BOOK2016
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 《2015|2016- 1011122017



宇野賀津子『低線量放射線を超えて』小学館新書
「放射線量は事故以前に比較するともちろん高いですが、健康に問題があるレベルとは思いません。むしろ心配しすぎて免疫力が低下することや、野菜にとりこまれた放射性物質が心配だからと、野菜を食べない方ががんリスクをあげるでしょう。危険を過剰に言うことも、過小に言うことも罪になる」(はじめに) 過剰も過小も間違いだというのは同感。 ▼自身の経歴や読んだ論文や書籍の数など、自慢げに記述している。権威付けから入るのは嫌な展開の仕方だ。率直なところ、読み続ける気力が萎えそうになった。権威を振り回す人はえてして権威に弱い。振り回しているつもりが、振り回されていることが多い。 ▼「危険を煽る論文を検証する」として、矢ケ崎克馬、バスビー、トンデル、肥田舜太郎、バンダジェフスキー、小佐古敏荘、児玉龍彦、武田邦彦、小出裕章、などなど名指しで激しく批判している。 めずらしく安斎育郎氏には「共感」を表明し、「過度に恐れず、事態を侮らず、理性的に怖がる」と氏の言葉を引用している。言葉は似てるようだけど、著者のスタンスとはだいぶ違うみたいだ。 ▼100ミリシーベルト以下では、広島・長崎でも放射線の影響はみとめられていない、との言葉が繰り返しでてくる。広島・長崎のLSSから「原爆被爆者における固形がんリスク」のグラフを引用し、「10歳で被ばくした人と30歳で被ばくした人のがんリスクはせいぜい2倍程度」としている。アメリカ科学アカデミーの「BEIR-Z」では、20mSVの被ばくによるがんリスクについて、幼児では30歳成人の3倍〜4倍になると報告されている。この資料については目をつぶったようだ。せいぜい4倍程度、ということだろうか。 ▼第五福竜丸の乗組員の死亡の原因が輸血によるウィルス肝炎だったことをとりあげて、放射線の影響がなかったかのように主張する。直接の死因は輸血性のウィルス肝炎だったとしても、輸血を要する重篤な状態にあり、それは被ばくによってもたらされたものだ。たとえば、東海村臨界事故での2人目の犠牲者の最終的な死因はMRSA感染によるが、この論法でいくと、死因は放射線障害ではなく、耐性菌感染を許した医療ミスとなるのだろう。 ▼後半は自分の専門の免疫機能について、一般むけの本とは思えないほど詳しく解説している。「低線量放射線の影響を過剰に心配するあまり、免疫力が低下する方が、もっとがんリスクを上げる」というのが基本のようだが、 少しでも心配する者を激しく非難するのは何なのだ? 「危険を過小に言うことも罪になる」との冒頭の言葉は何だったのか? どこかで論理の回路と感情の回路がショートしてるみたいだ。著者がくりかえし非難する肥田先生も、「免疫力を弱めないように、健康に生きることを心がけてほしい」と記している。(2016.01)

魚津埋没林博物館『魚津の植物』魚津市
市制60周年を記念して刊行された小冊子。魚津市は海岸から2415mの高山まで、変化に富んだ環境に恵まれ、1600種以上の植物が確認されているという。そのなかから200種を選んで記載している。見たことのある植物が多いが、ときおり見たことのないものもある。(2016.01)


リチャード・ベッセル(大山晶訳)『ナチスの戦争1918-1949』中公新書
目がくらみそうになる細かな戦史を連ねてある。「世界有数の工業国において、幼稚な人種イデオロギーに鼓舞された暴力的な政治結社が権力を掌握し、想像を絶する規模の戦争を起こしえた」。「本書はナチズムの中核にある要素、つまり人種という視点から考え出された闘争と戦争に焦点を当てることで、ナチズムについて明快な議論を提示するものである」 ▼第1章:第一次世界大戦の余波とナチズムの台頭(1919.7〜) 第一次大戦後のドイツ政界の特徴。 @過激化、暴力にたいする暗黙の容認。政治家に対する暗殺が続き、政党などは「民兵組織」を持つのが普通になった。Aベルサイユ条約は不公平であり、賠償は容認しえないものであり、それさえなければ万事解決する、という幻想。B失われた領土にたいする遺恨。 ▼ワイマール共和国最後の数年間、ナチの暴力の主な標的はユダヤ人ではなく共産党員と社会民主党員だった。 第一次世界大戦の負の遺産を克服できない社会と国において、ナチはイデオロギーを戦争と人種差別に絞ることで力を得た。ドイツ人がナチズムとヒトラーに寄せていた並々ならぬ信頼は、元をただせば戦争への信頼である。 ▼第2章 ナチ政権と戦争への道(1933.1〜) 首相就任直後、ヒトラーは軍幹部らを前に、「民主主義や平和主義などありえない」と演説している。 当初は左翼勢力や外国資本に対する暴力が広がり、SAの「お祭り気分」の活動としてユダヤ人攻撃が行われた。社会の関心は経済状況に向けられていた。ヒトラーが権力を掌握するに至った要因は経済的窮状と不安にあった。 ▼1933.7.17「断種法」(遺伝性疾患子孫防止法)成立 翌年施行。 34年:84430、35年:91299、36年:86254、37年:77000件の断種手術が行われた。 ▼1938.3.12オーストリア併合〜ウィーンにおけるユダヤ人迫害は、その後のドイツ全土でのユダヤ人迫害のモデルとなった。ユダヤ人は財産を没収され、国外に逃れた。 ▼第3章 ナチズムと第二次世界大戦(1939.9.1〜) ポーランド、オランダ、そしてフランスへの「電撃作戦」の成功によりドイツ国民に「信仰に近い信頼がかたちづくられた」。 ▼1941.6〜バルバロッサ作戦(ソ連侵攻)。ソ連がジュネーブ協定などを批准していないことを幸いに戦時国際法を無視し、絶滅戦争として実行された。しかし、電撃作戦が頓挫し、「総力戦」へ。「白旗を掲げた家にいる男たちは、すべて射殺される」‥ヒムラーの命令。日本の「玉砕」を連想させる。 ▼第4章:第二次世界大戦の余波(1945.9)  ヒトラーをはじめとするナチス幹部だけでなく、多くの住民が自殺した。そしてナチズムは見事に姿を消した。 「ドイツ史上最大の有権者の支持を集め、数百万の活動的な党員と信奉者を誇り、ひとつの世代を洗脳し、祖国を世界大戦へ邁進させ、最後の最後まで不可能な見通しに対しドイツ軍を持ちこたえさせた政治運動とイデオロギーが、ほとんど何の痕跡も残さずに消えることができたという事実は、じつに注目に値する。」 (2016.02)

AERA『「SEALDs後」何すれば 自粛の嵐…語る場がない』WEB新書
熱気が去ったあと、仲間じゃない人たちと対話し、中間にいる多数派の賛同を得ることで、政策は動いていく…(湯浅誠さんの言葉より)。ところが、あちこちで公共施設の利用が「自主規制」されたり、書店のブックフェアが中止されたり、マスメディアが萎縮したり…と、多方面で「自粛の嵐」が起きている。(2016.02)


西村一郎『愛とヒューマンのコンサート 音楽でつながる人びとの物語合同出版
2015年中の、今野強さんらの「愛とヒューマンのコンサート」を取材した書。坂本弁護士一家を探す活動が出発点だったが、やがて阪神淡路大震災や東日本大震災の被災地での活動が大きなウエイトを占めるようになっていった。当方も「都子さんメモリアル・愛とヒューマンのコンサート」で取材を受けた。129p〜144pが魚津の部分。(2016.03)

宗川吉汪、大倉弘之、尾崎望『福島原発事故と小児甲状腺がん』本の泉社
3人の著者は生物学者、数学者、医師である。「本書の主張は単純明快です。福島の小児甲状腺がんの多発の原因は原発事故でした」(はじめに) ▼福島県の「先行調査」は事故発生時に19歳未満だった県民全員を対象に2011.10〜2015.04.30にかけて実施された。「本格調査」は、先行調査対象者に加えて2011.4〜2012.4に生まれた子どもが追加された。対象者は20万人を超える。 先行調査は事故前からの累積発症であり、本格調査では事故後の累積発症がカウントされる。いわゆる「スクリーニング効果」とは関係のない母集団である。 ▼第2章では、25ページにわたって統計学的な解説がなされている。昔なつかしい数理統計学の数式が並んでいる。この部分は、斜め読み…… ▼小児の甲状腺がんは、成人のものと比較すると浸潤傾向・転移傾向が高く、より悪性度が高い。甲状腺がんは手術しなくてもいい、と主張する「専門家」がいるが、浸潤、転移の多い甲状腺がんを放置することは危険である。 ▼かつて、小児の皮膚疾患や扁桃肥大にたいして放射線照射治療が行われていた時代があり、その後長期間たってから甲状腺がんが多発した。最も高率なのは被ばく後15年〜30年だった。今後とも長期にわたる緻密な追跡調査が必要だ。 (2016.03)

白石草『ルポ・チェルノブイリ28年目の子どもたち』岩波ブックレット
チェルノブイリ原発の東南約160キロ、ウクライナの森に囲まれた地方都市の学校を取材している。健康な子どもが激減した。2013年度の体育の授業では、定められた通常の授業を受けられるのは4分の1だけ。時間制限などを伴う「準備グループ」が59%を占め、まったく別系統のカリキュラムとなる「特別グループ」が14%である。▼「チェルノブイリ法」による地域区分は日本と比べると桁違いに厳しいものだ。  [第1ゾーン=特別規制ゾーン]:30キロ圏内(事故後ただちに避難)  [第2ゾーン=避難義務ゾーン]:年間5ミリシーベルト以上  [第3ゾーン=移住権利ゾーン]:年間1ミリシーベルト以上  [第4ゾーン=放射線管理強化ゾーン]:年間0.5ミリシーベルト以上(妊婦・子どものいる家庭は移住可) ▼年間0.5ミリシーベルト以上を「汚染地域」として、ウクライナ保健省の定めた指針に沿って、通常の学校健診のほかに年2回の健診が行われている。健診の内容は健康や発達全体に及ぶ。指針で「一つの疾患にとらわれると健康レベル全体が評価しにくくなる」と注意喚起している。 健診結果は統一カードに記載され、国立情報センターで管理している。登録されている被災者は240万人。被災学童に対して「保養」が国家事業として広く実施されている。 ▼政府が重視する「国際的な合意」とされる「科学」とは、被曝線量と疾患の間に明確な線量反応関係がなければ、すべての影響を「非科学的だ」と封じてしまう。目の前で起きている被害を黙殺する「科学」とは、一体何のための「科学」なのだろうか。 ▼日本では、病気や障害を抱えていること自体を不幸ととらえる空気が強い。しかし、当事者にとってより辛いのは、そのことによって差別されたり、孤立したり、貧困に陥ったりすることではないだろうか。行政や社会が、そうした人々に寄り添うことなく、誠実な対応を取らないことこそ、当事者にとって耐え難いことだろう。(エピローグ) (2016.03)


高田博行『ヒトラー演説』中公新書
著者はドイツ文学者である。ヒトラーの演説のうち558回分、総語数約150万語のデータベースを作成し、それをもとに、ヒトラーの演説の特徴、弁論術、修辞法を分析している。 ▼オーストリア、リンツに住んでいた少年のころにも弁舌がたくみだった。(同級生の話) 1907〜ウィーン。「芸術家」をめざすも挫折。当時のウィーン市長ルエーガーの反ユダヤ主義や演説技法に影響を受けている。 ▼第一次世界大戦のあと、ミュンヘンで帰還兵に反共産主義的、愛国主義的な思想教育を行う「啓発教育部隊」に所属。講習会での「演説」は好評で、「生まれつきの民衆演説家」と評する者もいた。 ドイツ労働者党の集会に偵察のために参加し、そこでの発言が認められて、入党勧誘を受ける。 1919.10.16、ドイツ労働者党の集会で「弁士」としてデビュー。 ▼1923.11、ミュンヘン一揆で服役中に、心理学や、表現法などを学習している。ナチスの政権獲得〜第二次世界大戦の開戦ころまでは、その演説が力を発揮した。のちに、秘密裏にオペラ歌手を招いて、半年以上にわたり発声法から身振り、視線のコントロールまで細かく指導を受けている ▼しかし、戦線の膠着から敗戦へ向かうにしたがい、演説は力を失い、ヒトラーじしんも語ることを避けるようになる。ラジオ放送やニュース映画を使ったヒトラー演説は、国民の支持を得られず、反感を買うこともあった。(2016.04)

保阪正康『あの戦争は何だったのか』新潮新書
平和教育の歴史観は「反戦」「平和」「自由」「民主主義」「進歩」といった美辞麗句をちりばめ‥‥史実の理解もなく、やみくもに一元的に語ってきた。……と、リベラル派を批判することから始まる。このような立ち位置の論者が最近は安倍を批判している。 ▼12月8日朝7時のラジオニュースで開戦を知った時、「国民はみな歓喜に沸いた」のである。「ああこれでいい、これで大丈夫だ、もう決まったのだ、と安堵の念の沸くのを覚えた」(伊藤整) 「人間のDNAの中に、“暴力”の支配下での陶酔感に浸れる資質のようなものがあるのかもしれない‥‥」  ▼指導者たちが自分たちに都合のいい情報のみを聞かせることで、国民に奇妙な陶酔をつくっていき、それは国民の思考を放棄させる。つまり考えることを止めるという人間のロボット化だったのだ。 ▼この戦争のプロセスにひそんでいるこの国の体質‥‥戦術のみにひたすら走っていく。‥‥現実を冷静に見ないで、願望や期待をすぐに事実に置き換えてしまう。太平洋戦争は今なお私たちにとって“良き反面教師”なのである。(2016.04)


石田勇治『ヒトラーとナチ・ドイツ』講談社現代新書
ミュンヘンで「ドイツ労働者党」に加わり、それが「国家社会主義ドイツ労働者党」に変わっていく時期、ヒトラーの演説の柱は「ユダヤ陰謀論」のドイツ版であった。 ▼1933.1.30、ヒトラーが首相になった。選挙に勝ったからではなくて、ヒンデンブルク大統領が任命したからだ。国会第一党とはいえ、3分の1弱の議席しかなく、連立した国家人民党を加えても過半数に達しなかった。議会少数派が大統領の任命により首相となり、「大統領緊急令」を頻発して政治を行う、という体制=「大統領内閣」が続いていた。 ▼ヒトラーは首相になるとすぐさま議会を解散し、国会議事堂の火災炎上事件を口実に野党を弾圧し、議会で多数派となる工作をすばやく進めた。 真っ先に不退転の姿勢で取り組んだのが、「授権法」または「全権委任法」と呼ばれる法制である。正式名は「国民および国家の苦境除去のための法」 (1933.3.23) 、憲法も立法機関も関係なく、政府が法律を制定できる、とする法律が国会の議決(3分の2)で成立した。これに基づいて、新しい法律(いわゆる「ナチ法」)が続々と制定されていった。 ▼1934.8.2、ヒンデンブルク大統領が死去。直前に制定した「ドイツ国家元首に関する法」により、その日のうちに、ヒトラーが首相と大統領を統合した「総統」になった。ここに「ナチ体制」が確立した。手回しがよいというか、機を見るに敏、というか、何がおきても抜け目なく利用する。 この間、ヴァイマル共和国憲法は改正・廃止されることなく形骸と化し、見せかけ上の合法性のもとで国家と社会のナチ化が進んだ。 ▼1933.3、 国民啓蒙宣伝省を新設し、ゲッベルスが担当大臣となった。 プロパガンダは単なる宣伝でも広報活動でもない。それは政治指導者・為政者が特定の情報を大衆に伝え、大衆の行動をある方向へと誘導することだ。自らに不利な情報はいっさい伝えず、有利な情報だけを誇張、潤色、捏造もお構いなしに発信し続け、大衆の共感を得る。敵を仕立て上げることも情報操作ひとつでたやすいことだ。真偽を問わずネガティヴな情報だけを流し、マイナス・イメージを刷り込み、大衆の怒りを煽る‥‥ ▼「人種衛生学」にもとづく「強制断種法」(遺伝病子孫予防法)により、精神・身体に関わる8つの疾患と重度アルコール依存症を法定遺伝病に選定し、これらの患者に対する強制断種を可能にした。 断種手術の申請権は、本人の他、官医、病院長、施設長、刑務所長にも認められた。断種可否の判定には遺伝健康裁判所が設けられ、その決定が下れば本人や保護者の合意なしに手術を強行できた。(ナチ体制下で約40万人が対象となった) ▼1939.10〜 T4作戦。 ガーレン司教の抗議で、表向きは中止したが、子ども&新生児については続行し、ドイツ国内で21万6千人が犠牲になった。(公式発表では7万人とされているが、ニュルンベルグ戦争犯罪弁護団事務局のレオ・アレクサンダー博士は27万5千人と推定している→) ▼1939.9.1〜 ポーランド侵攻。ポーランドにはユダヤ人約250万人が暮らしていた。これらを「有害人種」として立ち退きさせ、そこにバルト諸国やヨーロッパ東部のドイツ人を移住させた。退去させるユダヤ人の一時的な収容先としてゲットーが設置された。しかし、あてにしていたマダガスカルやソ連領がだめになり、追放政策から絶滅政策へ転換する。 ▼2013年8月、麻生副総理が、ある集会で、 「ワイマール憲法が変わって、ナチス憲法に変わっていたんですよ。だれも気づかないで変わった。あの手口に学んだらどうかね」 と発言して話題になった。ナチの流儀を真似しようとする政治家が国の中枢にいるのだ。 (2016.05)

小林哲夫『シニア左翼とは何か』朝日新書
2015年8〜9月、安保関連法案反対集会に集まった人のうち、メディアでは「SEALDs」などの若者が注目を集めたが、数では年配者のほうが多く集まっていた。 ▼著者は「シニア」を60歳以上、「左翼」を「反体制」とまでは踏み込まず、「反政権」「反政策」と広く定義する。ネーミングに少々無理がある。 「シニア左翼」を4つのタイプに分類している。@一貫組、A復活組、B「ご意見番」組、C初参加組。そして、おおざっぱな見立てで、@2割、A3割、B1割、C4割、としている。 ▼シニア左翼の紹介のなかでは、中核派や革マル、ブント、社青同などの、昔懐かしい「新左翼」の面々がたくさん取り上げられている。あまり、こういうのがからんでくると、大衆運動ではなくなっていくようで心配になる。いちばん多いという「C初参加組」を、もうすこし丹念に取材してほしかった。(2016.05)


小熊英二『生きて帰ってきた男』岩波新書
副題ーある日本兵の戦争と戦後ー 著者の父謙二が主人公である。 ▼やはりルーツは新潟県だった。父謙二は北海道生まれ、祖父雄次は新潟県中蒲原郡の生まれ。その先代がコメの先物取引で田畑を失って零落した。雄次は北海道に渡り、のちに代書屋として成功する。 ▼謙二は小学校入学に際して東京へ移る。中学校から早稲田実業に進み、1943卒業後、富士通信機製造に就職。1944、19歳で召集令状〜二等兵として満州へ。敗戦、シベリア抑留をへて1948.8帰国。1951〜結核。療養所をへて胸郭形成手術を受け、身障者手帳の交付。流転のすえ、スポーツ用品販売会社に就職し、会社倒産後は自分で会社を設立。 ▼1987、60才で第一線を退き、アムネスティ・インターナショナル会員、 新聞投書が縁で「不戦兵士の会」、などなど社会的な活動に入り込んでいった。「戦後補償裁判」に1章があてられている。国はかたくなに戦争被害への補償を拒んだ。戦争の被害は「国民がひとしく受忍」するべきもので、特定の被害者にのみ補償すれば不公平になる、というのがその論拠だった。 ▼それにしても、くわしく流転の経緯を調べている。その時代背景についても、リアルに描いている。(2016.06)


尾内康彦『患者トラブルを解決する「技術」』日経BP社
著者は大阪保険医協会の事務局次長。「なにわのトラブルバスター」の異名を持つ。 昔とは比べ物にならないほど患者トラブルが増えていて、しかも悪質になっている。多くの実例を示しながら、問題の所在や解決のポイントを示している。あまりに身近かで、いつトラブルに巻き込まれても不思議でない、と感じる。はたして、平常心をもって対応できるかどうか、自信はもてない。 ▼トラブル対応の大原則。@解決できないトラブルはない。Aトラブルから逃げてはいけない。B最悪のシナリオを考えておく。Cファンがある日、クレーマーになることも。D早期対応が早期解決のカギ。Eクロージングをしっかり決める。F繁盛している病医院ほど危ない。G落ち度がなくてもトラブルは起きる。H暴力・暴言は犯罪、許してはならない。I応召義務に過剰反応しない。Jトラブルは解決後こそ大事。K経営幹部のリーダーシップがトラブルに強い組織をつくる。 ▼本質を見極める。(着眼点)@「本当の不満・要求」を見抜く。A事実を正確にたどり客観視する。B相手の気持ちに寄り添い、行動で表す。C暴力・暴言は絶対に許さない。D他院での診断はトラブルのもと。E相手の人間関係を探る。Fはったりを見ぬく。G同じトラブルが、他院で起きていないか。Hトラブルの最大の原因は「医師の説明不足」。 ▼解決の技術 @「一筆」は絶対に書かない。A第三者とは交渉しない。B「相手が納得できるレベル」に落とし込む。C警察とは普段から、関係を築いておく。D「お金で解決」もある。E弁護士は要所でお願いする。F矢面に立った職員を組織全体で守る。G未収金は小額でも放置しない。H問題患者の家族に、解決のキーパーソンがいる。I決め手は度胸と毅然とした態度。 ▼明らかに不当な暴力、暴言を受けたら、ためらわずに警察に相談すべきだ、との助言が何回か繰り返しでてくる。たしかにそうなのだが、その前に折れてしまいそうになるのが人間の弱さなのだろう。ともあれ、心しておこう。(2016.07)

本間龍『原発プロパガンダ』岩波新書
電力9社が1970年代から3.11までの約40年に使った「普及開発関係費」(広告費)は2兆4千億円に上っている。 3.11直前まで、巨大な広告費による呪縛と原子力ムラによる情報監視によって、原発推進勢力は完全にメディアを制圧していた。 ▼1979年にスリーマイル島原発事故のあと5年間で東電の広告費は2倍に増えた。チェルノブイリ事故の翌年には25%アップしている。 原発プロパガンダは、国民に対しては原発政策支持者を増やすための「欺瞞」であり、メディアに対しては真実を報道させないための「恫喝」という極端な二面性を持っていた。 ▼いくつかの原子力推進勢力からの圧力の事例を挙げている。1976年、田原総一郎が「原子力戦争」を「展望」に連載。電通から圧力がかかり、テレビ東京を退職した。 ▼1988年、青森放送制作の「核まいね」事件。好評を得て、NNNの全国放送でも放送され、多くの賞を受賞したが、のちに科学技術庁、日本原燃からの強いクレームがつき、社長交代、青森放送の報道制作部解体にまで進んだ。 ▼「プルトニウム元年事件」:広島テレビが1992年、プルトニウム利用の動きを追った「プルトニウム元年・ヒロシマから〜日本が核大国になる‥!?」を制作、日テレ系列の「NNNドキュメント」で全国放送され、93年に日本ジャーナリスト会議奨励賞などを受賞した。地元の中国電力と電事連から執拗な抗議を受け、報道局の4人が配置転換(左遷)された。 ▼86年のチェルノブイリ事故により巻き起こった激しい反原発運動に対抗すべく1991年、科学技術庁(当時)が原子力文化振興財団(現:原子力文化財団)に委託し、「原子力PA方策の考え方」という指針を作らせた。 PA=パブリックアクセプタンス。微に入り細に入り、世論操作の方法を説いている。 ▼2000年代の原発雑誌広告の特徴は、いわゆる「タイアップ広告」の激増である。広告主が広告費と原稿製作費を負担し、雑誌社側で広告原稿を制作する。‥広告主を明示せず、一般記事と見分けがつきにくいため、「記事風広告」とも呼ばれている。 ▼2013年以降は「安全神話」に代わって「安心神話」を流布している。 リスクコミュニケーション(リクコミ)の旗印を掲げ、かつて国や自治体、電力会社が一体となって原発安全論をふりまいていたように、今度は「放射線安心論」を国民に刷り込もうとしている。 ▼メディアには自浄能力がない。だから、メディアを監視し、問題提起するNPO組織を立ち上げたい、としている。 (2016.07)


山崎雅弘『日本会議 戦前復帰への情念』集英社新書
NHK大河ドラマ「花燃ゆ」の主人公・文(ふみ)の2番目の夫・小田村伊之助は、政治団体「日本会議」の副会長・小田村四郎の曽祖父とのこと。安倍へのごますりが見え見えの大河ドラマのテーマ決定だったが、そんなつながりもあったのかと驚かされる。日本会議国会議員懇談会:閣僚の半分、議員の4割、安倍は「顧問」。これは黙していても大きな圧力になる。 そのためか、日本の大手メディアは安倍政権と日本会議の緊密な関係についてほとんど報じてこなかった。 ▼日本会議は「日本を守る会」と「日本を守る国民会議」が統合する形で1997.5.30に設立された。「日本を守る会」は共産主義(無神論)と創価学会(国立戒壇)への怖れという共通の問題意識の下に結集した。憲法改正は特に重視していなかった。1981.10.27、保守派の財界人・文化人を主なメンバーとして「日本を守る国民会議」が創設された。憲法改正を掲げている。この間の動きに重要な役割を果たしたのが、日本青年協議会とその中心にいる椛島有三(かばしま)であり、現在は日本会議の「事務総長」の要職についている。 ▼神道政治連盟は神社本庁の提唱した「神道精神を国政の基礎に」というかけ声のもと、1969.11.8に発足した政治運動団体であり、半年後に神道政治連盟国会議員懇談会が発足した。国会議員の4割が加入している。 ▼「皇室と国民とが一致団結して紡いできたのが、わが国の国柄です」櫻井よしこ、「日本を守るとは、究極的には、皇室と神社に象徴されるこの国の形を守ることなんだ」(京大名誉教授・中西輝政) ‥日本会議の論客は、戦前・戦中の「天皇中心の国体を守る」ことがすなわち「国を守る」ことになるのだと主張する。天皇を持ち上げながら、天皇を苦しめた東條や当時の戦争指導部を批判しようとはしない。 ▼日本会議は教育基本法を廃棄し、教育勅語を復活させることを提言している。 彼らは今も、当時の大本営が定めた「大東亜戦争」という呼称を使い、「大東亜戦争の賛美」、「侵略戦争の容認」、「東京裁判の否定」を主張する。 ▼日本会議の論客らが、自民党改憲案よりもさらに一歩踏み込んだ改憲案を「国民の憲法」(産経新聞社)という形で発表している。2014.10.1「美しい日本の憲法をつくる国民の会」設立。共同代表は田久保中衛(日本会議会長)、三好達(同前会長・現名誉会長)、櫻井よしこの3人。そのほかにも役員には事務総長の椛島有三や副会長の田中恆清などが名を連ねる。 ▼日本国憲法に対して、安倍は「みっともない憲法です」と評し、櫻井よしこは「日本人をダメにする憲法」と言う。 彼らに共通する論点:「GHQの押し付け」「日本の国柄の不在」。「大東亜戦争」と同じことを「自衛権の発動」という名目で行うことが可能になることを望んでいる。 ▼2015.3.15「国民の会」総会での櫻井の発言:「安倍内閣という志を同じくする内閣が健全な今こそ、憲法改正の最善のチャンスだ」。 日本会議副会長・小田村四郎が「正論」05・6月号に書いた記事のタイトルは「日本を蝕む『憲法3原則』国民主権、平和主義、基本的人権の尊重という虚妄をいつまで後生大事にしているのか」。 2014.10「国民の会」での自民党・衛藤晟一議員の発言:「最後のスイッチが押されるときが来た。安倍内閣は憲法改正の最終目的のために成立したといって過言ではない」。   (2016.08)


マーティン・ファクラー『安倍政権にひれ伏す日本のメディア』双葉社
「安倍政権のメディア・コントロールは実に賢い。政権がメディアをコントロールしたいと思うのは当然だ。私はメディア・コントロールに努める安倍政権よりも、やすやすとコントロールされるままでいる日本のメディアに強い危機感を覚えている」(29p)‥この問題意識が全編を貫いている。 ▼日本のメディアは、メディア同士でケンカをしている。そのケンカを安倍政権はうまく利用しているのだ。他のメディアが圧力を受けているのであれば、我が事のように憤る。会社という縦割りの縄張り意識を捨てて、「ジャーナリズム」という一点で日本のジャーナリストは団結しなければ、権力者の思うつぼだ。(47p) ▼朝日新聞は2014年8〜9月、従軍慰安婦問題での「吉田証言」報道取り消しに続き、福島第一原発「吉田調書」報道でも、せっかく大スクープのネタをつかみながら、扱いを誤り、誤報にしてしまう愚を犯してしまった。読売、産経による朝日バッシングが燃え上がったが、その裏には政府側からの情報提供が疑われる。 ▼北海道宗谷郡猿払村(さるふつ)へのネット右翼攻撃の事例が記述されている。戦時中、陸軍の浅芽野飛行場が造られた際に、日本人受刑者と朝鮮人徴用労働者が強制労働させられ、100人余りの死亡者がでていた。06〜10年、日韓合同のチームで発掘調査が行われ、13年11月26日に慰霊碑の除幕が予定されていたが、右翼からの激しい攻撃のために中止されてしまった。攻撃にさらされた村に対して、他の自治体もメディアもまったく応援の手を差し伸べようとしなかった。‥ 「猿払村の問題は、北海道の小さな村で起きた小さな問題と侮ってはいけない。日本社会全体の言論の自由、民主主義そのものに関わる重大な問題なのだ」 ▼政権からメディアにかかる圧力はアメリカのほうがずっと深刻だ。今、アメリカで起きていることがメジャーリーグレベルだとすれば、日本はまだマイナーリーグにも届かない、高校野球レベルだ。にもかかわらず、大事なところで日本のジャーナリズムは手を組もうとしない。著者は、「横の連帯がないタコツボ型ジャーナリズム」と評する。 ▼米国とイスラエルがイランの核開発を妨害するために仕掛けたサイバー攻撃をすっぱ抜いたニューヨークタイムズのディビッド・サンガー記者の事件が紹介されている。‥ 「このとき、アメリカの他のメディアの多くはデイビッド・サンガー記者を擁護した。記者の人権は憲法によって守られている。市民に伝えるべき情報を伝え、なおかつ情報源を守ることができなければ、ジャーナリストは仕事ができなくなってしまう。それはすなわち、民主主義の機能不全を引き起こす。だからアメリカのジャーナリストは必死でスクラムを組むのだ。」  (2016.09)


菅野完『日本会議の研究』扶桑社新書
「右翼であり保守だ」と自認する著者が、「保守」や「右翼」の基本的素養に欠ける一群の保守論壇人に注目し、資料を集め続けた結果、「日本会議」に行き着いたという。日本会議の役員の3分の1以上が宗教関係者であり、宗派や信仰対象や伝統の違いを超えて、運動を支えている。 ▼1966年、「生長の家学生会全国総連合」(生学連)が結成され、のちに社青同などに占拠されていた長崎大学でキャンパス開放。長崎大学学生協議会を結成し、その議長となったのが椛島有三である。のちに「日本青年会議」代表、「日本会議」事務総長。 ▼安倍政権を支える「日本会議」の椛島有三も、安倍の筆頭ブレーンと目される伊藤哲夫も、内閣総理大臣補佐官である衛藤晟一も、政府が南京事件の記憶遺産登録を阻止すべく頼った高橋史朗も、全員が「生長の家」から出た人々だ。だが、宗教法人「生長の家」本体は、1983年に政治活動から撤退している。その路線変更を良しとしない古参信徒たちが今、教団に反旗を翻し「生長の家原理主義」運動を展開中であり、その運動に、稲田朋美や百地章など、安倍政権と深いつながりを持つ政治家・学者が参画している。 (230p) ▼稲田朋美は、ある講演会で、生長の家の経典「生命の實相」(戦前版)を掲げて、「祖母から受け継いだ … ボロボロになるまで読んだ」と語っている。 ▼40年以上前に始まった彼らの運動は、目下、「日本会議」「日本政策研究センター」「谷口雅春先生を学ぶ会」の3つのドメインに分かれており、綿密な連携をとりつつ、各方面に展開している。 それぞれの頭目たち─椛島有三・伊藤哲夫・中島省治─は事業本部長のような存在…それを束ねて運動全体を見渡す立場の人間、それが安東巌だ。(254p) 安東巌はS14年生まれ。高校時代に大病を患い9年間の休学。その間に、生長の家に傾倒していく。長崎大学の「正常化運動」で指導的役割を果たし、その後も、表に出ることなく、巧みに運動を支配している。 ▼これらの一群の人たちは、どうしてそのような主張をしているのか? 論理というより宗教的な印象を受ける。もともと生長の家で結びついた人たちだから無理もないのかもしれないが、どうにもとらえどころがない。著者は、当初、「巨大組織・日本会議」というイメージを抱いていたが、「ほんの一握りの人々が有象無象の集団を束ね上げているにすぎない」と言う。それにしては影響力が大きすぎる。(2016.10)


AERA『あと5年で医療制度は破綻する』WEB新書
「現役厚労幹部官僚が大胆告発」と題したインタビュー記事がメイン。匿名の官僚が医療制度の財政破綻に対する危機感を語っている。「消費税の引き上げも10%では到底足りないでしょうし、引き上げがうまくいかなければ、最短5年で、医療制度は破綻します」 ▼フリーアクセスと出来高払制を「構造的な問題」と位置づけ、「このままでは採算のとりようがない」と評する。国の財政負担を求めるのは「悪質だ」とも言う。「不道徳だ」と表現した与党幹部と相通じる感覚である。 ▼具体的な提案を含んでいる。高齢者の自己負担割合を低くするのは不公平であり、「本家麦飯、離れすき焼き」と評している。延命医療や高額な抗がん剤などは公的保険から外して民間保険に任せるべきだという。「免責額」を設けるべきという言葉もある。「自由診療を増やし、市場競争にゆだねればコストが下がる」ともいう。もう、何でもあり‥‥「診療報酬に依存する病院から潰れていく」ことを願っているらしい。(2016.10)


大橋巨泉『それでも僕は前を向く』集英社新書
1934年(昭和9年)3月22日生 - 2016年(平成28年)7月12日没(82歳)、本名=大橋 克巳。東京の下町育ちである。「巨泉」は中学時代から始めた俳句の俳号であり、「巨」は巨人ファンだったことから使ったという。 ▼「父の考え方は、僕の血肉になっている。母の存在は人生を左右した」、「僕自身は天才の反対側で生きてきた人間だと思っている」、「僕はただ、ひたすら働き者だっただけである」‥と思いのほか謙虚な表現が連なる。父親の「超現実主義、原理主義的現実主義」と、母親の下町気質に強く影響を受けている、と自らを省みている。 ▼戦時中、本人は典型的な軍国少年だったが、父親は冷静に世相を見ていたらしい。‥皇国少年だった僕は、本気で「天皇陛下のために死ぬ」と思っていた。…洗脳は本当に怖い。…洗脳された脳は、無いと同じなのだ。日本では「空気を読む」よりも「空気に同調する」ことを求める「同調圧力」があり、一気に同じ方向に向かいやすく、洗脳は短期間に完成する。‥と振り返っている。それが現代の世相への批判につながる。 ▼安倍政治を「空想・妄想・言葉遊び」と痛烈に批判している。なによりも、「空気」に弱い日本人が、おかしな方向に流されていくことに強い懸念を表している。 本には記述はないが、「マスコミ九条の会」呼びかけ人を務めた。 (2016.11)

澤地久枝『14歳<フォーティーン>』集英社新書
「弟の孫が14歳になった。この男の子に、むかしの日本の暮しについて、話してやりたいと思う」との書き出し。14歳の子どもに、自分が14歳だったころの話を聞かせる、という設定になっている。 ▼昭和9年(1934)生まれ、終戦時に14歳だった。昭和9年に父親が満州に渡り、翌年、家族を呼び寄せた。「戦争が終わったと聞いた瞬間、『ああ、神風は吹かなかった』と真面目に思った。戦争は勝つものと、一点の疑いもないような14歳、軍国少女だった」。(11p) ▼自分のことを「私」ではなく「少女は・・」と記述している。満州での終戦、引き上げまで、過去の自分を客観的にルポルタージュ風に描いている。(2016.11)


立花隆『「戦争」を語る』文藝春秋
本名:橘隆志。昭和15年、長崎で生まれ、5歳のとき、北京で終戦を迎えた。 父親は水戸の出身で、早稲田大学を卒業し、長崎のミッションスクールに教師の職を得た。 戦時下でミッションスクールの運営が難しくなり、北京に転職。昭和21年.3.22帰国。 ▼S34(1959)に東大入学。その年に開かれた第5回原水禁世界大会(広島)に参加。駒井洋(現筑波大名誉教授)と「原水爆禁止世界アッピール運動推進委員会」を結成。翌年、カンパを募ってロンドンでの「学生青年核軍縮国際会議」に出席した。同時期の学生運動の混乱や、欧米諸国を見て日本の影響力の少なさに失望するなどして、学生運動や市民運動から離れていった。しかし、「70歳をすぎてから原爆体験や戦争体験を引き継ぐ活動に首を突っ込むようになった」という。 (2016.12)


2015|2016- 1011122017

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ダイモンジソウ(大文字草)