BYPASS91

 


諌鼓を打て

 
『とやま保険医新聞』のコラム「バイパス」など、機関紙誌に発表した雑文を掲載しています。


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《1991|19921993.199419951996199719981999 | 2000





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「小人に国家をおさめしめば、災害並び至る」 徳川時代末期、幕府を震撼させた大塩平八郎が決起に際して発した檄文の一節である。彼は、大阪の町与力として幕府の権力機構の中にあったが、横行する賄賂や特権階級との癒着など、その腐敗堕落に愛想をつかして、辞職。7年の後、私塾の門人や近郷の農民らをひきいて反逆の挙にでたのであった。
平成元年、世はまさに小人が国を治め、弊害が噴出している。大塩平八郎ほどのストイックな儒学者でなくとも、国民は怒り心頭に発している。
一説によれば、日本の政治家はそのエネルギーの八割を政治資金集めに費やしているという。なかなかのものだ。十割とまではいかなくとも、七、八割の力を政治に注いだら、さぞや良い国になるであろう。で、金のかからない選挙は小選挙区、これしかない。と主張する人々がいる。しかし、選挙区の大きさで、金権体質が変わるはずはない。
いま話題の映画「善人の条件」のラストシーンで、田舎の市長選挙に担ぎだされた大学助教授の主人公が、金権選挙の責任は有権者にある、と叫ぶ。小人に国を任せたのは我々の責任、次の選挙では一人ひとりが大塩平八郎になって厳正な審判を下そうではないか。
1989.05



パチンコよ、おまえもか。社会党よ、おまえもか。が、他人事ではない。医師、歯科医師は、パチンコ屋さんよりも、リクルートさんよりも、政治家の御得意さんである。
政治献金と賄賂はどう違うのか、と子供に聞かれて返答に窮した。片や合法的、片や非合法的。と、説明しながら、可笑しくも空しかった。
賄賂といえば、江戸時代中期、老中田沼意次の政治が有名だ。当時の川柳に
「役人の子はにぎにぎをよくおぼえ」とあるそうだから、相当に下々まで普及していたものらしい。ひるがえって、現代。就職の口ききを頼むには、市議なら○万円、県議なら○万円、といった話を巷間で耳にする。田沼時代と、たいした差はなさそうだ。
中国大陸侵略、太平洋戦争への序曲となった五・一五事件や二・二六事件の首謀者たる青年将校らの心中には、政治腐敗への激しい憤りがあった。腐敗した政治と、それを解決するに適切な手段を持ちえなかった政治の仕組みが、不幸な戦争にまで発展した、とも言える。
これは、たいへん危険なことだ。凩が吹き、落ち葉が舞い散る季節の中で、日本の政治の体質を、あらためて考えさせられる。
1989.11



現代は 「豊かさ」ではなく 「愉快さ」を求める時代なのだそうだ。近頃はやりの官庁カタカナ語でいう「アメニティ」もその類であろうか。
それも結構。だが、目を転じて、自分の診療所(病院)に勤める人たちも愉快さを求めているとなると、結構でもなくなってくる。つらい、休みが少ない、汚い、などなど、若者が嫌う職業の条件に満ちている。そのうえ、世間並みの給料を支給することすらおぼつかない。看護婦や歯科衛生士の資格を持ちながら、全く医療と関係ない職業に「トラバーユ」している人のなんと多いことか。
以前は、新聞に1行広告をだすと1人の募集に10人が面接にきたが、最近では、職安に足繁く通ってもなかなか人がみつからない、という話を耳にする。看護学校などで、志願者の減少と質の低下が云々されるようになってから久しい。
保団連でも、スタッフの確保(量と質)を問題としてとりあげている。さしあたっての労務対策も勿論大切だが、医療に携わる人たちが、愉快とまではいかなくとも、せめて世間並の待遇を得られるような抜本的な対策が望まれる。
1990.02



ひとむかし前のことになる。昭和54年10月の衆議院選挙で、自民党が敗北、248議席となり、無所属議員9人の追加公認を加えて、ようやく過半数を確保した。当時の大平首相が語った「国民の絶妙なバランス感覚」という言葉が印象に残る。一般消費税の導入が争点となった選挙であった。
あの時のような与野党伯仲の再現を期待した、あるいは、予想した大方の見方に反して、今回の選挙は自民党の勝利、安定多数という結果となった。国民のバランス感覚に狂いが生じたのだろうか。
もっとも、参議院とあわせて考えると、やはり、「絶妙」に近いのかもしれない。
いっぽう、今回の選挙では、企業ぐるみの猛烈な選挙運動が目立った。富山二区某議員の当選の弁は聞くに耐えないものであった。政策を述べずに土下座して票を乞うた一区某議員の「パフォーマンス」も見るに耐えないものであった。
このような破廉恥な選挙は二度と繰り返さないでほしい。前記の某議員らも二期目をめざすなら、襟を正してほしい。体制の危機を訴えて、企業ぐるみ選挙・破廉恥選挙を煽った経済界の諸氏。国民のバランス感覚を信用していただきたい。ひるがえって、私達有権者もまた、議員らの言動をしっかり監視して、恥を雪がねばなるまい。
1990.03


ゴールデンウィークの最中に、所謂「高額納税者番付」が発表される。例年より、医師・歯科医師の数が減ったとはいうものの、他の職種にくらべて多いことに変わりはない。
一般人から見れば、「医者は儲かっている」という心証を強めるだろうが、当の医師らにしてみれば、自身の可処分所得の実態や、「可処分時間」の貧しさを顧みて、不当な評価だと感じる。「番付」を見て、まだまだ我々は豊かだと感じる医師・歯科医師がいるとしたら、裸の王様だ。20歳そこそこの若者が500万円もする車を乗り回し、シーズンともなれば、スキー場は平日でもおおにぎわい。そういうご時勢なのだ。
節税のために、みなし法人、設備法人、(一人)医療法人、不動産投資など、さまざまな手段があり、それらを駆使すれば、それなりの効果をあげることができるであろう。現に、この人が載っていて、あの人が載っていないなんて...? というケースも少なくない。
しかし、患者に心を砕き、そのうえ節税にも心を砕くほどタフでない者としては、しばし溜息をつき、やがて毎日の診療に追われるうちに忘れていってしまう。毎年、それの繰り返し。保団連でも、「医療にふさわしい税制の確立を」と提唱するようになってから久しいが、いまいち迫力がない。
1990.05


保険点数には、さまざまな矛盾・不合理があるが、薬価もそのひとつ。
「仕入れ価格で販売せよ」という、一般の業種ではあり得ない原則が、いつのまにか定着してしまった。薬剤(材料)を商品になぞらえて論ずるには、若干の抵抗がある。右から左というわけにはいかない。しかし、それは、通常の商品よりも流通経費が多くかかる理由にはなっても、ゼロとする原則を受入れる理由にはならない。
最近業者に聞いた話。以前は10箱単位で購入してくれていた先生が、ちかごろは1箱単位になり、気をきかせたつもりで2箱もっていくと1箱返品されてしまうこともある、1行しか書いてない納品伝票ばかりがふえていく、となげいていた。
この話は、在庫がふえれば経費がかかること、在庫をへらして経費節減を計る先生方がふえていること、を端的に物語っている。
棚卸で算出される在庫以上に、開封し一部使用を開始した「仕掛り在庫」が存在する。これらには、保管のための場所・設備の費用、運搬・整理に要する費用、損耗・陳腐化の費用などがかかり、その経費率は、メーカーや商店で、おおむね25%程度と推定されている。
在庫管理費を考慮した保険点数を要求するのは、当然のことであって、従来このような主張がされていないのが不思議である。
1990.06


 「戦争とは、つける薬がないものにつける薬です」−− 17世紀ヨ−ロッパの政治家の言葉である。戦争はいけないといわれながら、なくならないのは、それにかわる有効な紛争解決の手段がないからだ。
 国連が、その機能を果たせるのかどうか、今問われている。
 日本も自衛隊を派遣する・しないで議論がわきおこっている。医療関係者が真っ先に送り込まれそうな雲行きである。対岸の火事でないという意味で、議論されるのはいいが、ただ、目前にある人質問題などを理由に、海外派兵をおしすすめるのは危険このうえない。マスコミにも自重を促したい。そもそも、太平洋戦争の戦争責任にしてからが、天皇よりもマスコミのほうが重かったのだ。
 サダム・フセインが個人的な野心から戦争をおこそうとしている。イラクは全アラブ征服を狙っている。彼は正常でない。まるで、タイムスリップして出現したヒトラ−みたいだ。もちろん、イラクの国内政治・経済の困難をクエ−ト侵略で、一挙に解決しようとする身勝手な行為ではある。公平な取り引きなら戦争にはなるまい。
 アラブには石油があるのに民は貧困だ。石油を支配するために、西側の国々が、時代遅れの王政を保護するなど、アラブの政治的・文化的な近代化を妨げてきたことが、背景にある。だから、たとえ首尾よくサダム・フセインを屈伏させることができたとしても、第2・第3のサダムやホメイニがでてくるにちがいない。
 日本は、戦争放棄をうたっていることをむしろ奇貨として、和平に貢献して歴史に名をとどめるか、中途半端な加担者として双方から蔑まれるか、それが問われている。
1990.09


薬値「差益」が1兆3千万円(昭和62年度)なのだそうだ。さもさも、医師が不当な利益を得ているかのような、印象を与える。「国民は …… 医療機関が …… 多額の金をもうけていることには納得できないだろう。」(Y紙)とわざわざ断るまでもない。
仕入れ値と薬価が等しくなければならない、と考えることの不合理には、まるで目がむけられていない。
以前にもこの欄で触れたことがあるが、通常の業種の在庫管理費はおよそ25%といわれている。医薬品には、おそらくもっと費用がかかっていると考えるのが自然だろう。使わない可能性のほうが高い薬でも、備えておかないと、いざというとき困る。在庫が切れても、病人は待てないから、在庫は多めに持っていないと困る。在庫処分でバーゲンセールするわけにもいかない。
もうひとつの問題は、「差益」の恩恵をもっとも多く享受しているのが、国立病院を筆頭に、公的病院など大病院だということだ。「山買い」などというまるで商社みたいな仕入れ・買いたたきが行われているらしいが、資金力がなければできないことである。小規模の病・医院は購入量に応じた、ほどほどの値引でお茶を濁されている。その較差は相当なものらしい。値引だけでなく、大病院では手形決裁で資金を有効に回転するのが常識であろうが、小規模病医院では月末の現金決裁が普通だろう。一方、診療報酬の支払は一種の2ヵ月手形だから、そこで、さらに「差」が生じる。
単純に平均して薬価を切り下げられたら、それでなくとも経営基盤が弱体化している開業医ばかりをいじめる結果になる。
厚生省のめざす「医薬品流通の近代化」は、どうも、薬価と流通価格を、限りなく0に近づけることを目指しているようだ。
医薬品の流通を改善し、極端な納入価格の差が生じないようにすることは、もちろん必要なことだが、同時に流通経費・在庫経費を適正に評価することも大切である。
1990.10


年の瀬とはよく言ったものだ。心身ともに、そして資金繰りもせわしい。年の暮はそういうものだ−というコンセンサスがあって、年の瀬という言葉がある。
年老いると、からだが弱り、病気になれば寝たきりに。そういう現実がまわりにあればこそ「寝たきり老人」という言葉がある。
ところが、外国語にはそれに該当する言葉がないのだそうだ。言葉がないのでなくて、寝たきり老人がいないのだ、という。そんなバカな、という疑問は、さきの大熊由紀子氏の講演で払拭された。寝たきりにしないから、寝たきりにならない。当然といえば当然のことであるが、そのためには膨大な社会的投資が必要なことも知らされた。北欧では、老人のケアは在宅が中心であり、必要なあらゆる補助具が貸し出される。自動車まで借りる人がいるとは恐れ入った。モノだけでない。公務員のホームヘルパーが1日に5回も老人の自宅を訪問する。急用があるときはホットラインで呼び出すとスタッフが駆けつける。
いっぽう、民活のお手本アメリカでは天国と地獄が隣あわせ、どちらのドアを叩くかは金次第である。なまじ長生きすると、金の切れ目が縁の切れ目で、ただちに天国から地獄へ引越しとなる。
日本もやがて高齢化社会を迎える。厚生省のめざす「在宅医療」が、国の責任を家庭に転嫁するだけになりはしないか。心配である。安心して老いることのできる社会のありかたを除夜の鐘を聞きながら考えてみよう。
1990.12


核兵器のオーバーキルについてはよく知られている。人類を何回も繰り返し絶滅できるという、あの空恐ろしい話だ。核兵器総量の破壊力は人間1人あたりTNT火薬80トン相当だとする試算がある。吹き飛ばされるまえに押し潰されそうな数字だ。

いま湾岸戦争で恐怖の的になっている化学兵器は、製造が簡単な割に大きな殺傷力をもつので、「貧者の核兵器」あるいは「第3世界の核兵器」とも言われる。VXと呼ばれる神経ガスは数ミリグラムで人を死に至らせる。そして、化学兵器もまた、オーバーキルなのだ。人類を10回も皆殺しにできるという。

人を殺すために、かくも大規模な準備がなされている一方で、徒手空拳に近い「装備」で、人の命を救い、健康を守ろうとして、私たちは日々を送っている。

戦争には、正義とか大義とかの形容はいらない。ただひとつ悲惨という形容で充分だ。いまや戦争は人だけでなく、地球さえも殺そうとしている。IPPNW(核戦争防止国際医師会議)会長バーナード・ラウン氏は、戦時下のバグダットを訪れて言っている。
−−− 共通の敵は『戦争』である。
1991.02


 「中医協で御議論を賜る」「中医協で適宜検討して頂く」「中医協の御意見を踏まえて」・・・これらは、最近の歯科初診料再診料問題・看護婦問題など国会質問に対する政府側答弁の言い回しである。
 中央社会保険医療協議会、略して中医協。昭和25年、「社会保険審議会、社会保険医療協議会、社会保険審査官及び社会保険審査会の設置に関する法律」という長い名前の法律に基づいて設置されている。診療側委員、支払い側委員それぞれ8名、公益側4名、専門委員2名で構成される権威ある組織である。
 しかし、点数改定にあたっては、諮問−即日答申というパターンがつづいている。いかに有能の士を集めても、細部を検討することは不可能だ。ここに官僚の諮意が入り込む隙がある。こうして、不合理は見過ごされ蓄積されてきた。また、予算の総枠を決めておいて、しかも国の支出を絞りに絞って、そのうえで審議しろというのだから、最初から手足を縛られている。
 こういうことではいけない。と、支払い側委員でさえ思い始めていることを、先日の中医協委員佐野氏との懇談で知った。
 医療側と支払い側、ひいては医師会と歯科医師会の取り分などという狭い了簡でなく、国民のための医療という大きな観点から、中医協自体が政府に方向転換を迫るような、そうせざるをえなくなるような運動を展開しないと、この逼塞した状況は打ち破れないのではないだろうか。
1991.06


 騙すことを「誤魔化す」という。いかにも「化(ばか)す」という感じがでているのだが、じつはこれは当て字。
 広辞苑によると「ごまかし」とは、江戸時代にあった「胡麻胴乱」つまり「胡麻菓子」のことだという。小麦粉に胡麻をまぜて、ふくらませたもので、中は空になっている。これから転じて、外見だけよくて、中味の伴わないものを指すようになった、とある。
 平成2年、保発20号文書。これは点数改定の基本方針にあたるものだが、例えば、「技術料重視の観点に立ち、診察料、指導料、処方料等の引き上げを行う」と、記載されている。このとき、歯科の初診・再診はまたしても据え置かれ、あろうことかポリサルフォン義歯の点数が大幅に引き上げられた。ポリサルフォンについては、昭和60年、突然保険に導入され、学会がその有用性を認めず保険導入に反対する声明を出したといういわくつきの代物である。なかなかの「胡麻菓子」である。
 富山協会・歯科部会が作った経年的な診療報酬改定の分析資料がもとになって、全国的な「歯科・初診料再診料緊急是正運動」がまきおこった。さらに、そのエネルギーが「7・28保険医総決起集会」につながった。
 美辞麗句にごまかされないことは難しいことだが、それがいかに大切なことか、この経験が如実に物語っている。
1991.07


 今年は梅雨が長く、残暑も長かった。しかし、この頃は蝉の鳴き声もまばらになり、日が暮れるとコオロギの鳴き声が聞こえてくる。もうすぐ紅葉の季節かな、と思いをめぐらす。日本の四季はかくも鮮やかに移りかわる。
 四季があるために、夏は冷房、冬は暖房が不可欠になる。このことが日本の電力需要の変動を大きくしている。変動に合わせて発電を調整しなければならない。いまや日本の電力需要の3割は原子力がまかなっているから、原発にも出力調整が必要な事情は理解できる。
 車はゆっくり走るほうが安全、原発も出力を低くして運転するのは安全、と思ってしまう。ところが、原発は低出力運転がたいそう難しいのだそうで、自転車のようなものだと思っていい。また、そもそも定常運転を前提に設計されていて、出力変動を繰り返すようには造られていない。チェルノブイリ事故も「出力調整試験」すなわち低出力運転試験中に発生した。日本の技術は優秀だから大丈夫、と断言していた関係者の声も、美浜のギロチン破断事故以来トーンが低くなったような気がする。
 今年の春、敦賀の高速増殖炉「ふげん」の内部(圧力容器上)に猫が入り込んでいたという珍妙な事件があった。ほほえましいエピソードですね、とはさすがに誰も言わなかった。日1日と寒さに向かう折、寒気で風邪など召されませんよう・・・
1991.09


 修正につぐ修正でノイローゼ気味の地図編集者を描いたひとこま漫画があった。我が家でも、茶の間に備え付けの地図帳が古くなったので買い換えようと思っていたのだが、もうちょっと様子を見ようといいながらそのまま使っている。
 ソ連・東欧で社会主義が破綻をきたし、混乱が続いている。西側でも、スエーデンで社会民主党が政権を失い、ドイツでは社会民主党の苦戦が伝えられている。
 社会民主党にとってはトバッチリであろうが、事は北欧・西欧だけにとどまらず、社会保障や社会福祉など「社会」のつくものが軒並トバッチリを受けようとしている。伝統あるイギリスの福祉も昔日の面影はないと聞く。日本でも、民活論にはずみがつくのではないかと危惧される。
 最近よく耳にする「アメニティ」なる言葉。巧みに「贅沢」というニュアンスをもたせて流布されている。このレッテルを貼ることによって医療保障が縮小されていく。医療界はそれを受け入れてしまいそうな窮状にある。
 が、日本国憲法にある「健康で文化的な生活」はそもそもアメニティの保障をうたったものではないのか。社会の進歩にあわせてその範囲と質を充実することのほうが本筋ではなかろうか。
1991.10


 県内のある病院が和議申請、との報道に驚かされた。事実上の倒産である。
 学会出張の折、列車に揺られながら「病院経営の内幕」(朝日文庫)を読んでみた。
 ひとつの病院倒産の背景には五百の病院・診療所が危険信号を出している、すくなくとも十五〜二十の極めて危ないところがある、という。倒産という劇的な形をとらないまでも、経営権を失ったり、みずから閉院するケースがより多く存在する。
 病院・診療所の倒産は、かつてはサイドビジネスや浪費などの「放漫経営」が主だったが、最近では設備投資の負担から経営困難におちいるケースが多いらしい。今後は、看護婦などのスタッフが不足して医療活動が思うように行えないため、「労務倒産」のタイプが増えるだろうと予想されている。
 同書は医師らの経営能力に疑問を呈し、「運営あって経営なし」と断じている。
 たしかにそうかもしれない。経営の問題などに煩わされずに診療に専念したい。それが良心の現れ。と、自負していたのでは、やはり危なくなるのかもしれない。
1991.11




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