昨年の「新語・流行語大賞」の年間大賞は、大方の予想どおり小泉首相だった。米百俵、聖域なき改革、恐れず怯まず捉われず、骨太の方針、改革の「痛み」、三方一両損など、キャッチフレーズづくりには非凡な才能を発揮する。 テレビ映りはいいし、バツイチというのも適度な渋みを感じさせる。あれやこれやで、人気はいまだに衰えない。社会の木鐸のはずのマスコミまでが、提灯をかざし神輿を担ぐ。 小泉首相の「改革」政策は、経済財政諮問会議と総合規制改革会議への丸投げだ。メンバーには、経済界の「勝ち組」と、それを支持する市場原理主義者が顔を並べる。 勝者を奢らせ敗者を黙らせる論理がまかり通る。 小泉首相のブレーン、竹中平蔵氏は「頑張った者が報われる社会に」と言う。「高収入を得ている人を讃えるべき」「累進課税を廃しフラット税制を」とも言う。 「報われる」は、金になる、という意味。高収入は、市場が評価した結果だから、万人がそれに従うべきだ…。「讃える」は、優遇する、という意味。言い換えると「欲張り者がはびこる社会、金持ちが優遇される社会、格差が広がる社会」になるにちがいない。 この国は「和をもって貴しとなす」から「差をもって貴しとなす」へと方向転換しつつある。 |
創刊50周年おめでとうございます。 98年から99年、短い期間でしたが、部長として新聞を担当させていただきました。 高校時代にも新聞部なるものに所属していました。そこでも部長などと呼ばれ、ベトナム戦争を特集して大騒ぎになり、発禁処分になりかけました。白髪頭になってから「新聞部」とは因縁を感じさせます。 保険医新聞は、たかだか千部ほどの学校新聞とはわけが違います。なにしろ10万部、社会的影響力はケタ違いに大きいし、読み手は海千山千(失礼!)です。責任の重さに押しつぶされそうでした。ともあれ「読みやすく」「会員が参加しやすく」を心がけました。 月に3回も発行して、紙面が埋まるのだろうか、と素朴な疑問をもちましたが、事情はまったく逆であることをすぐに知りました。 なんといっても「機関紙」ですから、機関決定や報告、資料など、会員に伝えなければならない情報が山のようにあります。しかも、これらの記事は重厚長大なものが多く、読みやすくレイアウトするのは至難のワザです。「読みやすい紙面に」という抱負はハナからつまづきました。 私の在任期間中に、大きな変化が二つありました。ひとつはデジタル入稿化、いまひとつは広告の見直しです。 紙と鉛筆での編集は昔話になりました。今はパソコン上で紙面を編集し、そのデータを光磁気ディスクなどの媒体に記録して印刷所へ持ち込む、あるいはデータを直接インターネットを通じて送る、という方式になっています。 デジタル入稿によってスピードアップと同時に大幅な印刷コスト削減を実現し、保団連財政に寄与しています。いっぽうで編集作業に携わる事務局の仕事の密度が高まっていることにご配慮いただきたいと思います。 数年前、紙面から薬の広告が姿を消したことに気づかれたでしょうか。広告は貴重な収入源ではありますが、「効能なし」として発売中止になったり、重大な副作用があきらかになったり、といったことがたびたび起り、保団連の機関紙に広告を掲載することの是非が検討されました。その結果、薬剤の広告は中止し、その他の広告も審査を厳しくしました。 なお、デジタル化のひとつとして、保険医新聞のバックナンバーをCD-ROMに収録する計画が進められているとのことです。50年分の新聞が手のひらに乗るのを楽しみにしています。 |
ワールドカップで沸きかえっている最中に、健保法案が衆議院を通過した。鈴木宗男議員の辞職勧告決議と引き換えになったかたちだ。与党へ最後のご奉公か。 厚労省秘伝の「長瀬関数」というものがある。 Y=1−1.6X+0.8X2 Xは負担率、Yは医療費の抑制効果 自己負担を引き上げると医療費が抑制される。この数式は戦前から今に至るまで使われつづけているという。今国会でも国側の答弁の中に登場した。 ご覧になれば分かるように、二次関数である。負担が倍になったら抑制が倍になるというような単純な関係ではない。 1割負担が2割になったときは自己負担が倍に増えたけど、今度は5割増し。影響は前回より少ないだろうか。数式とにらめっこしながら電卓を叩いてみた。1割負担から2割負担になると約16%、2割負担が3割負担になると17%の抑制効果になる。 前回と同等以上の影響があるのは確実だ。 「3割負担が限界」「これ以上は引き上げない」などと小泉首相が言っている。かつて本人負担が2割になったとき、家族も国保も2割にする、と言っていたのは誰だっけ? |
日本国憲法は1947年5月3日に施行されました。翌年(1948.12.10)、世界人権宣言が国連総会で採択されています。きわめてよく似た内容です。世界人権宣言が日本国憲法を真似たわけではありません。二度の世界戦争を経て、世界の平和と安定のために人権を基礎におこうという、人類の知恵の到達点です。 社会保障の根本原則は憲法第25条に規定されています。 すなわち、まず国民がいて、国民には人権があり、それを守るのが国の責任だ、という権利義務の関係を明示しています。 今回のシンポを前に、社会保障関連の法律に目を通してみました。といっても法文の最初の部分だけです。その結果、おもしろい(おそろしい)ことに気づきました。 戦後早い時期にできた教育基本法や生活保護法は、その冒頭で「憲法の理念」を謳っています。その後、憲法の理念などという高邁な言葉は姿を消します。それでも、真っ先に公的責任を明文化しています。ところが、80年代以降の法律では「国民の義務」を先にもってきています。たとえば老人保健法は「自助と連帯の精神」を説き、介護保険法は「共同連帯の理念」を掲げます。 いま健康保険法改正案が審議中ですが、同時に審議されている「健康増進法」は、まさにその典型です。「健康の増進に努めなければならない」と国民の責務を説いたあとで、「情報の収集・整理・分析及び提供」などを国及び地方公共団体の責務として掲げています。 このように法が憲法から離れていく傾向が強まり、公的セクターの責任放棄が進んでいます。 加えて、180日を超える入院の保険はずし--これは4月1日から「1・2・3・・」とカウントしていますので、表面化するのは10月ころになります--このような重大な改悪が法の改正をしないで、厚労省からの通知ひとつで実施できてしまいます。 こんなことで日本は法治国家と言えるのだろうか。憲法放置国家と言うべきでしょう。
|
改革が叫ばれるたびに福祉が後退する、というジンクスは今も健在だ。 健保改悪と同時に「健康増進法」が成立した。この健康読本のような名前の法律によると、健康保持は個人の義務であり、国や自治体は情報提供などのコーディネーター役である。 憲法第二五条には健康で文化的な生活を営む権利が謳われ、それを実現するために、公衆衛生や社会保障を提供する国の義務が明記されている。世界人権宣言第二二条にも人権に基づく社会保障が掲げられている。 権利と義務が逆転した。 一七八九年、フランス革命の初頭、「人は生まれながらにして自由かつ平等の権利を有する」と宣言された。しかし、それが世界の世論となるには一九四八年の世界人権宣言を待たなければならなかった。 フランスの人権宣言がテルミドールの反動に阻まれたように、いま、世界人権宣言も「グローバリズム」「市場主義」に押し戻されそうになっている。 構造改革論者は「自律・自助」を国民に求める。福祉は一揆暴動が起きない程度。四〇〇年さかのぼってエリザベス救貧法の時代へ逆戻りだ。 国王に代わって「市場」が君臨する。
|
ちょっとした日用雑貨が入り用なときは、まず一〇〇円ショップへ行ってみる。求めるものがなければホームセンターへ。さいごに専門店。これが今流の買い物の仕方だ。 一〇〇円とあなどってはいけない。品揃えは豊富だ。台所用品から日曜大工用品、文具や音楽CDまである。 店舗を構え商品を配送するだけでも相応な経費がかかるはずだ。いったい原価はどれだけなのだろうか。考えるとめまいがしてきそうな品物がならんでいる。産地を示すラベルには発展途上国が名を連ねる。 人件費も原材料費も安いとはいえ、あまりに違いすぎる。違いの殆どは、為替レートの格差に由来する。それは、そこに生きる人々の命につけられた値段のように感じられ、苦い気分になる。 グローバル経済は格差を糧にする。 何はともあれ輸出できる国はまだいいほうだ。世界人口の約一割を占める「最貧国」(後発発展途上国)には輸出産品さえない。一人あたり所得は三〇〇ドル程度といわれている。月収ではない、年収である。 貧困と格差が世界を不安定にする。一〇〇円ショップが健在なうちは、世界から戦争はなくなりそうにない。 |
牛に引かれて善光寺 学会のついでに善光寺に詣でた。秋晴れの休日とあって、参道は善男善女で溢れている。 500円の参拝券を自販機で買い求め、戒壇巡り。狭い通路に入ると、中は真っ暗闇だ。「極楽のお錠前」なるものに触れると極楽往生が約束されるという。右側の壁面、腰の高さというヒントを頼りに手探りで進む。視覚が失われると平衡感覚も低下し、足元がおぼつかない。素通りしたのかと不安になった頃、それらしき物体に触れた。 ほんのいっときの障害体験であった。 日本の公式統計では、視覚障害者は約30万人。身体障害者、知的障害者、精神障害者を合わせた全障害者は約500万人、人口の5%弱とされている。いっぽう、西欧諸国は10%〜15%、豪州13%、米国は17%である。 WHOは統計の不備な国のために推計値10%を用いている。これは、国連が「国際障害者年」(81年)当時行った調査研究に基づく控え目な数字だ。 ダブルスコア、トリプルスコアの差は、日本民族の優秀性ではなく、障害認定の厳しさ、福祉の貧困を示している。 福祉国家への「お錠前」はどこにあるのだろうか。 |
第7回富山県医療福祉保健交流集会のために作成したグラフと解説文 障害者の発生頻度(人口比)を比較しました。(註1・2・4) あまりの格差に驚かされます。人種でも風土でもなく、その国が「障害」をどうとらえているかの違いです。 日本は、身体障害者手帳、療育手帳、精神障害者保健福祉手帳の交付をもって「障害者」としています。その数は約500万人。(註3) 日本は心身の機能障害を基準にしていますが、アメリカ障害者法は「主たる生活活動のひとつ以上が制限されること」と定義しています。「障害者の権利に関する宣言」(75年国連総会決議)では「通常の個人生活と社会生活の両者もしくは一方が自力で満たされないこと」としています。(註5)
|
老人の医療費は4分の1にできる。 与太話ではない。毎日新聞の社説に権威ありげに書かれているのだ。ヨーロッパのどこかの国を見習えば、というが、国名は示していない。 4割減らせる、という議論を聞いたことがある。日本の1人あたり老人医療費は若人の5倍、フランスは3倍。だから、フランス並みにすれば4割減らせるというのだ。若人の医療費をフランス並みにしたら?の反論がある。 さて、4割ではなく、4分の1である。 どこの国か見当がつかないので、4分の1の医療を想像してみた。 老人が5倍とはいうが、1日あたりの医療費はほとんど違わない。老人は病気になりやすく療養期間が長いことを示している。 厚労省御用達「長瀬の回帰式」で電卓をたたいてみる。自己負担を5割に引き上げれば、4割の受診抑制が期待できそうだ。 年齢が高くなるほど1人あたり医療費がふえる。医療保障を75歳で打ち切るか、平均寿命が短くなれば老人医療費は激減するだろう。歯科治療は配給制、終末期医療は自己負担…4分の1になるかもしれない… ばかばかしい、もうやめた。これじゃ悪魔の皮算用だ。
|
表紙 Top Page | 総合目次 Menu | 更新情報 What's New | 諌鼓を打て Menu | 諌鼓を打て Contents |