地域雑誌「新川時論21」第20号の紹介


2001年7月1日号表紙 2001年7月1日号目次

表紙 宝田順一さん  


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記事の紹介
巻頭言・幕を引きます (小熊清史・本誌代表)
さよなら新川時論 (同人一同)
総目次(1号〜21号)


幕を引きます    
    ご支援ありがとうございました
小熊清史


 幕を引くか、舞台を回すか、と言いつづけてきましたが、ついに「幕」のほうになりました。本号をもって「新川持論21」を廃刊とします。せっかく続けてきたのだから、形式を変えてでもつづけてほしい、という意見を多数いただきました。ありがとうございます。
 財政的に行き詰まって、印刷所への支払もできない、というわけではありません。帳簿づらだけ見るなら、順風満帆とまではいかないまでも、よろけない程度に自転車が走っています。その証拠に前号からは表紙をフルカラー印刷にしています。
 カラー表紙、B5版(週刊誌サイズ)、5段組み。印刷部数千2百。1号あたり約30万円の費用がかかります。ちっぽけな地域雑誌には不相応ともいえる立派な体裁の雑誌を発行できたのは、読者の皆様のご協力あればこそです。ほんとうにありがとうございました。
 加えて、一部の同人の超人的な働きがあります。1人当り150人を超える読者を担当し、毎号手渡しで配布し、集金もしてきた同人が数人います。一部の郵送を除いて、本誌の大半は手渡しされてきました。これなくして本誌はなりたちません。郵送や宅配便による配布を基本にできないか、と検討しましたが、財政的に無理との結論に至りました。
 また、パソコンを使って編集し、印刷所に版下(はんした)を持ち込むことで、印刷費用を大幅に軽減しました。費用が少ないかわりに、労力が増えます。読みやすい誌面にしようとすればさらに手間と時間がかかります。ひとつのページに4回も5回も修正を加えることがめずらしくありません。毎号の編集作業の現場は戦場と化します。
 企画記事の取材までなかなか手が回らない、といいながらも「辛口の地域情報誌」の旗を掲げつづけました。辛口度が低下してきた、との批判は甘受します。が、ときにそれらしきピリっとした記事を掲載できたのは、やはり一部同人の超人的働きと、市民運動に取り組む人たちの支援に負っています。
 一部の人の頑張りで支えられている状態は、持続可能な安定した状態とは言いがたく、誰かひとり病気か事故で動けなくなれば、たちどころに困難に直面します。常にそのような不安を抱えつつ5年のあいだ発行を続けてきました。いままで、いちどもそのような事態に至らなかったのは幸運としか言いようがありません。
 雑誌の発行を続けながら、いっぽうで持続可能なシステムに改革しようと試みました。しかし、年4回とはいえ発行しながらでは「改革」への余力が残りませんでした。それどころかますます編集実務の比重が増大し、新川持論は「編集同好会」か、と疑問を抱きつつルーチンワークに追われてきました。
 結局のところ危なっかしい綱渡りの状況を打開できず、幕を引くことにしました。切羽詰っての廃刊ではありません。再起に希望をつないでいます。

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さよなら新川時論

惜別の情  (江口美智夫)

7月8日(日)、初めて編集会議に出席しました。喫茶「ロン」の二階で開いた皆さんの苦労話に、胸が詰まる思いがしました。
何も知らないとはいえ、東京から呑気に街角風景を書きっぱなしにしていた自分が恥ずかしく思いました。発行から集金までの苦闘は並大抵の努力で済むものではないことがよく解りました。
「新川時論」は私の一番の生き甲斐でした。何処で仕事をしていても、原稿のことを考えていると楽しくなり、心の中で朗読しておりました。自由に書かせていただいて有り難うございました。
実は同業の会報に、原稿が少ないというので、「改革と税金の行方」と題して、外務省の無駄遣いのことを含めて、面白く、うんと軟らかく書いたのに、ふさわしくないといって、訂正を申し渡されました。
そういわれるだろうと試した部分もありましたが、案の定でした。5人ぐらいで回覧して、2回も打ち合わせをしたそうです。力が抜けて、7枚の原稿を3枚にしました。世間一般はまだその様な態です。
「新川時論」よ。あなたは寛容な私の女神のような存在でした。また会える日まで。

読者への責任 (濱田 實)

たかが「学校新聞」「生徒会機関誌」の発行を経験していたというだけで、地域へ向けて情報や意見を発信しようと意気込み、仲間を誘い込んで「新川時論」を発行したことは向こう見ずも甚だしいことであった。
ミニコミ誌とはいえ、いっぱしのジャーナリストを気取って「舞文曲筆」を宮津氏にまつまでもなく読者から一番咎められたのは私であった。この点では、同人−とりわけ代表の小熊氏に大変迷惑を掛けた。世に自己を問うことの恐ろしさを、身をもって知った次第である。
このような小冊子でも、5年間も発行を続けさせてくれた力は、一にも二にも「読者からの励まし」である。僅かな発行部数以上に、多くの読者が記事に目を通してくれた。直接、間接の反応は予想以上にあり、その影響の大きさも感じられた。
今号での打ち切りも知らず、読者からお便りが来るたび、心の中で自己の無力を詫びた。5年間舞い上がり続けで、自己を含め組織の老齢化、硬直化に手だてを尽くさなかったことを…。
今まで「時論」を見守ってくれた読者に対して、更に継続し、発展させる責任を果たせなかったことを深くお詫びするばかりである。

また会う日まで (野崎 弘)

わが「新川時論」も5年間で幕を下ろすことになった。残念だが、致し方あるまい。
というのも執筆・編集・頒布の3役をこなしてきたのが4、5名にとどまったから。3役のうち、1ないし2を担当したのは10名くらい。この体制が打破できない限り、早晩ゆきづまることは必至であった。
先代の「新川時論」は1921(大10)年4月から28(昭3)年までの7年3ヶ月続いたわけで、せめてこの記録は更新したかったのだが――。
わが第2期「新川時論」の場合、同人誌的な面(執筆者が広がらない)と辛口の社会批評(いろんな人が登場すべき)の二兎を追っていたわけで、結局は「一兎も追えず」のことわざ通りになってしまった。
もし第3期「新川時論」を企画する方が現れるならば、われわれの経験を無にせず、強固な体制づくりにつとめてもらいたい。私も求められれば、参加することにやぶさかではない。命あらば、感性を失っていないならばの話だが。
それにしても、私の有料頒布者は150名にのぼった。押し売りに近い強引な勧誘もあったと思われ、心が痛みます。また、快く取材に応じてくださった皆さんにも心から感謝しております。ありがとうございました。
さらば「新川時論」よ、また会う日まで!

「さようなら…」ってマジ? (佐伯 邦夫)

「さようなら…」ってマジ?ひとごとみたいじゃないか――。「新川時論」が勝手にどっかへ去っていくんじゃナイだロー。ぼくらはその作り手であって、今、ぼくらの都合で、というか、ぼくらのいたらなさのゆえにそれを手仕舞いしようというのだ。
むろんそれなりの感慨がナイことはナイ。だが、それは内にしまっておくか、内輪の解散会あたりで吐露すべきもの。今ここでそれを言うのは筋ちがいだと言うのだ。しかも雁首そろえて――。
わからないって?同人誌だが、同人回し読みの雑誌を作っているんじゃナイんだよ。金出して買ってもらっている。つまりは読者のためのページを使って、内輪の繰り言を綴るなど筋ちがいだと言うのだ。(と読者うかがいつつ、内輪への義理をも果たさせていただく。それにしても企画段階で言うべきことではないの…)
この辺りのケジメもわきまえない集団がタレ流す、幼いあやまちもこのくらいが限界?終刊を決めつつなかば胸をナデおろす思いが否めなかった。
読者各位、取扱い書店、印刷所、寄稿者、取材先…皆様のご協力、お引き立てにただ感謝あるのみ。数々の不行き届きを深くお詫び申し上げます。

「時論」の役割評価が必要 (北 海人)

「時論」発行の話が持ち上がったとき、血が騒ぐのを覚え、一も二もなく参加した。
魚津を離れて30年になるが、高校生時代の先生や旧友との交友は昔日と変わらず、再びあの頃のように侃侃諤諤と議論できればと考えた。
そして、東京にある者として、マスコミが伝えない生の情報を送ることが、なにかしかのヒントになるのではないかと考えた。
政治経済の中枢たる東京と、地方との関係を明らかにしたいとも願ったところである。
「東京通信」として十数回掲載の機会を得た。当初の意図が果たせたか自信はないが、編集の作業にあたった同人の皆さんと、駄文を読んでいただいた読者の方々に感謝したい。
さて、発行5年にして幕を閉じるわけだが、いつの時代も元気に情報発信を続ける人々はいる。その媒体も、古典的な新聞や雑誌から、インターネットを使ったホームページなどへ、大きく転換しつつあると思われる。
今回の幕引き(廃刊か?休刊か?)もこうした転換点に立っての足踏みと見たい。最後に5年間に「時論」が読者と同人、そして地域にどんなインパクトを与えてきたのか?この大きな変革期に、登場し発言したことの意味、役割は何だったのか?幕引きに当たり、これを冷静に評価する作業だけはせねばなるまい。
この評価に立って、「新川元気人」たちが新たな情報発信を再開してくれることを願うものである。その時は、微力ながら参加の名誉を得たいと思う。

さよならは言いたくない (田中 光幸)

新川時論はもう終りなのか。5年間続けたけど、私は何もしていないという感じ。でもさよならはと書きたくない。
“辛口”を目指してきたが、辞書で調べると「酒類の好きなこと、または人」とある。そういわれれば、私にはそれが共通項であったろうか。
「酒」と「評論」とは非常にうまく溶け合っている。評論するのに酒をうまく活かし、酒は評論の内容をより高めるというように。
酒という良き友をかたわらにして、自分の体験を下支えにしながら、いろいろな事柄を「評論」できたかどうかが、5年間の総括の視点となる。
しかし、ただ「解説」していただけで、具体的に自分なりに理想的なところまで実践、提起してこなかったのではないか…。
そこのところで、「何もしていない」という虚しい結末になったのではないかと思っている。

取るに足らない数も力 (岩井 哲雄)

ちょうど5年前、「新川時論21」第1号の完成を祝って、同人数人が集まり祝杯をあげました。
某新聞社がカメラマンを同行し、取材に来てくれ、翌日の朝刊に「辛口評論誌」の見出しで掲載されたのはちょっとした感動でした。その後、2、3紙も取り上げてくれました。
それからの5年の歳月は、それこそあっという間に過ぎ去りました。同人の会費と読者の購読料のみの収入という乏しい財政の中、何とかここまでやってきました。
執筆者に謝礼も支払わず、取材費もすべて自弁ということで、多くの人々にずいぶん迷惑を掛けたことと思います。
世界は政治経済その他、すべての分野でますます混迷が深まっています。明日は決して今日の延長ではない。アメリカの同時多発テロのように、一瞬にして断ち切られる現実をみんなが思い知らされました。
「新川時論」は、何の予告もなく21号をもってその生涯を閉じることになりました。マスメディアには載らない地域には地域の数々の問題があり、それらはまた、全国的な問題であること知りました。それらをコツコツと拾い上げ、世に問うていく重要性を改めて認識しました。
数は力だが、取るに足らない数にも力があることを「新川時論」は実証したと思います。
最後に、今日まで支えてくださった読者の方々に心から感謝を述べ、お別れの言葉とします。

出会いと体験 (中田 哲二)

これまで同人の中で、老パワーと現役世代のボタンのかけちがいともいえることが、何度か表面化した。「時論」に対する思い入れや割ける時間の違いもあるようだ。
この5年、雑誌づくりの奥の深さは、若干知り得たと思う。でも私は、とても戦力とはなり得なかった。非力のなせるところです。
時として孤立感に陥り、当初の「時論」に対する熱き思いにかかわらず、次第に前向きの姿勢が後退に後退を重ねた。仕事や雑事に追われ、日常に埋没せる日々の連続であったように思う。それを克服する力は、現在持ち合わせていない。
それにしてもこの5年、これまでにない出会いと体験をさせていただいた。「書く」という営為により、人はより一層昇華される可能性があることを、身をもって体験できたように思う。
さようなら、そしてありがとう「新川時論」。ごめんなさい読者の皆さん、同人諸氏。

最後3号の表紙 (宝田 順一)

 同人でもないのに編集の手伝いをすることになり、戸惑いながらやってきましたが、結構、勉強になることが多かったようです。それに執筆者みなさんの文章のうまさに感心しながら編集していました。
私が担当した記事で印象深いのは何といっても障害者の方々の作業所「くろべ工房」を開設した永井さんにインタビューした時のことです。
お寺出身ということが影響しているのでしょうか、若いのに私利私欲を少しも感じさせない純粋さを感じたからです。それはまさに障害をもつ人と同じなのかもしれません。
世の中が殺伐として息苦しく思えていた時だけに救われる思いがしたのをよく覚えています。
 また、最後の3号は表紙をつくらせてもらいました。できれば読者の人に表紙から読ませるようなインパクトを与えたかったのですが、やはりアマチュアの域を超えることはできなかったようです。でも、それまでのイラストにはない硬質な評論誌のイメージを表現できたと思います。
いつか再会するときまで力を蓄えておきたいと思います。


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「新川時論21」1号〜21号総目次


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