諌鼓を打て
『とやま保険医新聞』のコラム「バイパス」など、機関紙誌に発表した雑文を掲載しています。
《1993|1994|1995|1996|1997|1998|1999
|2000》
あけましておめでとうございます
1997.1.1
1997-01
あけましておめでとうございます。とはいいながら、なかなか年が明けた気分になれない。
全国紙の九六年一〇大ニュースをみると、順位に違いはあるものの、各紙とも岡光次官の汚職、O157、薬害エイズをあげている。一〇のうち三つまでも厚生省。かつて、これほどまでも厚生省が世間の耳目を集めたことがあるだろうか。
堺屋太一氏によると、倫理の崩壊には腐敗と頽廃があるという。腐敗とは、犯罪であることを自覚しながら隠れて行うものである。いっぽう頽廃とは自らの行為が不正であるかどうかの自覚がない状態であり、より深刻である。いまの官僚組織は「頽廃」の段階にある、と堺屋氏は断じている。
もっと深刻なシステムの崩壊がすすんでいる。医療費を上げても医師夫人の毛皮のコートに化けるだけだ、という有名な「医療費毛皮」論。また、「国民負担率」にはまだまだ余裕があり、「死ぬまえに財産を使い尽くしてもらう」との「老人金持」論。このような偏見に満ちた前提から出発し、省益を優先し、利権を開拓する。かように事を運ぶうえで、各種審議会が隠れ蓑に利用されている。中立と権威を装ってはいるが、実際には厚生官僚が脚本を書き、厚生省OBと御用学者をメインキャストとして演出される。医療や福祉を担当する団体の代表は脇役、もっと悪くいえば当て馬である。
仲畑貴志編「万能川柳6本目」より一句紹介 ── 偏差値が高くて回る悪い知恵
1997-04
ついに厚生省を懲戒免職になった宮本政於氏の近著「お役所のご法度」(講談社)のなかに、審議会の話がある▼審議会には二とおりあるという。あらかじめ結論が決まっているものと、なにも決めず自由討論するもの。後者は時勢雰囲気調査とでもいうべきもので、前者のほうが重要なことはいうまでもない▼厚生省の腹案にそって理論を構築し基礎資料をそろえる。議事進行のタイムスケジュールを作る。という程度は素人の考え。「シナリオ」をつくるのだという。反対意見もうまく配置して、もっともらしく演出する。ときには厚生省OBの委員を「さくら」に使う。役人が脚本家、委員が役者である。委員を任命するのは厚生大臣ということになっているが、じっさいの人選は課長クラスが行なう。委員の肩書きを与えることと引き換えに協力をとりつける。この肩書き、なかなかに魅力のあるものらしい▼審議会は役人のためにある。民主的に見せることが肝心。責任回避の最良手段。株主総会と似たようなもの。と、お役所の本音が並んでいる。あんまりたくさん紹介すると出版社の営業妨害になるかもしれないので、このあたりでやめておこう▼さて、ちかごろの「医療抜本改革」論議のそもそもは厚生省が仕掛けたものだ。ということは、誰かの書いたシナリオに踊らされているのだろうか。
1997-10
もしも神様や仏様がいるのなら、地獄へ落とされてもいいから張り倒してやりたい。そんな思いで城端へ向かった。山秋先生の急逝の知らせを受け、信じられない気持ちが一段落したら、悲しみとともに不遜な憤りが湧いてきた。
神々の愛する者は若死にする、という諺が西洋にある。才気が溢れすぎると、神様のお気に入りにされ、早くに天国へ召される、という。人間だって慕っているのに、そんな手前勝手があっていいものか。
お通夜の空には丸い月がかかっていた。亡くなられた前日は十三夜。豆名月・栗名月ともいわれる月を愛で、句会を楽しまれた。亡くなられた当日は、協会の会議でお目にかかるはずだった。
今思えば生き急いでおられたのであろう。他人の何倍もの忙しさを苦ともせず、人々を和ませ、皆を元気づけ、しかも、しっかりと舵取りをして、一陣の風のように駆け抜けて行ってしまわれた。どんな人ともすぐに親しくなれるだけでなく、人と人を親しくさせる不思議な能力は、余人をもっては代えられない。
医療をめぐる情勢は厳しい。ともすれば陰気になりがちな議論の場を、もちまえのユーモアで明るくするのが山秋先生だった。日が経つにしたがって、失ったものの大きさが見えてくる。ここで怯んじゃいけないよ─ときどきふっと真顔になって静かに語る先生の声が、聞こえてくるようだ。
10月15日未明、富山保険医協会副会長・山秋先生が急死された。
1997-03 とやま保険医新聞「理事会寸描」
「放射線技師法第24条違反」事件が発生した直後の理事会でした。
近ごろのレントゲン機械は自動化され、電圧を調整したりタイマーをセットするなどの操作がいらなくなり、まるでバカチョンカメラみたいです。誰にでも簡単に操作できることをセールスポイントにする業者もいます。だからといって素人に操作させていいということにはなりません。
放射線技師の数は充足しているのか、人件費がでるような保険点数になっているのか、という不合理もありますが、違法合法の基準はそれによっては変わりません。
赤信号はみんなで渡っても、やはり赤信号。
日本の交通法規は非現実的である、と訴訟をおこしている弁護士がいるそうです。しかし、大方の見るところでは、問題提起にはなるものの勝ち目はありません。
本人と家族へのアドバイス、弁護士への連絡、嘆願書の提出など、協会は機敏に対応しました。しかし、基本的な流れを変えることは困難です。問題解決の糸口がなかなか見いだせず、困惑の顔が並んだ会議でした。この問題に関連して会員懇談会を開催することを決めましたので、ぜひ参加して忌憚のない意見をお寄せください。
【メモ】
○流れ:告発→内偵→捜査令状→捜査・任意同行・事情聴取→逮捕令状→逮捕・拘禁・取調べ→送検→不起訴/略式起訴/起訴→処罰(罰金)→保険にかかわる指導・監査・処分→医道審議会による処分
○波及する危険1:ゆすり・たかりなどの民暴行為
○波及する危険2:保険診療の指導を通じて制限診療への圧力
○波及する危険3:保健所「医療監視」や労働基準局関連の指導強化
1997-05 K新聞社への申し入れ
5月9日付け貴紙「天地人」の内容につき、重大な誤解がありますので、訂正を求めます。
「一抱えもある薬袋」のお話を薬価差益に結び付けて論を進めておられますが、まず、このことについて。お年寄りはいくつもの疾病に罹患していることが多く、薬剤も多種類の服用が必要になることが多いのですが、この情景描写にあらわれるような「一抱えもある薬袋」は、別の要因によっています。
慢性疾患における投薬につきましては1ヵ月分をいちどに出していいことになっています。病状が比較的安定しているが服薬を続けなければならない場合、毎週のように通院するのは患者さんにとっても負担です。そのような配慮から投薬期間が緩和されました。
薬剤の多くはヒートシールという包装になっています。固いプラスチックの台紙に透明の膜で固定されています。これをそのまま渡すと、数を数えまちがったり、はなはだしい場合には、包装ごと服用してしまうという事故も起こることがあります。
そこで、病院では一回分づつをパックにしてお渡しすることが多くなってきました。このパックは1辺が7cmくらいありますので、一日分が21cm、1ヵ月分だと、6m30cmにもなってしまいます。幅7cm長さ6m余りのものをぐるぐる巻きにして袋に入れたときの状態をご想像ください。まさしく「一抱え」になってしまいます。
一度に出す薬の種類が多いか少ないかではなく、一度に出す薬の日数によって、見た目が大きく変わってきます。一直線に「薬漬け」と結び付けるのは、あまりにも早計であります。貴紙を読んで、必要な薬を服用しなくなった場合の危険を考えてみたのでしょうか。
「薬価よりも10%程度値引きされる」との記述は話がまったく逆でして、実売価格の平均に10%の経費を加えたものが薬価として定められています。物品を仕入れて保管しておくには、保管・金利などの経費がかかることは常識です。これをすべて「差益」と片付けるのはあまりに乱暴な議論ではないでしょうか。
「今はないと聞くが」と断りをいれながら、「振り替え請求」に言及される真意はどこにあるのでしょうか。お言葉どおり、今時そんな不法なことを行なっている医師がいるとは思えません。ただ医師への不信をかきたてるだけの、きわめて悪意に満ちた表現です。
基本的なところで医療保険制度への誤解があるように思われます。若干の資料を添付いたしますので、ぜひごらんください。
1997-08 とやま保険医新聞・「提言」欄
「21世紀の医療保険制度」と題する医療抜本改革の厚生省案が公表された。それを報じるマスコミは、あいかわらず「出来高払いによる過剰診療」、「薬価差益による薬漬け医療」と解説している。検査漬け、薬漬け、過剰診療、漫然診療、青天井など、さんざんに罵詈雑言を浴びているが、日本の医療保険制度は国際的にみて破格の低コストで成功をおさめている。
厚生省案の前文では「医療費の伸びと経済成長との間の不均衡が拡大」し、それを是正しなければ「国民皆保険制度そのものが崩壊」する、と危機感をあおっている。しかし、先進国のなかでは、医療費(GDP比)も、その伸びも最低レベルである。先進国すべてが高齢化の波に洗われ、社会保障の新たなる地平を模索しているのであり、是正すべき「不均衡」ではなく、「新たな均衡への移行期」と考えるべきである。
先進諸国の2〜3分の1の社会保障費、逆に数倍の公共事業費。財政赤字の元凶は公共事業である。そこに「この国のかたち」の歪みがあらわれている。医師が儲けすぎて医療費がかさんでいるかのように世論を誘導しても解決の糸口はつかめない。それどころか本質を見誤った議論は社会保障全体を破壊に導く危険がある。
厚生省も認めているように、医療費増加の主因は人口高齢化である。若年者にたいして高齢者は1人あたり約5倍の医療費がかかっている。医療が福祉の肩代わりをしている部分については、福祉の充実による正常化が必要であり、その結果「5倍」の数字はいくぶん小さくなるかもしれないが、高齢化とともにコストがかさんでくることは避けられない。社会保障費全体はさらに増大するはずであり、そこに社会的資源を配分するのが国の責務である。
増えるコストを、どのように分担するか。選択肢は限られてくる。一般財源か、目的税のような特定財源か、保険料か、自己負担か。なにがなんでも社会保険方式に押し込んでしまおうとする厚生省の基本的な立場に、そもそも無理がある。
八方破れとも見える厚生省の「改革案」は、真意はともあれ、国民よ目をさませ、というメッセージでもある。いまこそ幅広い国民的議論をまきおこし、国民本位の対案を突きつけなければならない。
原宿 1997-11-16
1997年11月16日、久しぶりに10万人の人波を見た。代々木公園で開催された「医療・社会保障改悪反対」の集会である。近年、いくら大勢の人が集まっても、マスコミは報道しない。申し合わせでもあるのかと思うほど、足並みを揃えている。ただ大勢が集まって、デモ行進しただけでは無視される。よほど突飛なことでもしないと、社会にはアピールできないらしい。
世論に訴える手段をもたない民衆は何をすればいいのだろうか。