地域雑誌「新川時論21」第19号の紹介


2001年4月1日号表紙 2001年4月1日号目次

表紙 宝田順一さん  


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記事の紹介
巻頭言・黒部川で「脱ダム宣言」(中田哲二)
新川のグルメマル秘情報 春季編(琴更 屁坊)
東京通信No13(北海人)


 黒部川で「脱ダム宣言」
─ その河川政策を問う ─
中田哲二  

 2月24日午後、黒部川右岸河口より北へ約1.2q、園家山海岸に立つ。北西の風が、雪を含み横殴りに吹く。高さ数mのコンクリートの護岸は、七重八重のテトラポットで保護されている。その沖あい20数mのところに、横一列に10数m間隔で、長さ30mほどのテトラポットの離岸堤群が配されている。数mの高さの波が、ある時は離岸堤を乗り越え強烈に、またある時は離岸堤に勢いを削がれ弱々しく岸に寄せている。
 園家山海岸は、小高い砂丘に成熟した松が小さな森をなしているが、海岸は砂浜を完全に浸食され、疲弊し、見るも無残だ。
 黒部川右岸の海岸は、河口から入善・朝日境の小川河口まで、このようなコンクリート護岸とテトラポット離岸堤の連続である。左岸もコンクリートの護岸の連続であることに変りはない。
 30数年前の夏、ここ園家山海岸で仲間とキャンプを楽しんだ、水辺まで灼熱の砂浜を百m以上駈けた記憶がある。
 アウトドアライター天野礼子氏は、近著『ダムと日本』(岩波新書)の第1章冒頭で、「温帯にあって四季を持ち、四つの海流に囲まれたために、梅雨と台風と雪で多量の水分を山に貯える小さな島国ニッポンは、『山の国』であるとも言えるし、『海の国』であるとも言えるが、この狭い国土に三万本近い川を持つ『川の国』である」と書き出す。
 日本屈指の急峻黒部川は、大量の崩壊を繰り返す黒部奥山を抱え、洪水時にその崩壊物を一気に下流に押し流し、海を埋める。しかし台風の大波や冬の強烈な寄り周り波は、この堆積物を一気に蹴散らす。富山湾東部の海底は、海岸より僅かな沖から、1m沖合に出れば1m海底が下降するという、さながら親不知海岸の迫り出した急斜面の山々を海底で百八十度ひっくり返したような地形である。蹴散らされた土砂は、蟻地獄の如く、奥深い海底に沈み込むのであろう。奥山の崩壊と洪水と荒波のこの際限のない繰り返しは、膨大な時間を要して愛本橋を扇の要とする黒部川扇状地を形成したはずである。扇状地は、黒部奥山の贈り物であり、それを送り届けてくれたのは黒部川であり、富山湾がそれを受け入れ包み込んでくれた賜物である。
 今その扇状地は、大地を削られるという致命的病状を日々悪化させている。ダムが黒部奥山からの補給路を絶ったからである。現在の黒部川上流は、黒四ダムの下の高熱隧道出口の仙人ダム、トロッコ電車終着の欅平駅下流の小屋平ダムが満砂状態である。
 この事態に直面した関西電力は、日本で初めて黒部川に排砂式ダムを取り入れ、1985年小屋平ダム下流に出し平ダムを完成させた。1991年12月その出し平ダムの排砂ゲートが開かれると、大量のヘドロが黒部川を一瞬のうちに死の川とし、しかも沿岸漁民に多大な漁業被害を発生させ、その影響は今日も続いている。その後数度、出し平ダムの排砂実験が繰り返されたが、そのたびに被害は拡大するのみで、排砂の有効性については、具体的に詳らかにされたことは一度も無い。にも拘らず建設省(国土交通省)は、排砂式ダムの有効性が検証されないまま、世紀末に出し平ダム下流に宇奈月ダムを千数百億円の巨費を使い完成させたのである。そして一方海岸では、毎年護岸工事が巨費を投じ進められている。
 いま黒部川をめぐる歴史的経緯と現状を冷静に考えるなら、その河川政策は、根本的に変更されるべきである。すなわち排砂式ダムに有効性が無いことは勿論、その弊害を確認し、ダムを順次撤去し、自然環境の回復を第一とする、治水利水計画を真剣に再検討すべきである。
 黒部奥山で接する長野の田中知事の「脱ダム宣言」を知ったとき、黒部川の現状を憂う私は、その理念と見識に感服した。そして、我が黒部川でその精神を受け継ぐべきと考える。

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新川のグルメマル秘情報 春季編

―春を食う 生かされている喜び―

琴更 屁坊


フキノトウ

蕗の薹に味噌つけて
  食う春を食う
 いっぱしの俳人を自負している屁坊山人の名前どおりのヘボな句である。第一、季語が重なっているではないか。
 新川では早春、つまり島崎藤村の「緑なすハコベは萌えず 若草も敷くによしなし」といった風情の日。日当たりのよい堤防や丘の斜面に黄緑も鮮やかに点々と丸いフキノトウが「春が来たぞう」と叫ぶがごとくに存在を主張している。
 これを摘んで帰宅、ゴミを払って味噌を少し付けて食べる。フキの香りと苦みが口いっぱいに広がる。これぞ春そのもの。
 「ああ、今年も春に会えたなあ」としみじみと生かされていることの喜びを感じる。胃袋が活発に動きだす。フキノトウと味噌だけで2杯はゴハンが食べられる。
 冬眠から覚めたクマは、まずフキノトウを存分に食べて、休んでいた胃袋を始動するといった文章を読んだ記憶がある。
 「生のフキノトウなど苦くて食えるか」というような「いとさうざうしき人」はこれ以上読むことは無駄です。
 先日、ある新聞のコラムに、英語で春はスプリングというが、スプリングには同時にバネという意味がある、とあった。英和辞典を繰ると「春、跳躍、バネ」と並んでいた。さて、新川人よ。「イツ スプリング ナウ」クマにならってフキノトウを食べて、冬の間ちぢんでいたバネをはじけさせようではないか。

フキノトウ(つづき)
始皇帝の気分になれる

 この素晴らしいフキノトウを味わう期間は、残念ながら2週間がいいところだ。
 フキノトウを1年中味わって、毎日がスプリングといった気分になれないものか、という欲ばったことを考えるのは、永遠の青春をと願った秦の始皇帝以来の人間の性(さが)である。それが可能なのだ。以下、その秘伝を伝授する。
 まず、リュックにいっぱいのフキノトウを採取する必要がある。どこにあるか。それは「企業秘密」である。それぞれに足を使って発見してほしい。屁坊氏は2カ所は確保している。
 フキノトウを採取する場合はそれに専心すること。あるはずもないマツタケがるか、などと赤松林に入ったりしてはならない。
 帰宅。フキノトウはゴミをはずして、ザッと水洗。農薬の心配はないからそんなに神経質にならなくてよい。刻んでおく。大きめの鍋に、好みでサラダ油でもゴマ油でもオリーブ油でも少し多めに入れて火にかけて、熱くなったら刻んだフキノトウを炒める。味付けは味噌。冷ましてから150グラムほどずつに小分けして薄いビニールの袋に入れて、しっかり口をして冷凍する。
 順次解凍して使用する。かくして、1年中「春が食える」のだ。
 なお、フキノトウを炒める時に、先に大量のニンニクの小間切れを炒めて香りが出てからにすると、一味違ったものに仕上がる。これは若い者が食べると鼻血が出る。また、「一味とうがらし」を振りかけてもよい。
 アルファベットの7番目に響かないか、という危惧のある者は避けたほうがよいが、そんなことを気にするようならグルメの資格が疑われる。

オキナワモズク
対馬暖流に乗って来たお客様

 昭和38年に黒四ダムが完成した。40年ごろから海岸にテトラポットなるコンクリートのかたまりがボツボツと置かれるようになった。明らかに黒四ダムにより、土砂の流出がストップしたことが原因だ。
 それから10年経つと、それこそあっという間に、黒部川扇状地の海岸は各種のブロックによって人口海岸になってしまった。冬の寄りまわり波の猛威を殺ぐために、離岸堤もたくさんで来た。(念のために、この莫大な費用は関西電力が負担したわけではなく、税金である)
 黒四ダムのデメリットは計り知れないが、ほんの少しのメリットもある。それは、コンクリートブロック、特に離岸堤のブロックに岩ガキや多種多様の海藻がたくさん着生するようになったことである。海藻の中には今まで見たこともない種類のものもある。
 昭和50年代になると、春、海が荒れた翌朝、海岸へワカメなどを拾いに行くと、太さが1ミリから3ミリ、長さが30から50センチの「モズク」としか呼びようのない海藻が場所によっては、固まって打ち上げられている。
 一見固そうだが、茹でれば食えないものでもなかろうと採集して帰宅。山の神曰く「これなにケ、こわそうなモゾコだね」「そうこれはジャイアントモズクだ」「どうやって料理すればいい?」「それを研究するのが女房の役目。とにかく食えるようにしてみろ」と、そこは「綸言(りんげん)汗のごとし」だ。
 試行錯誤の結果、多めの熱湯にぶち込んでかき回すこと20秒で上げて水へ。長さ2センチに刻むと、ぬめりの出ることおびただしい。どんぶりに入れて味ポンをかけて食すると海の香りが口いっぱいに広がる。
 宴会料理の箸休めのモズクは、いわゆる「本モズク」。ホンダワラなどに着生する細いもので、それがほんの一箸しかない。ところが、このモズクは違う。どんぶりでガッポと食える。その効果がすごい。翌朝、大腸の「渋滞」がすっきりと解消。壮快になっているではないか。
 知人に進呈すると、特に女性方に喜ばれる。家では、このモズクを調理するばかりの状態で小分けして冷凍保存し、年間を通して食べている。しかも、そのモズクが去年の夏あたりから、かなりの値段でスーパーに登場しているのだ。
 週刊新潮には毎号「よろず医者いらず」というページがあって、民間薬とか健康食品の効果などの紹介がある。立ち読みしてこれが興味ありと思うとその号を買う。
 この春「オキナワモズク」と題するページがあった。屁坊山人が「ジャイアントモズク」と称していたものは、実はこれだったのだ。読むと、消化器ガンの発生を強力に抑制するフコイダンと称する食物繊維がこのモズクに大量にあるという。それは根昆布の数倍あるという。
 かつて朝日町は宮崎の海岸でこれを拾っていた時「そんなもん食うがぁ」と侮蔑の目で屁坊山人を見ていた漁師に告げる。「大腸ガンにならないように、このモゾコを食べなさい」と。

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東京通信

政策形成に新たな動き

北海人


自治体の政策形成に新しい動きが見える。従来の住民「参加」を超えた住民「主導」とも言えるような政策形成が進行している。その一つが東京都の産業振興ビジョンの策定過程である。東京の中小企業もバブル崩壊後の構造的な不況に呻吟している。
 中小企業の活性化は東京都の最重要課題のひとつである。
 このため都の産業政策室はホームページを開設し、都民に産業活性化のための政策提言を募集したところ、大学やシンクタンクの研究者、企業の経営者や企業団体の役員、NPO、自治体職員等から210件もの提案が寄せられた。都の産業政策室は、これら全てをネット上で公開しオープンな議論を展開した。ほぼ1年間に70のMLメーリングリスト=メール会議室)で2万通のメールが交換された。ネット上の議論だけでなく政策提案者等を中心として100回超えるプレゼンテーション(説明会)、フォーラム、会議が行われた。こうした都民の議論を経て、昨年7月、「都民と創る」東京再生のための新たな産業振興の指針を発表した。
 また、三鷹市では市の基本構想案を400人近いボランティア市民が21の分科会に参加し、やはり100回以上の会議やメールでの意見交換を経て「みたか市民プラン21」を練り上げ、昨年10月28日に市長に答申した。多摩市では政策形成への市民の参加を制度化するための基本条例の起草に市民を公募している。この他、富山市と中央通り商店街のタイアップによる、空き店舗を利用した「フリークポケット」のような住民主体の地域活性化の動きは全国に見られる。

大いなる「実験」
 従来ならば、自治体の政策作りは、物分かりの良い学識経験者・議員・利害関係者等を集め審議会を設置し、行政の筋書きで「答申」をまとめ、それを行政が実施するという「マッチポンプ」方式でやってきた。場合によっては、市の基本計画策定作業等をシンクタンクに「丸投げ」し、シンクタンクはろくな調査もせず、A市とB市の名前だけを「一括変換」した「金太郎アメレポート」を「A市基本計画書」として何千万円で納品するといった、市民をバカにしたことまで行われてきた。
 ところが、この産業振興ビジョンは、このような審議会は作らず、最初から都民に問題を投げかけ、提案を募集し、互いに議論させ政策を練りあげながらネットワークを形成し、あたかも政策形成の過程がすでに産業活性化の「運動」であるかのような様相を呈している。議論する過程で熱が生まれ、交流することで先進例が普及し、新たな刺激や発見に満ちた住民による政策形成過程である。
 一昨年、この動きが始まったとき、私は、その中心メンバーが長年の友人であることもあり、不況の中での産業活性化政策だというのに全く聞いたこともない「危ない方法」を採ったものだと、感心もし、少々心配になったことも事実である。しかし、それは杞憂であった。のみならず、従来の行政主導による政策形成を一新するものとして全国的な注目を集めるにいたった。

閉塞を突破
 都の産業振興ビジョンと三鷹の「市民プラン21会議」に共通しているのは、●住民の力量への全面的信頼 ●行政は、議論の場とコミュニケーション手段を提供し住民のパートナー・コーディネーターとなる ●議論の過程の全面的な情報公開 ●ML(メーリングリスト)等のインターネットやIT技術のフル活用である。
 「住民の力量への信頼」はこれまでタテマエとしてあっても、行政の権威主義や専門性への自己過信が、住民を「自己の利益しか考えない素人」として考え「対等のパートナー」と考えることを拒んで来た。しかし、近年の「ゆとりと知恵のある高齢者」の登場、地域活動に慣れた女性達、会社人間をやめた男達等々、住民の知的・行動的パワーはめざましく強化され、専門集団(であるはずの)役所をしのぐまでになってきている。
 情報公開はもはや避けられない「流れ」である。これまで、行政(役所)の住民に対する優位は、権限よりも「情報の蓄積と独占」にあった。情報公開はこの行政の優位を根本から揺さぶっている。同じ情報を与えられれば、優れた判断をし的確な行動を起こす市民は少なくない。問題は、いまだに情報公開制度の革新的な本質が住民や自治体職員にさえも十分に認識されていないことである。しかし、もはや情報を隠したり独占したりできないのならば、住民に公開し議論するのが最も良い方法であることが、常識になるに日は近い。
 自治体は情報処理が最も主要な仕事であるにもかかわらず、情報化やITの分野では大企業や多くのベンチャー企業の後塵を拝している。自治体の中でインターネットをフル活用し、これを突破したのがこれらの政策形成の活動である。インターネットは自治体運営と住民の参加に不可欠のツールとなるであろう。これらの活動は、従来の政策形成を根本的に転換し、まさに21世紀の地方自治を予感させるものを感じる。

住民の・住民による・住民のための
 多くの地域で取り組まれている「まちづくり」「まちの活性化」の動き、環境保護やリサイクルの運動、健康づくりの取り組み、子育てや教育を考えるネットワーク等々が優れた実績を作りつつある。これらの中にも「住民主導」の政策形成の萌芽が見える。
 60・70年代の行政への抵抗や抗議、80年代の生協等の自主的な運動、90年代のNPOやNGOによるネットワーク、そして新しい世紀は、これらの蓄積の上に有能な個人や元気な高齢者が加わり、情報技術を武器に地域を舞台に「住民主導の活動」を展開するだろう。この兆しは、急速に拡大するに違いない。まさに、「住民の・住民による・住民のための」地方自治の萌芽が見え始めているのである。

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