲法の理念などという格調高い言葉は姿を消してしまいます。それでも、真っ先に国民の権利を明文化しています。ところが、80年代以降の法律では国民の義務を先にもってきます。たとえば老人保健法は「自助と連帯」、介護保険法は「共同連帯」をまっさきに掲げます。
 憲法を舞台から降ろして楽屋に引っ込めるような立法が、ずいぶん以前から行われてきました。それを見過ごしてきたことを、私たちは率直に反省しなければなりません。

 ともあれ、今日は9条の会のメンバーとして呼ばれましたので、25条はこれくらいにして、9条のことを訴えたいと思います。

 ことしの5月6日、富山の県民会館大ホールで「富山県憲法の集い」が開催されました。
 このとき、鶴見俊輔さんと澤地久枝さんが講演されました。澤地さんの作品は読んだことがなかったのですが、この日、澤地さんにお目にかかり、お話を聞いて、いっぺんにファンになりました。

 戦死者何名として片付けられてしまいがちですが、兵士にはそれぞれ何の何某と名前があり、それぞれの人生を背負って戦場へ行きました。残された家族は、大切な人を失ったことへのそれぞれの思いを抱きながら生活を営んでいます。
 澤地さんは、日本だけではなくアメリカまで出かけて、彼我の兵士や兵士の家族を丹念にインタビューし、そこで得られた生の声をもとに作品を書いておられます。そして、戦争というものは、勝った負けたということにかかわりなく、多くの国民が犠牲になり、おびただしい不幸がうみだされるのだ、と語られました。
エノコログサ(ネコジャラシ)
 私は戦後派で、とうぜん戦争体験はありませんし、私たちの親の世代は、戦争について多くを語りませんでした。戦争のイメージの源になっているのは何なのか‥思い当たるのは、高校時代に文庫本がぼろぼろになるほど繰り返し読んだ大岡昇平の「野火」です。これは、読んで面白くも楽しくもない小説です。なにしろ、敗残兵が追い詰められて人肉を食うという話です。いまどきこんな本を読み耽ると、変態扱いされかねません。
 
 負けたからみじめなのではありません。キレイゴトでは戦争はできません。細菌兵器を使う国もあれば、原爆を落とす国もある。いったん戦争を始めれば、手段を選ばなくなる。いちばんひどい目にあうのは、兵卒であり、国民です。

 澤地久枝『私のかかげる小さな旗』講談社文庫を持ってきました。表紙にエノコログサ(ネコジャラシ)の絵があしらわれています。「小さな旗」に見立てているのでしょう。この本の冒頭にある言葉の一部を紹介します。

     いま、あえてかかげようとする旗は、
     ささやかで小さい。
     小さいけれど、誰にも蹂躙されることを
     許さない私の旗である。
     かかげつづけることに私の志があり、
     私の生きる理由はある。

 この会場へ来る途中で、道端にあったエノコログサを摘んできました。欲張って2本、胸のポケットに挿しています。1本は9条のために、もう1本は25条のために。
 今日は立派な組合旗が飾られています。それはそれで大切にしていただきたいのですが、みなさん一人一人の心のなかに、誰から何を言われても絶対に譲ることのできない小さな旗を掲げて生きていこう、と呼びかけて、私の挨拶を終わらせていただきます。


2005.11.16 富山県保険医協会 第26回総会

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「医療改革」討論での発言

連日「医療改革」関連ニュースが報じられ、どきどきはらはらしながら新聞を広げる毎日です。

目標値を定めて上から医療費を抑制する。それが「改革」なるものの中身ですが、ここでいう医療費は「公的医療」です。経済財政諮問会議の本間阪大教授(民間議員)によれば、医療費が増えることは一向に構わないし当然でもある、しかし公的な支出は減らさなければならない、とのことです。その差の分は自費でまかないなさい、ということですが、保険収入が減っても自費収入が増えるなどと甘い期待を抱かないで下さい。アメリカの「年次改革要望書」が繰り返し「要望」しているように、日本の医療市場をアメリカの医薬・医療機器業界が虎視眈々と狙っています。

ある経済官僚の書いた本を読みました。経済官僚の書いた社会保障入門書です。最後のほうで、現場の体験や経験は公平な判断を鈍らせる。現場から離れてこそ公平な判断ができる、と豪語していました。数字を眺め、これを削って、あっちを増やして、これで世の中がうまくいく、などとやるのが公平だというのです。

苦しんでいる人がいて、それを何とかしようとして四苦八苦している、私たちは、そんな現場こそが大事だと考えます。現場の声を上げていきたい。

ところが近頃の風潮は、天下りや談合を叩いて世論の関心をそらし、公務員を叩いて世論を欺く、いまは医者を叩いて医療保障の後退から目を逸らさせる、という具合に、世論操作がたいへん巧みになっています。残念ながら、医師や歯科医師が声を上げても、なかなか聞き入れてもらえないという状況です。

ですから、医師だけでなく、全ての医療関係者、患者を巻き込んで声を上げていかなければならない。

すこし視野を広げると、医療ばかりではなく、社会保障の全ての分野で後退が目論まれています。介護保険はすでに来年度から大きな変更が始まります。障害者自立支援法という、まことに結構な名前の、実はおおきな負担を強いる法律が成立しました。生活保護も切り捨てようとしています。若者達はまともな職につけず、いまは親世代が必死に支えていますが、10年20年とたったとき破局が来るでしょう。これらの人たちと連携して声を上げていかなければならない。

とはいうものの、いったい何をすればいいのか、ぜひいろんな意見や提案をお願いします。

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閉会の挨拶

 本日はみじかい時間ながら活発な議論をすることができました。多くのご意見、ありがとうございました。今後の活動に生かしていきたいと思います。

 今月7日、福井県で「火葬場心中」という痛ましい事件がおきたと報道されています。80歳の男性と82歳の女性、2歳年上の姉さん女房です。奥さんが認知症を発症して、ご主人が世話をしていたけれども、最近は体調を崩していたそうです。今は使われていない古い火葬場の炉の中に、薪を積み、二人で焼身自殺しました。年老いた夫婦が自分を焼くための薪を運ぶ姿を想像すると切なくなります。

 だいぶ以前になりますが、新川地区で焼身自殺による心中事件がありました。老人とその孫でした。孫は、私のところに受診していましたので、焼け残った歯から身元の確認を依頼されたのですが、黒焦げになった歯からは、残念ながら判断不能でした。孫は発達遅滞のある障害児です。老人が病気になったのをきっかけに、将来を悲観して孫を道連れに自殺したらしい、とのことでした。

 病気になったとき、障害をもったとき、年をとったとき、先行きを悲観して生きる望みをなくするようなことのない社会にしたい。そのための社会保障をしっかり守っていきたいと思います。今後ともご協力をお願いします。



2005.11.17「富山の医療と福祉と年金をよくする会」学習集会

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開会の挨拶


 あれやこれや、なんでもありの医療改悪が進められようとしています。あまりに多岐にわたるため、全体像をつかむのは容易ではありません。しかし、ある意味では非常に単純でして、社会保障給付費すなわち公的医療の支出を減らせ、と言っているだけです。国民の負担は増えてもいっこうに構わない。
 厚労省の「医療制度構造改革試案」は、経済財政諮問会議が尻を叩いて出させました。諮問会議の写真を見ますと、小泉首相と奥田氏(トヨタ自動車会長)が向かい合って座り、奥田氏の横には牛尾氏(ウシオ電機会長)、その脇に、本間氏(阪大教授)、吉川氏(東大教授)が用心棒みたいに控えています。
 医療制度構造改革試案の源をたどると経済財政諮問会議があり、さらに日本経団連の「日本社会の将来展望」(通称・奥田ビジョン、03年)に行き着きます。社会保障給付を20兆円減らし、消費税を16%にするよう提案しています。いっぽうで法人税は下げろという。企業あっての国であり国民だと主張しています。企業を厚遇しないと、日本を見捨てて出て行ってしまいますよ、と脅しています。
 日本は貿易立国だとか技術立国だとか言われてきましたが、奥田氏の鼻息の荒さを見ていると、なんだか「トヨタ立国」みたいです。トヨタに代表される「グローバル企業」だけを大事にする国になってしまいました。
 今日は、医療「改革」の全体像を理解すると同時に、その根底にあるものに対して、どうやって反撃したらいいか考える機会にしていただきたいと思います。


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