JIRON-1  

地域雑誌「新川時論21」創刊号の紹介


 創刊号目次

◇発刊にあたって
◇その昔『新川時論』がありました
  (その1)『魚津市史』の誤りをただす
◇特集・蜃気楼予報が始まった      
◇Hot Hot 初の小選挙区比例代表並立制 
◇新川の登記所が魚津に統合される
◇「介護保険」はホンモノ?       
◇魚津市観光マップ(飲食店センサス)  
◇特集・イベントホールの現状と未来を問う
◇書評「でるくい」「馬鬣抄」ほか    
◇ルポルタージュ 早月川を歩く
  (第1回)河口から月形橋まで   
◇同人・賛助会員・原稿募集
◇同人名簿・編集後記

 《地域雑誌メニューにもどる》


「新川時論21」創刊号の巻頭言



 「地域雑誌をつくろう」・・・・それが話題になったのは、96年2月17日、宇奈月のホテルの一室でのことでありました。折から宇奈月は「雪のカーニバル」。雪山の間隙に花火があがり、松明をかかげたスキーヤーが山を滑り降りてくる。しかし、お祭り騒ぎに見向きもせずに議論にふける一団の怪しげな男たちがあり、そこでは「地域雑誌」の4文字がビール瓶の中に潜りこみ、酒に溶けこみ、男たちの目を少年の目に変えているようでありました。
 喧騒の一夜の酒精分の蒸発とともに雲散霧消するかに思えたこの話は、しかし、春になって、魚津駅前繁華街の一室で蒸し返されることになりました。顔ぶれはひとまわり範囲がひろがっておりました。などと書いて、酒ばかり飲んでいるように思われてもいけません。これ以降は、一滴の酒もなしで、しらふの会議を重ねてきました。 どういうコンセプトで雑誌をつくるのか、資金的な見通しはどうか、表題をどうしよう、装丁はどうする、などなど、紆余曲折はありましたが、こうして、第1号の発刊にこぎつけました。
 コンセプトは「辛口の地域評論誌」であります。大上段に振りかぶっての第一球は、ストライクかボールか、はたまた大暴投か。ともかくも、誰にも何にもおもねることなく、胸のつっかえがとれるような議論を展開したい、というのが私たちの願いであります。
 本誌の名称は「新川時論21」であります。その昔「新川時論」という地域雑誌がありました‥‥と、本文中の記事のタイトルをそっくりもってきてしまいました。くわしくは本文をお読みください。
 今を去ること75年前、大正10年の創刊。年表を繙いてみると、この年、首相原敬がテロに斃れ、ワシントン軍縮会議が開催されています。その前年に初のメーデーが開催され、前々年には米騒動が起きております。大正デモクラシーの時代であります。
 75年前の「新川時論」の志を継承しつつ、21世紀を展望するという、まことに気宇だけは壮大なのでありまして、名前負けするのではないか、若い人や女性が参加しづらいのではないか、などと心配の種はつきません。
 「新川時論」は、百一号まで発行されました。百号だろうが千号だろうが、第一号から始まるのだ、と強がりを言いつつも、しかし、「三号で終わり」なんてぶざまなことにならないようにしよう、というのが本心であります。どうか、「新川時論21」を見守り、育ててくださるようお願いいたします。(小熊)

《もどる》



地域雑誌「新川時論21」の紹介



会員募集



 同人・賛助会員を募っています。

発刊の言葉でも述べたように「新川時論21」で は本誌の企画・運営に加わっていただく同人、本誌の定期購読を予約していただく賛助会員を求めています。

 ☆同人は本誌の企画・運営・取材・執筆にあた っていただきます。
(年会費 2万円)
☆賛助会員は、本誌1年分(年に4回発行)の 購読料として二千円を前納していただきます。

ご連絡先は
〒937 魚津市上村木2-17-12
浜田 実 方
「新川時論21」事務局 宛
    TEL&FAX:0765−22−67 53

原稿募集



・本誌に対するご感想・ご意見をお寄せ下さい。
・新川地区でひろった(あるいはそうでなくても )楽しいはなし。ちょっと変だ、と思ったことなど、何でも結構です。
・写真・イラスト・詩・エッセイなどもお待ちい たします。
・採用の際は、本誌一冊で稿料にかえさせて頂き ます。
・採否の問い合わせはお断りいたします。
・原稿のお届け先

 〒937 魚津市上村木2−17−15
     浜田 実 方
     「新川時論21」編集部 宛
     電話 0765(22)6753

《もどる》


「馬鬣抄」(ばりょうしょう)の紹介



教育現場の内部告発 佐伯邦夫の教育評論集「馬鬣抄」

 昭和五七年ごろ、泊高校で同僚として筆者と初めて対面した時の印象を忘れることは出来ない。
登山家、山岳紀行家としてすでに著名な筆者ではあったが、教師としてはもう一つという声も聞こえていた。特活部に所属することになったので「あなたの本分はは登山家ですか、作家ですか、教師ですか」と尋ねると、すかさず「教師です」と答えが返ってきた。
 私の質問が愚問であったことはすぐにわかった。生徒会新聞や機関誌の編集指導をお願いしたが、「手がけたことがないので……」と遠慮がちな言葉とは裏腹に見事な仕事ぶりであった。
 もっと瞠目したのは「教師です」と答えた以上にすばらしく純粋な教育者であったことだ。しかし、純粋であるが故に筆者は厚い壁にぶつかることになる。
 「平和、民主、個性尊重」の崇高な理念(教育基本法)でスタートしたはずの戦後教育は、一九六〇年代からの経済成長に合わせるるように「産学協同」「偏差値」路線に走り、均質で良質な労働力を産業界に提供する方向に転換していったことはよく知られている。そこでは教育基本法の理念はきれいに置き去りにされ、画一的な鋳型に子供を押し込む「管理主義」が幅をきかせることになる。筆者が本書で繰り返し指摘するのはまさしくこの一点である。
 古くは毎日新聞社の『教育の 森』以来、さまざまな教育評論集が刊行されたが、「管理主義」教育の裏側に発した教育の荒廃、例えば多様化の名で押し進められた差別と選別の進路指導、非行、校内暴力、教師の体罰、いじめなどを社会問題として提起したことが評価される。その一方で現場の教師たちはただ沈黙を強いられてきたといってよい。
 本書は、数少ない現場内部の告発である。告発というより悲鳴といってもよい。例えは良くないが「刑事と教師は下へ行くほど良い」というとおり、すぐれた理念と実践の持ち主は結構教育現場に多い。ただそれが教師集団の声として外の教育批判と対話し、明日の教育を作ろうというシステムになってこないのである。もちろん教育行政の締めつけも大きい。もう一つの障害が本書のいう「共通理解」である。
 何事によらず学校では職員会議で討議して進められる。一見民主的なようだがこれが曲者で、決まったことは教師全体の「共通理解」として行動を縛ってしまう。
 校長の意向がそのまま「共通理解」になる学校も非常に多い、となれば教師自身の昇進や保身が優先する職員会議もまた多いということになる。
 学校内部で教育論を闘わすとすればお互いの内面の恥部を探り合うことにもなりかねず、いわんやこれを文字にして公表することはほとんどタブーに近い。
 筆者は自分の考えをさらけ出しただけのつもりでも、周りの教師一人一人の姿勢を問い質すことになっている。気楽に職場新聞のつもりで回し読みすることなどとても出来ない。教師仲間にとっても恐ろしい評論集である。
 題名のいわれになった「馬鬣山」は泊高校の目の前いっぱいに横たわっている。ただ眺めるだけでなく、折にふれ筆者はそこに登って自らに問い質す場にしていたようだ。すでに山岳家、紀行家として名をなしている筆者も、教育者として意を尽くせず、定年を二年残して自らを斬った怨みが本書に残っていると見たのは評者だけだろうか。(濱田 實)

佐伯 邦夫( さえきくにお)
一九三七(昭一二)年生れ。大東文化大学文政学部日本文学科卒。県下中学、高校で国語教師。一九九六(平八)年、教職生活三五年を区切りに退職。魚津市在住。
【編集部より】この本入手ご希望の方は、郵送料二〇〇円(切手可)同封の上、〒937魚津市友道1305−1佐伯宛てお送り下さい。

《もどる》