BOOK2005
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 《2004|2005− 1011122006



2005年1月

渋川智明『福祉NPO』岩波新書
98年、いわゆるNPO法の施行により、法人化が可能になったが、それほどメリットはない。そのぶん干渉も少ないというが、暴力団の隠れ蓑に利用されたりしていることを考えると、メリットとは言えない。さまざまな優遇を受ける「公益法人」のなかには「官益」法人が多く含まれる。本物の第3のセクターとしてのNPOの発展はこれからだ。日本では誤った「第3セクター」の用語が普及してしまった。著者は「公・民・共」と表現している。「ボランティア」という用語についても、無償奉仕というイメージが固定していて、困ったものだ。金とヒマのある人のステータスを表わすブランドのような印象を受けることがある。人間の善意が活かされ、報われるしくみのはじまりとしてNPOに期待する。2005.01.05

川渕孝一『歯科医療再生のストラテジー』医学情報社
20年前にくらべ、歯科医の実質収入は12%低下した、という。実感としては、それ以上にしんどくなっている。収入が低下する一方で、経費は下がらないから、所得はもっと低下しているのであろう。かつて医科とほぼ同等だった所得が、いまはほぼ半分になっている。著者は、公的医療について、すべてを社会保険でカバーすることに無理があるという。シンガポールの「強制貯蓄」制度を高く買っているのは意外だった。貯蓄というものの性質上、所得以上に格差が大きくなると思う。2005.01.22

平山郁夫『西から東にかけて』中公文庫
被爆者であり、日本を代表する日本画家の「画文集」。中東、シルクロードを中心に、驚くべき行動力で現地を歩いている。2005.01.30

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2005年2月

安斎育郎(あんざい・いくろう)『だます心、だまされる心』NHK放送出版協会
「人間講座」のテキスト。超常現象や自然界の擬態、娯楽や芸術としての「だまし」から、意図的な世論誘導まで、幅広く扱っている。だましのテクニックが向上している現代において身を護るには、単純だが疑ってみるしかない。2005.02.02

西部忠(にしべ・まこと)『地域通貨を知ろう』岩波書店(岩波ブックレット)
地域通貨やエコマネーには興味があって、いくつか書籍を買い求め、読んでみたが、使われている用語や言い回しの難解さに、いつも辟易する。この本は、そういう意味からはとっつきやすい。地域通貨の理念や歴史を概観し、実例を紹介している。地域通貨は「商品」になりにくいサービスをコミュニティの中で交換しやすくし、「通貨」を超えて「メディア」のような役割を果たす。経済はもとより文化に大きな影響を及ぼす。2005.02.08

岡村久道・鈴木正朝『個人情報保護』日本経済新聞社
この4月から施行される「個人情報の保護に関する法律」の解説。思わぬところで仕事とのかかわりがある。2005.02.15

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2005年3月

斎藤貴男『機会不平等』文春文庫
リーダーを自任している人々が他者を露骨に見下して躊躇がない、それでも許されてしまう空気が社会を覆い尽くしたとき、戦争というものは始まるものなのではなかろうか。(まえがき) 第1章の教育から始まり、雇用、組合、福祉などを扱う。基本にあるのは、「優生学」「社会ダーウィニズム」が「新自由主義」に姿を変えて復活しているという認識である。非常に密度の濃い文章がぎっしり詰まっていて、読んでいて気が抜けない。疲れる。市場主義が、教育、労働、福祉などの現場に、どのような姿で現れているか、一読の価値がある。「額に汗して働く人間を平気で小馬鹿にできる者が、”改革”の美名の下、社会を都合よく変えてしまおうとしているのを、そのまま見過ごしているわけにはいかなかった」(あとがき) 2005.03.02

花追い人『デジカメで綴る花の歳時記』技術評論社
四季にわけて、きれいなデジカメ写真を収録し、花についての解説、撮影についての解説、そして俳句を配してある。なるほどな、と思いながらページを繰るが、これだけ狙ったところにピントを合わせ、意図的にボカすには、一眼レフデジカメでないと無理かもしれない。2005.03.12

内橋克人『「共生経済」が始まる』日本放送出版協会
NHK人間講座のテキスト。内橋氏がさまざまに主張してきたテーマを網羅した集大成のような内容である。市場万能主義、競争至上主義によって、日本の社会には格差が広がっている。大企業の正規社員と零細企業の社員の給与には3倍もの格差があり、上位4分の1が富の4分の3を占有する。競争から共生へ、社会の転換を、熱っぽく説きつづける。なお、NHK教育TVの「人間講座」シリーズはこれで最後となり、4月以降は娯楽的な色合いの強い番組になる。2005.03.13

吉村昭『事物はじまりの物語』筑摩書房・プリマ−新書
きわめて緻密な調査・取材をすることで知られる著者の、歴史小説の副産物である。解剖、スキー、石鹸、洋食などの日本での「はじまり」を記す。なお、筑摩書房には「ちくま新書」のシリーズがあるが、この新しいシリーズは、やたらフリガナが多くて不思議に思ったら、より若い読者層を狙ったものらしい。2005.03.15

早川謙之輔『木に学ぶ』新潮新書
著者は岐阜県恵那郡で木工を生業とする職人である。木工職人は板を見れば樹種がわかるが、木を見ても分からない、という。逆に、林業関係者は、木を見れば分かるが、板を見たらわからない、という。木を愛し感謝する気持ちが伝わる。2005.03.25

北原保雄(編)『問題な日本語大修館書店
辞書や教科書を出版する、どちらかと言えば地味な出版社の、めずらしいベストセラー本。「明鏡国語辞典」の編者らによるQ&Aの形式で、ちかごろ多く目にする(耳にする)日本語表現を取り上げている。2005.03.28
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2005年4月

溝口千恵子・三宅玲子『定年前リフォーム』文春新書
定年を機に生活スタイルが変わり、また、「老後」がはじまる。夫の95%が「妻と一緒に暮らしたい」が、妻のそれは85%。やがて夫は妻を介護しようと思っているが、妻はそうは思っていない、などの意識の食い違いがある。定年後の夫婦の生活パターンにあわせたリフォームや、バリアフリー化について実例をあげて解説している。バリアフリーについては、段差解消に非常に熱心だが、障害は「車椅子」ばかりの障害ではない。その人に合った対策が必要だし、それは変化していく。さまざまな状況に対応できるような対策こそが必要なのであろう。2005.04.03

なだいなだ『老人党宣言』筑摩書房
ネット上のヴァーチャル政党「老人党」ができたいきさつや、趣旨を巻頭に掲げている。本文はネット上でのやりとりから。もうリストラに遭う心配のない、言いたいことが言える老人が声をあげよう、と呼びかける。精神科医でもある著者は言う─小泉首相は「アメリカ依存症」という病気だ。2004.04.04

西村美智代『おぼけさま』東京新聞出版局
「人はぼけて神様に近づいていく」─それがタイトルの由来である。ふりかかってくる課題に立ち向かい、ひとつひとつ解決しながら、グループホームを開設し運営している。たいへんな行動力だ。痴呆が進むにしたがい、タテマエはなくなり本音だけで行動するようになる。理屈はわからなくなるが、感覚はむしろ鋭くなる。父母をみていると、長年の夫婦の生活が何だったのか、考えさせられる。グループホームはピンからキリまで、とよく言われるが、最後(ターミナル)までケアするところは、そうはないだろう。「ホスピスとグループホームは似ている」と言う。2005.04.10

三枝義浩『汚れた弾丸』講談社
コミック本。イラクの劣化ウラン弾による健康被害を追究する森住卓、アフガニスタンで井戸を掘る不屈の医師・中村哲を紹介する。こういう形式でのプロデュースが、もっとあってもいい。2005.04.12

吉田文彦『人間の安全保障』岩波書店
「人間の安全保障」は、1994年、国連開発計画(UNDP)が作製した「人間開発報告書」で提唱された。もとをただせば、1948年の世界人権宣言の考え方を、現代に適用しなおしたのもと言える。人間が保障されなければならない領域として、経済(貧困)、食糧、健康、環境、個人、地域社会、政治の7つをあげている。多岐にわたるだけに、重点の置き方で捉え方が異なってくる。ハードパワー(軍事力)、ソフトパワー(非軍事的な力)の双方が必要なのだが、ともすればハードのほうに片寄る。日本は、「ソフト」の分野で大きな貢献をしているが、そのことを国民に知らせる努力がなされていない。2005.04.29

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2005年5月

今野勉『テレビの嘘を見破る』新潮新書
著者は番組を作る側の人間である。テレビの番組つくりの中で行われている「作為、演出、工夫」は、すべてが否定されるものではない。なければ番組が成り立たない。どこまで許されるか、明確な基準はない。「事実の前に謙虚であること」と「伝えるためにありとあらゆる方法を考える」ことの両立を目指す、と著者は言う。2005.05.20

保阪正康『戦後政治家暴言録』中公新書
著者は「暴言」を6つの類型に分類する。@歴史解釈A女性蔑視B倫理C虚偽D無知Eイデオロギー。政治家の「暴言」の歴史をなぞるが、なんといっても小泉が最高峰であるし、それに対するマスメディアの扱い、国民の無反応(アパシー)は危機的である。著者は「オモテの言論」と「ウラの言論」の入れ替え期になっているのではないか、と危機感を表明する。国民を市民ではなく臣民としてしか見ない「二世」議員が幅をきかせている。かつてマスメディアは、気に入らない政治家の失言を誘導したり誇張したりして、足をすくった。小泉に対しては、まったく逆のことをしている。「この社会から真面目に討論する、議論するという姿勢が失われてしまったために、用いられる言葉はますます限られてきて、言論はしだいに死滅していく」と著者は嘆く。巻末には「昭和・平成の主要発言年譜」がついている。2005.05.29

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2005年6月

中垣陽子『社会保障を問いなおす』ちくま新書
著者は東大から経済企画庁に入り、外部の研究機関に出向中の若手官僚である。「経済性」(「身の丈」と著者は称する)と「安心」を両立させることを目指す、と序章で述べつつも、諸所に「経済」優先の発想がちらつく。また、日本の社会保障給付費が諸外国と比べて「多いわけではない」などという表現は、誰の目にもはっきりと「少ない」のを、「少ないわけでもない」かのようにつくろう、官僚によくある言い回しだ。賛同する部分も多くあるが、消費税、混合診療、自己負担増などに大甘。金の話ばかりで人間が見えず、リアリティが感じられない。それが「中立」的に政策を考えるために必要なのだ、なまじ経験や体験があると、それに引きずられてしまう、と開き直っている。女性のこまやかな感性を期待したが、しょせんは経済官僚ということか。2005.06.14

橘木俊詔(たちばなき・としあき)『企業福祉の終焉』中公新書
「日本の経済格差」で衝撃を与えた著者の近著。「企業福祉」の歴史は産業の発展とともにある。労働者の自衛という流れと、労働者の囲い込みという流れがあった。やがてその一部は法で定める強制的な制度に組み込まれる。いま日本では、非正規労働者の増加や企業間格差の拡大により、社会保障の格差が容認できないレベルにまで拡大した。わが国の社会保険制度はこれらの問題を軽減するようには設計されておらず、非法定福利がさらに格差を増幅する。著者は、新自由主義には組しない。ヨーロッパ型福祉社会を目指す。「社会保険」方式と決別し「累進消費税」を原資とする福祉を提唱する。手本はデンマークであり、若干レベルを落とすならイギリス、カナダが目標となる。高価なものほど高率となる「累進」を構想しているとはいえ、消費税だけを原資とするのはいかがなものか。社会の安定は企業にとっても大切なインフラであり、その事業規模に応じた負担を課すべきであろう。2005.06.21

関岡英之『拒否できない日本』文春新書
アメリカが自国に都合のいいルールを「グローバル・スタンダード」と称して世界に押し付けている。建築業界での目立たない出来事を発端に調べていくと、毎年10月に発表される「年次改革要望書」なる文書に行き当たる。日本で、審議会や議会など、もっともらしく手続を踏み、法として成立していく「改革」の多くが、なんのことはないアメリカからの「要望」に基づいている。アメリカは、正義のために改革を迫るのではない、アメリカ企業の利益のためである。郵政民営化も司法改革も「要望」から出発している。2005.06.28

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2005年7月

林信吾『しのびよるネオ階級社会』平凡社新書
近年、日本の経済格差は拡大し固定化しつつある。10年間の英国生活の体験を踏まえ、日本は英国型階級社会の悪しき模倣になる、と警告する。「階級が固定された社会とは、『努力してもどうにもならない社会』もしくは『努力する甲斐のない社会』である」。著者は機会の平等にもとづく「競争」の結果としての「格差」は容認する立場である。それが固定化され世代を超えて受け継がれていく「階級」化を批判する。2005.07.01

暉峻淑子(てるおか・いつこ)『格差社会をこえて』岩波ブックレット
自然人としての「生活者」は、ほどほどの富と自由な時間があれば、「足る」ことを知る。が、法人としての企業は飽くなき利潤を追求する。選挙権のない「法人」が、投票行動以上にお金で政治を支配する。いまや生活者の論理ではなく、企業の論理で国が動かされている。格差を大きくすることで経済活動の活力を引き出そうとする。2005.07.05

真田祥一『「隠れ脳梗塞」の見つけ方・治し方』講談社+α新書
昔、片足で何秒立っていられか、という検査があって、いつまでもたっていられるのに、なんでこんなことを調べるのだろう、と不思議に思ったことがある。いまは、なるほど難しいことなのだと分かるようになった。ちょっとした細かい動作をするときに、昔の自分がいかに「器用」だったか、を知ることがある。難なくできたことが、出来にくくなっている。あれやこれや、たぶん「隠れ脳梗塞」の疑いがあるな、と自己診断していた。やはり、そうなのだろう、とあらためて思う。2005.07.11

肥田舜太郎・鎌仲ひとみ『内部被曝の脅威』ちくま新書
著者らは映画「ヒバクシャ」のコンビ。1・4章が鎌仲、2・3章は肥田が分担し、第5章は対談形式となっている。過去のこと、他人事と思っていた「被ばく」が、現代の身近なことだった、ということに取材をとおして気づいた経緯を鎌仲が第1章で述べる。第2章で、肥田は広島およびその後の臨床での体験を臨場感をもって綴り、第3章では、さまざまな研究成果を学術書のような筆致で紹介し、微量な放射線による内部被曝が生体におよぼす影響を解き明かしている。従来、ガンマ線による「外部被曝」ばかりが強調され、ベータ線やアルファ線を発する物質はほとんど無視されている。第4章では、被曝リスクの評価に対する政治的介入を検証している。ICRP(国際放射線防護委員会)とECRR(欧州放射線リスク委員会)では、後者がリスクを約60倍高く評価する。映画でも紹介されたハンフォード(核施設周辺の開拓地)の汚染問題が再録されている。アメリカは核大国であると同時に「被ばく大国」でもある。他国の意見に耳を貸さずに暴走するかの国を方向転換するには、国民の自覚を待つしかないのだろうか。いずれにせよ、「反核」の従来の出版物ほかのメディアでは掘り下げが不十分で、もどかしく感じていた「内部被曝」について、よくまとまっている。2005.07.13

宮内泰介(たいすけ)『自分で調べる技術』岩波アクティブ新書
インターネットを利用した資料集め、フィールドワーク、まとめ方、プレゼンテーションについて解説している。最後に「市民調査を組織しよう」と提唱する。2005.07.25

河野義行ほか『報道は何を学んだのか』岩波ブックレット
松本サリン事件で犯人扱いされ、報道と人権の問題をまさに身をもって世に知らしめた河野さんと、いろんな形でメディアと関係をもつ4人の座談会。マスメディアは、「誤ってはいけない」だから「謝るわけにはいかない」という無謬神話にしがみついて、傷を広げてしまう。松本サリン事件を思うとき、マスメディアの責任や捜査当局の責任はもちろん重いけれども、その報道にまんまと乗せられた「視聴者」にも反省すべきことがある。軽薄な野次馬根性を共有し増幅した。気づかない、忘れる、考えない--マスコミも大衆も思考停止に陥っている。メディアリテラシーなどという高邁な議論以前の大問題がありそうな気がする。2005.07.28

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2005年8月

吉村昭『東京の戦争』ちくま文庫
歴史小説、なかでも戦記ものの著作が多い著者による自らの戦争体験。デテールにこだわる作風から予想されるとおり、身の回りの出来事を仔細に観察している。警察よりも憲兵よりも隣組の幹部を恐れる日常。どんなときでも狡すからく生きる人間の存在。ただ、著者の家は工場を経営するなど、そうとうに裕福な家だったようで、そのあたりは割り引いて受け止める必要がある。2005.08.11

岩波新書編集部編『子どもたちの8月15日』岩波新書
子どものころ終戦を迎えた有名人たちの回想。無差別爆撃のむごい現場を数多く見てきた人もいれば、田舎で何も不自由なく暮らしていた人もいる。変わったところでは、美智子妃やオリックスの宮内会長なども名を連ねている。2005.08.22

保阪正康『あの戦争は何だったのか』新潮新書
「大人のための歴史教科書」と副題がついている。「平和と民主主義」の枕詞で語られる情緒的平和教育が中身の薄い歴史観を作り上げ、その反動として、これまた感情的な「新しい歴史教科書をつくる会」のような国粋的歴史観が出現している。感情や先入観を抜きにして、この時代を見つめなおす、というのが著者の主張である。冷静に考えれば勝ち目のない戦争に突き進んでいった指導層、戦争を歓迎した知識人やマスメディア、それらを受け入れていった民衆、今考えれば日本中が馬鹿になっていたとしか言いようのない時代だが、いま現在の小泉人気を見ると、変わっていないのかなぁという感慨に襲われる。近頃右傾化の著しい「週刊新潮」がわざわざ特集を組んで、相応の論者を多数登場させているが、書かれている事柄には、とくべつ目新しいものはない。2005.08.27

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2005年9月

金子勝、アンドリュー・デウィット『メディア危機』NHKブックス
「反ブッシュイズム」(岩波)シリーズのコンビによる新著。現代人は目覚めている時間の半分近くを、何らかのメディアに曝されている。現代メディアによる世論操作は高度化し巧妙になっている。「メディアは米国政府のチアリーダーに成り下がった」。いまどきのメディアは権力に弱い。あるいは権力の構造に組み入れられている。「社会が狂い始めている」と著者らは警告する。「メディア・リテラシー」を身につけよ、という主張に多く接する。自衛のために必要だということはわかるのだが、それ以前に、あまりにひどいメディアの状況が何とかならないものだろうか。2005.09.10

菅谷明子『メディア・リテラシー』岩波新書
性懲りもなくメディアリテラシー関連の書物に手が伸びる。この本はメディア「教育」に重点を置いて、この方面の先進国であるイギリス、カナダ、アメリカの教育現場を紹介する。メディアの情報を批判的に「受信」するだけでなく、自分から情報を「発信」する能力が重視されている。「国語」教育の一環として扱われるのが主流のようだ。アメリカでは「メディアウオッチドッグ」と呼ばれるメディアの偏向を監視する民間組織がある。さらには民衆の声を伝えるための非営利?広告代理店もある。また、パブリック・アクセスなる市民チャンネルが無料開放され、自主制作番組が全国に配信されることもあるという。2005.09.21

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2005年10月

澤地久枝『私のかかげる小さな旗』講談社文庫
表紙にエノコログサ(ネコジャラシ)の絵があしらわれている。「旗」の寓意であろう。いかにも澤地さんらしい。今年5月、澤地さんを招いての講演会があり、司会者の役得で、お話する機会があった。控えめながら、戦争のもたらす悲惨さについて、語りつづける決意を秘めている。感傷的=軟弱、として切って捨てられるようなご時世だからこそ、よけいに存在感がある。ご本人のイメージに比べて文体がやや硬いのは、長く五味川純平さんの助手をしていたせいだという。本の冒頭に、自己紹介あるいは決意表明というべき詩が掲げてある。<いま、あえてかかげようとする旗は、/ささやかで小さい。/小さいけれど、誰にも蹂躙されることを/許さない私の旗である。/かかげつづけることに私の志があり、/私の生きる理由はある。> 2005.10.02

猪瀬直樹・堺屋太一ほか『国民の知らない昭和史』KKベストセラーズ
タイトルに「昭和史」とあるが、中身は「戦史」である。失敗や不運を興味本位にあれこれと指摘するのはいいが、幸運や成功を積み重ねれば敗れなかった、という「愛国的」な発想にとらわれ、ついには、こんどは負けないように戦争すべきだ、という不遜な発想に至る。戦史マニア・軍事マニアならずとも、そういう風潮が広く存在する。いくら戦術的幸運に恵まれても、戦争となれば、とてつもなく多くの不幸が彼我にもたらされる。国敗れて山河あり、では済まない。2005.10.10

林信吾・葛岡智恭『昔、革命的だったお父さんたちへ』平凡社新書
かつて「革命的」だったあなたたちが‥まだやるべきことは残っているはずだ(序文)と、団塊世代を挑発する。団塊世代は議論好きと言われるが、読書や思索に裏打ちされた「論」を持たず、多分に感覚的。全共闘から会社人間へのすばやい転進。などなど、団塊世代をこきおろしている。が、最後に、昔「革命的」だったお父さんたちよ、もういちど戦争と差別に反対して立ち上がれ、あしたのジョーになれ、とエールを送る。全体に若者文化史としても面白い。2005.10.14

杉山幸丸『進化しすぎた日本人』中公新書
現代の人間社会を、サル学に照らして見ると、どうやら「進化しすぎ」ということになるようだ。どこまで人間にあてはめていいのか、心配になるところもあるが、おもしろい指摘ではある。2005.10.20

美輪明宏『戦争と平和 愛のメッセージ』岩波書店
今年2月〜3月、NHK(教育)人間講座で「人生・愛と美の法則」というシリーズがあった。ゲイやオカマは、個人的に好みではないが、番組の中で長崎での戦争体験、被爆体験を語っているのをみて、感心した。筋を通して生きている。その番組が元になった本であろう。絵本ふうに装丁してある。2005.10.26

常石敬一『七三一部隊』講談社現代新書
TVの討論番組を見ていてあきれたことがある。櫻井よし子女史が出ていて、731部隊の人体実験や南京大虐殺を告発する写真のなかに、別件の写真が混ざっている、と指摘していた。ひとつひとつの史料を確認することは大切だろうが、その先が珍妙な論理で、あたかも人体実験も大虐殺もなかったかのような言い様だった。あなたは、40万人ではなく4万人だったら小虐殺であり犯罪ではないというのか、と中国人にたしなめられる一幕があった。この本は、厳密に731部隊と人体実験の実在を論証している。「生物兵器」としては成果をあげることはできなかったが、多くの医師が加わり、戦後そのことに口をつぐんで高い社会的地位を得ていった。非人道的なことと知りつつ、学問上の野心を満たし、国のため、天皇のため、と責任を転嫁した。同種のことはアウシュビッツでも起きたことである。専門家集団は、どこかに、こういう危うさを内包しているのだろうか。2005.10.29

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2005年11月

三浦展(みうら・あつし)『下流社会』光文社新書
著者はマーケットリサーチが本業。消費行動から世代や階層を分析し、うまく類型化している。「下層」ではなく「下流」と題している。「下層」というほどに貧困ではなく、食うや食わずの生活を送っているわけではないが、固定化された階層構造の社会の中で、よどんでいる。近年の経済格差の拡大は、もともと格差の大きい高齢者の増加に原因を求める説明が多くなされてきた。しかし、いまや女性間での格差が拡大し、高所得層が高所得の男性と結婚して、さらに格差を拡大する。若者の格差拡大が急速に進んでいる。正規社員として雇用されるだけでも「勝組」視される。これほどの格差拡大と固定化にもかかわらず、「下」からの反逆が起こらない。無気力、といえば簡単だが、これは米国でも見られる保守化と通じるところがあるように思える。すなわち米国では、新自由主義政策の最大の被害者であるはずの低所得層が、宗教的保守主義とむすびついて、新自由主義勢力を助けている。格差の拡大は社会を不安定にするというのがオーソドックスな考え方だが、いまのところ「安定した格差社会」が成功を収めているかのように見える。しかし、結婚や出産と格差との相関を考えると、「安定した格差社会」は、急速な人口減少に見舞われて、社会そのものが滅んでいくにちがいない。2005.11.02

山田昌弘『希望格差社会』筑摩書房
近代社会の「自由」は本質的にリスクを内在している。職業選択の自由は職につけないリスクと隣り合わせである。しかし、右肩上がりの時代には、高望みしなけれは人並みの生活ができる、という予測ができた。心がけだけでリスクを最小限にすることは可能だった。今(90年以降)は違う。「リスクをとることを強要させられる社会である」と著者は言う。努力すれば報われる、と新自由主義者らは甘言を流すが、実際には努力しても報われない者が大多数であり、むしろ運やコネ、育ちがモノを言う。量的な格差拡大よりも重大なのは、乗り越えられない質的な格差(ステイタスの格差と著者は言う)が拡大していることだ。将来に希望をもてない層が拡大している。90年頃からの社会は「リスク化」(リスクの普遍化)と「二極化」(質的格差の拡大)で特徴づけられる。それらは相乗作用によって「社会的弱者」を大量生産する。不安定な非正規労働に従事する若者は500万人にもなる。膨大な社会的弱者が中高年になったとき、それは社会の「不良債権」となる。やがて生活保護費が社会保障の最大の費目になるだろう。「家族」という最小で最多の共同体が、リスクを軽減するどころか、リスクを生み出す状況がある。収入の不安定化、離婚の増大、子どもの自立の失敗、犯罪、介護など、とても個人では対応しきれないリスクに満ちている。最近、格差の問題を扱った書を手に取る事が多いのだが、読み進めていくうちに暗澹たる気持ちになってくる。現代の政治経済の体制が本源的に持っているベクトルである以上、避けることは出来ず、それを解消ないし緩和するのは並大抵なことではない。最終章で著者が提示している解決策は、希望を与えるというより、事を荒立てずに諦めさせる方策である。市場原理主義を認めた上での視点だ。これだけ若者のおかれた状況を研究しながら、諸悪の根源たる新自由主義に怒りを感じないのだろうか。なお、著者は中央教育審議会、国民生活審議会など国の諮問機関に属している。2005.11.10

佐藤洋一郎『里と森の危機』朝日新聞社
「里」は人と自然が共生している場であり、農業生産の場である。この100年間で、栽培植物の種が激減しているという。たとえば米。かつて4千を超える品種が栽培されていたというが、いまやコシヒカリが38%、コシヒカリの子孫にあたる品種を含めると7割を超える。長い歴史をもつ栽培植物の品種は文化財だ、と著者は言う。それらが急速に失われていこうとしている。「里」は、多様な生物が生育し、人間の感性や文化を形作ったが、いっぽうでは人為的な攪乱と自然に戻ろうとする遷移とがせめぎあう不安定な生態系である。いま、自然界では多様性が失われ、一様化していく傾向にある。人間もまた効率優先の風潮のなかで一様化しつつある。稲の自生地を保護するために立ち入り禁止にしたら、自生していた稲が遷移によって失われてしまったという。「種」という文化財を保存するには「里」の生活を保存するしかない。2005.11.14

宮脇昭『いのちを守るドングリの森』集英社新書
著者のめざす「森」は里山のそれではなく土地本来の潜在自然植生にもとづく森である。放置すれは、長期間かかって遷移のすえにたどりつく天然の森の姿だ。すべての森がそうでなければならない、と言うのは極端だが、防災、貯水、環境保護など自然の森の利点が多くあり、それを生かす植林を提唱し実践している。自然の遷移に任せると200年かかるが、潜在自然植生の原則に沿って植林すれば、最初の2年除草をするだけで、あとは手間要らずで15〜25年で自然の森ができる。2005.11.23

田中淳夫『日本の森はなぜ危機なのか』平凡社新書
著者は「天然型」自然や「里山型」自然にあこがれる自然保護・環境保護運動家に対して批判的な視点から発言を続けている。ボランティアやリサイクルという言葉にも懐疑的だ。産業という形での人間活動の介入を前提とした森林、広い意味での「林業」の歴史と現状を考察している。日本で主流の造林は、畑に野菜を植えるような「一斉造林」であり、伐採(皆伐)〜植栽(1hr3000本の密植)〜下刈り(5〜6年)〜間伐〜枝打ち〜主伐(600-1000本)という経過をたどる。しかし、植栽を疎にして間伐を省略し、混交林にしても収量はさほど変らないという。より自然の摂理に即した「林業」が可能だというのが著者の主張である。2005.11.27

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2005年12月

小塩隆士(おしお・たかし)『人口減少時代の社会保障改革』日本経済新聞社
著者は東大〜経済企画庁〜立命館大助教授〜学芸大助教授〜神戸大教授という経歴。中教審、産業構造審議会、経済財政諮問会議ワーキンググループなどに属する。政府の行う調査の個票データを用いるなど細かな分析をしている。少子化「対策」に過大な期待は持てない、とする著者の意見はそのとおりかもしれないが、少子化の背景にある若者の状況(雇用・格差)は大問題のはずだ。ニートやパラサイトの若者が親の金で税や保険料を負担することについて、「そうした子供を育てた責任は親にあるのだから」(163p)当然の責任だとのたまう。高齢者については「医療保険による医療サービスの供給によって長生きさせ、そして、長生きしたがゆえに公的年金で所得を保障するとすれば、高齢者は保険給付を二重取りすることになる」(184p)と、まるで害虫扱いである。経済「学者」の、人間不在の議論は読み進めるのが苦痛だ。そこには金の流れしかない。どこかを膨らませれば、どこかがへこむ、どこに違いがあるのかわからないようなあれこれの理論が紹介されているが、シロウトには目くらましにしか思えない。「人間の心を大切にする経済学」(宇沢弘文)なんてものはもはや化石なのだろうか。2005.12.01

白川一郎『日本のニート・世界のフリーター』中公新書ラクレ
若者の失業率は平均(全年齢)失業率の2倍。これが先進国に共通して見られる現象だという。景気、雇用保護規制、非賃金コスト、などが正規雇用を減少させ、とくに「雇用市場への新規参入者」である若者にしわ寄せがきている。雇用形態の規制緩和も大きく寄与しているはずだが、この部分については著者は寛大である。今後、非正規雇用が拡大し10年後には4割を占めるだろう、と予測しているが、甘いのではないか。1995年、日経連が公表した報告書「新時代の日本的経営」がこんにちの雇用環境を生み出した。著者は、既存の正規雇用者に対する「雇用保護規制」が強いことを主因としてあげ、企業の競争力を高めるためには非正規化は不可避とする。正規雇用者にたいする保護を緩和し(解雇しやすくし)、非正規雇用者の保護を拡大して「二極化」の格差の度合いを弱める、というのが著者の方向性のようだ。2005.12.07

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