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機関紙誌等に発表した雑文等を掲載しています。


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寒中お見舞い申し上げます   2022.1




二人の親友    2022.03.01

反核医師の会MLへの投稿を収録しました

 先日、ふと思い立って名刺を整理しはじめました。約600枚たまっていた名刺を10枚づつならべて、スキャナでデータ化し、これからも必要なものを除いて焼却処分することにします。
 整理しているうちに、懐かしい名刺がでてきました。中学、高校と同級だった親友、K君の名刺です。肩書は日本の大手コンピュータ会社N社の「シニアコンサルタント」となっています。
 彼は、大学で原子核工学を学び、原子力発電を管理するコンピュータシステムの仕事をしていました。
 当初、別の外資系コンピュータ会社に就職したけど、ヘッドハンティングされてN社に移った。最初のが何という名前の会社だったか、なかなか思いだせません。数日たってから、ふっと思いだしました。「日本ユニバック」 ‥いまはこの名前の会社は存在せず、違う名前になって業務を引き継いでいます。
 彼の現役時代はプルトニウムとウランを混ぜたMOX燃料を使うプルサーマル原子力発電が始まったころでした。彼によれば、こいつはコントロールが難しくて、いうことを聞かない駄々っ子のようなやつだ、とのこと。
 そんな友が57歳の若さで腎臓がんで亡くなりました。
 もうひとり同級生のY君。K君と3人でよくつるんで歩いたものです。大学で環境工学を専攻し、卒業後は公的な研究機関に就職しました。
 東日本大震災の年の秋、彼と郊外のキャンプ場で中学の担任だった先生を交えてバーベキューパーティをしました。ステージ4のすい臓がんが見つかって、もう長くはない、という彼のために計画したものです。福島原発による大気汚染は、もう地球をひとまわりしてるよ、とのことでした。その1月余後に死去。K君の死から5年後でした。
 それから10年。私はなんとか生きてはいますが、ぶらぶらとしているだけで、恥ずかしいかぎりです。




奨学金に感謝    2022.11.16

回想メモ

 新聞の記事に奨学金のことが書いてあって、そういえば自分も受けていたな、と思い出した。しかし、いくら支給されていたか、今となっては思い出せない。
 ひとつは「育英会」の奨学金だった。大学に入ってすぐに説明会があり、申請した。父・三代吉は奨学金の受給に反対した。自分の力で面倒見れるんだ、という自負もあったのだろう。父は肺の切除手術を受けていて、身体障害者の認定を受けていたので、それだけで受給資格をパスしたように記憶している。
 私のほうは、親からの仕送りをできるだけ少なくして、負担を軽くしたい‥‥というのは表向きで、親への依存を軽くすることで、束縛を少しでもゆるめようという下心があった。親の全面負担だと、やがて親の言いなりになる、という不安感があった。父の強い意思で、歯学部に進学したものの、自分なりの生き方を模索していた。
 もうひとつの奨学金は「山梨勤医協」のものだった。学生生活の後半過ぎから受給していた。そのころ、歯科系の学生のグループでフィールド活動などに没頭していた。山梨も活動の場だった。卒業後、山梨の病院に勤務することが奨学金の条件だった。
 病院の奨学金の話が決まったころ、両国のアパートから、神楽坂近くの自炊可能なアパートに引っ越した。自炊すれば、生活費がかなり節約できるという算段だった。じっさい、昼の弁当も自分で作って通学していた。まわりの同級生には、自炊なんてありえない、きっといい女ができて同棲してるんだろう、絶対そうだ、と言われたものだ。そんなこんなで、父からの仕送りはほとんど使わない状態が続いた。
 やがて卒業。山梨の病院には歯科がなく、卒業と同時に就職しても、仕事ができない。既卒の先輩が来てくれることになっていたのだが、直前になって、家庭の事情でダメになった。そんなわけで歯科のオープンは夏ごろになったが、先輩の大学医局員などの協力を得て、なんとか動きだした。
 育英会の奨学金は病院勤務の間に返還を完了したように記憶している。病院の奨学金は、一定の期間勤務することで返済が免除になる。その規定をクリアしたはずだ。
 いずれにせよ、奨学金のおかげで、それなりに自分を貫くことができた。感謝。







おでん    2022.11.20

回想メモ

 むかし、祖母トミが「やま富」という名のおでん屋をやっていた。私が小学校に入ったころには閉店していたように思う。しかし、広い玄関に店の名残があったし、ときどき食事のときにおでんが出ることもあった。
 大学に進学し、先輩に連れられてお茶の水駅の近くで屋台のおでんを食べた。実家のおでんとの余りの違いに驚いた。のちに祖母に尋ねたら、「やま富」のおでんは、京都風のつくりで、京都では「関東煮」(かんとうだき)というのだとのこと。京都の料理は見た目にもきれいに並べるのだが、おでんはごった煮のようなものなので、京都の人間はわざわざ関東風だと言ったのではないか、と。ともあれ、東京のおでんは味も色も濃く、なじめなかったので、祖母に「やま富」のおでんの作り方を教わった。
 ダシのメインは昆布で、塩で味付け。醤油はごく少量、隠し味程度。大根は面取りをして隠し包丁を入れる。揚げものは熱湯で油抜きをする。汁や具を継ぎ足して長く使える。ちょっとした味の加減には昆布茶を使う。‥‥などなど。
 東京での自炊生活で、おでんは「定番料理」となった。おでんがあれば、ほかにおかずは何もいらない。ただひとつの難点は、ひととおりの具をいれて仕上げると量が多くなり、食べきれなくなることだ。寒い時期なら何日もかけて食べるのだが、暖かい時期はそうもいかない。
 やがて結婚して家庭を持って、「やま富のおでん」は我が家の定番料理のひとつになった。





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イワウチワ
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