余白95
北日本新聞・カルテの余白 1995
北日本新聞日曜版「カルテの余白」欄に掲載した文章を収録しました。版権は北日本新聞社が所有しております。引用などの際には、掲載日付と出処「北日本新聞」を明記してください。
〈 「カルテの余白」 目次へ戻る 〉
1995.01.22 ほおづえ
1995.02.26 誕生日
1995.04.02 歯型(はがた)
1995.05.07 八〇二〇運動のふるさと
1995.06.11 丸い惑星
1995.07.23 古代人の食生活
1995.09.03 背中
1995.10.15 鬼歯
1995.11.26 「しかる」と「ほめる」
《もどる》
1995.01.22 ほおづえ
ほおづえをつく仕草はどこか無力感・倦怠感をただよわせる。漢字で書くと頬杖。辞典には「ひじを立てて手のひらで頬を支えること」(広辞苑)と書いてある。腕を杖に見立てているのであって、そんな杖が実際にあるとは思ってもいなかった。
新潟県黒姫、野尻湖の近くに俳人小林一茶の生家の跡があり、記念館がある。そこで頬杖の実物を見た。一茶が愛用していたものだという。たしかに使い込まれたような光沢である。お巡りさんがぶらさげている警棒くらいの太さと長さ、日本刀のように反りがはいっていて、手元が少し太くなってくぼみがついている。
私事になるが、去年の暮れから首の調子が悪くなり、頭を起こしているのがつらい。四貫目(約一五キログラム)とも一〇キログラムとも言われる頭の重さを思い知った。目醒めている間、首はたいへんな重労働に従事している。ほほづえをつくと楽なのだが、両手がふさがってしまうので、本を読むにも都合がわるい。そこで一茶の頬杖を思い出した。一茶も首に障害でもあったのだろうか。
ちょっと脇道にそれる。辞典には「方杖」という表記も書かれている。木をとると「方丈」だ。ここから単純に「方丈記」を連想した。一歩さがった視点から、そう、ほおづえをつきながら、俗世の無常を眺めているのではないか。当っていれば大発見。さっそく「方丈記」を読んでみた。
残念ながら、ほおづえを思わせる記述はどこにもない。お釈迦様の弟子・浄名居士(ジョウミョウコジ)の庵にちなんだ一丈四方の小屋の意味、それ以上でも以下でもないらしい。
さて、一茶の杖である。これを作ってみようと思い立った。反りを入れたり、くぼみをつけたりは面倒だから、太い木にしてしまおう。日曜大工の店へ走り、太さ五cmのテーブルの脚を買ってきた。杖というより丸太である。端にくぼみのかわりにクッションを、と見回したが適当なものがない。軍手をかぶせた。見た目には、いかにもほおづえをつく腕のようになった。
使ってみた。どうも具合がわるい。両腕が自由になるどころか、痛くて顎に当てていられない。人間の噛み合わせの力は体重程度あり、それを支える顎は頑丈なものだが、不自然な力に対してはそうでもないようだ。
一茶は頬杖をどうやって使ったのだろうか。見落としたのかもしれないが、展示室には使用法の解説はなかった。それとも、よほど頑丈な顎だったのだろうか。
《もどる》
1995.02.26 誕生日
「おめでとうございます」
朝、診療室へ入ったとたんに、職員から声がかかった。いつもなら「おはようございます」なのに、何でしょうか、何があったのでしょうか、とキョトンとしていると、「誕生日おめでとうございます」と再び声がかかった。
あ、そうか誕生日でした、またひとつ歳をとってしまった、お言葉ながら、あんまりめでたくはない。でも、おぼえていてくれてありがとう。
最近は、書類などに年齢を書き込むときに、えーーと、としばらく考えてしまう。計算はもともと得意ではないが、そのせいではなくて、まるでひと事のように関心がなくなっている。若さを数えるには遅すぎ、老いを数えるにはまだ早い。
ある大富豪が八〇歳のとき、二〇歳にもどれるなら全財産を投げ出してもいい、と言ったとか。金があろうが地位があろうが人は容赦なく歳をとる。そのときの生き方を上昇指向強迫症候群、晴耕雨読願望症候群に分類した人がいる。病気に見立てているのは、もちろんシャレだが、なかなかうまく表しているように思う。私は、右か左かまだ決めかねている。どっちも魅力的だ。上昇指向兼晴耕雨読でいきたい。欲が深い。
午前中の診療が終ろうとするころ、花屋さんが大きな花束をもってきた。ピンクのバラ、黄色のチューリップ、黄・白・ピンク・パープルのスイートピー、白いかすみ草。職員たちの注目を浴びながらメッセージカードをのぞき込む。東京にいる息子と千葉にいる娘からの誕生日祝いである。全国どこへでも指定した日に花を贈れる、花屋さんの新手の商法である。便利になったものだ。
学生のくせに、こんなことにお金を使わなければいいのに、何かおいしいものでも食べればいいのに、などとつぶやきながら花束を抱えたら、バラのにおいがふわりとひろがり、まぶたに熱をともなった違和感を感じた。ゴミのせいですよ、男は涙を見せてはいけない、これは「フーテンの寅さん」の「御前様」こと笠智衆さんの信念、演技でも涙を流すことを拒んだという。
書斎にもどって、花束をテーブルの上に置いた。オーディオラックから、なるべく威勢のいい曲を、と一枚のCDを選びだしてプレーヤーにセットする。いつもよりボリュームは高め。サンバの軽快なリズムが部屋にひろがる。窓の外はサンバとはまるで不つりあいな雪景色だ。
誕生日、誕生日、飛んでいけ!
《もどる》
1995.04.02 歯型(はがた)
歯の治療には石膏で作った歯型をよく使う。口の中にガムかクリームのようなものを押し付けられて、「じっとしていてください」とやられた人は多いことと思う。なかには吐き気をもよおして苦しい思いをした人もいるだろう。あれが型をとる作業で、あとでそれに石膏を流し込む。用途によって硬さの違う石膏があり、色つきのもある。詰めものや入れ歯を作るにも、この歯型のうえで作業を行なう。
私たちは毎日たくさんの歯型をあつかうので何とも思わなくなっているが、一般の人には奇異に映るようだ。
ある日、自分の歯型を熱心にみつめている子がいた。小学校低学年の男の子だ。よほど気になるらしく、手は出さないけれど、上からのぞきこんだり、身体をひねって横からのぞいたりしている。
「ほしい?」と聞いてみた。
「うん。でも、せっかくつくったのに、いるんじゃない」
いまどきにはめずらしく遠慮ぶかい子である。
「歯をつくるのに使ってしまったんだ。もういらないからいいよ。あげるよ」
「ほんとにいいの? もういらないの?」
にっこりして、手をだしそうになって、またためらっている。
「お母さん、おこらないかな。気持ちわるいっていうかもしれない。うん、やっぱりおこられるかもしれない。どうしよう」
歯型が欲しいという好奇心と、まわりへの心くばりと、あっちへ揺れたりこっちへ揺れたりしている。いじらしい。
そのとき、歯科衛生士のスタッフが助け船をだしてくれた。
「ちゃんとかたづけておけばだいじょうぶ、おこられないよ。出しっぱなしで、どこへでもほおっておいたらだめ。自分でかたづけておきなさい」
その子は、歯型を紙にくるんで、だいじそうに持って帰った。うまくいっただろうか。ちゃんとかたづけているだろうか。ときどき出して眺めているのだろうか。
不登校、いじめ、拒食など、学童期におこるさまざまな問題の渦中の子には「周囲の人に気配りする感受性の強いタイプの子が多い」と書かれているのを読んだことがある。いや、子供の世界だけではない、大人の世界でも、こころやさしい人が住みやすい社会とは思えない。少々鈍感で強引でないと渡っていけない。ひねくれているのは世間のほうだ。やさしすぎる心、卵のままで生まれてしまった心は傷つきやすい、こわれやすい。
負けるなよ。歯型なんかいくらでもあげるから・・・
《もどる》
1995.05.07 八〇二〇運動のふるさと
二〇本以上の歯が残っていれば、たいがいの食品が食べれる。そして二〇本以上の歯が残っている老人は概して元気だ。八〇歳になっても歯が二〇本以上残っているようにしよう。これが八〇二〇(はちまるにまる)運動の主旨である。
昭和六一年の春、兵庫県の内陸部、岡山県との県境に近い人口約五千人の町、南光町(ナンコウチョウ)を訪れた。キャッチフレーズは「花と小鳥と清流のまち」、町のまんなかを川がながれ、その両わきに田畑が帯のように連なる。平地の幅は狭く、すぐに山になる。トタンがはりめぐらされているのを不審に思ってたずねたら、イノシシがでるのだと教えられた。
この町に町営の「歯科保健センター」があり、そこで働く歯科医師、新庄(シンショウ)先生は大阪大学の研究室に在籍しているが、週に二日やってくる。そしてユニークな活動を展開していた。この町は無歯科医地区だった。予防活動は全町民を対象にするが、一般の患者は診療しないことにした。動ける人には隣町まで行ってもらう。だから、治療するのは学齢期前の子供、老人、障害児・者に限られる。寝たきりの患者には往診する。
こうして週二日だけの診療でも、もっとも必要度の高い人たちの治療が可能であることを示した。さらに、老人たちの歯の状態と健康状態を調査した結果が、八〇二〇のもとになった。だから、この町が八〇二〇運動の発祥の地であり、新庄先生が生みの親と言っていい。
当時、私は週に二日診療を休んで、研修のために大学へ通っていた。新庄先生とは逆のことをしていたことになる。「勉強にひと区切りついたら、その二日をつかって、どこかの村へ行けば、これだけのことは可能です」と言われたことが強く印象に残っている。なるほど、そういう生き方もいいな、と思いつつ十年がたとうとしている。
そのとき頂いた資料のなかに「南光町歯科保健特別会計」の予算書がある。おどろいたことに、町財政からの繰入金がたったの千円である。施設関係の費用がはいっていないのは、上手に補助金を使っているからである。そのあたりのいきさつは、最近刊行された町長の著書にくわしい。(山田兼三「南光町奮戦記」あけび書房)
地方自治の単位は、ちいさいほうが優れているのではないかと考えさせられる。市町村合併よりも分離独立を推進したほうがいいのかもしれない。
《もどる》
1995.06.11 丸い惑星
ユウ君の目は森に住むリスの目のようだ。ぽろりところがったドングリの実、風に吹かれて裏がえった木の葉、枝にとまった小鳥、森のなかのすべての動きをとらえる目だ。
歯の定期検査にやってきたユウ君は自閉症である。診療室には入ったものの、なかなか治療椅子にすわろうとしない。なだめたりすかしたりしてみても、それは木の葉をぱたつかせる耳ざわりな風の音にすぎない。むかい合った彼の目は、私の身体をつき抜けて、はるかむこうを見つめている。
「いろいろな車の色でできた建物」
ユウ君が、とつぜん断定するようなきっぱりとした口調で言った。
彼の視線の先を追うと、家々がいろんな色で静かに立ち並んでいる。車の色には、白や黒でさえいくつもの種類がある。同じ色のように見えて、微妙に違っている。彼の目はそれを見分けているにちがいない。
ユウ君は「サヴァン」なのかもしれない。
「サヴァン症候群」は、発達障害(精神遅滞)または精神障害をもつ人が、計算・音楽・美術・暗記などに優れた能力を有する場合を言う。その人の障害にくらべてすばらしいという程度から、天才というにふさわしい程度まで、幅がある。出現頻度は発達障害のうち約二千人にひとり、自閉症では約一割と高い率だ。また、八割は男といわれる。
ノーベル賞作家大江健三郎氏の長男、光さんは音楽のサヴァン、「裸の大将」で知られる山下清さんは絵画のサヴァンだと言っていいだろう。
あるサヴァン患者の言葉。
「惑星は丸とはかぎりません。丸い魂を持っていれば、神様が丸い惑星に入れてくださる。四角い魂を持っていれば、神様が四角い惑星に入れてくださるでしょう。わたしは楕円形の魂を持っていたのに、神様が丸い惑星に入れてしまったのです」(草思社刊「なぜかれらは天才的能力を示すのか・サヴァン症候群の驚異」より)
ユウ君はやっと椅子に座ってくれた。
「あ、むし歯ができてる。どうしたのかねえ」
わざと視線をはずしたまま、話しかけた。
「タコくん」
ユウ君の言葉が返ってきた。まわりの風の中から、私の言葉を見つけてくれたようだ。彼にとって理不尽なことはすべて「タコくん」のしわざなのであろう。口の中をひっかきまわす私たちも、「タコくん」の一族なのかもしれない。
《もどる》
1995.07.23 古代人の食生活
「古代人の食生活」と銘打った企画展があるというので、県埋蔵文化財センターへ行ってみた。「食品」に興味を抱いて出かけたのだが、「食器」のほうがほとんどだった。それも「食生活」の一部には違いないけれども、ちょっとあてがはずれた、というのが正直な感想だ。試食まではできないにしても、復元食が展示されているかもしれない、と期待した。
あてがはずれた、といいながら、井口村で出土した縄文土器には感嘆の声をあげた。「猪形注口土器」(イノシシガタチュウコウドキ)と記されたその土器は、イノシシが大きな口を開けたところを形どっていて、機能と装飾がみごとに調和している。現代のデザインとしても通用しそうだ。これをつくった縄文人はどんな人物だったのだろうか、男だったのか女だったのか、作品を見た人たちは何と言っただろうか。
食べ物に話を戻そう。成人病の予防のために一日三〇種類の食品を食べよう、と言われている。こんな標語ができるのは、気をつけていないと三〇種類にならないことの証拠でもある。それに比べると縄文人たちはおどろくほど多くの種類のものを食べていた。
企画展のパネルからメモしてきた。木の実や野草などの植物が三〇〇種類以上。動物六〇種類以上。鳥類二〇種以上。魚類七〇種以上。貝類二〇〇種以上。その他に、は虫類や昆虫なども食べていた。
これが弥生時代になると、たとえば動物は三七種類に減少する。現代はどうだろう。スーパーの食品売場には、加工したものを除くと何種類の食品が並んでいるだろうか。文明の発達とともに食品のレパートリーは少なくなっていくもののようだ。
縄文時代には栽培や家畜の飼育は行なわれていない。手にはいるものを何でも口にせざるをえなかったのであろう。手に入れる苦労や調理する苦労がひと目でわかるような、感動に満ちた食事であったことだろう。
古代の食事を復元して食べてみる実験が行なわれている。残念ながら縄文時代の食事については手元に資料がない。弥生時代のヒミコの復元食についての実験では、一食につき三九九〇回咀嚼し、五一分かかったという。現代の食事は六二〇回、一一分。六倍以上も噛まなければならない。
現代人は、商品として生産・流通しやすいものを、食べやすく加工して食べている。食事がだんだん「エサ」に近づいていくようである。
《もどる》
1995.09.03 背中
子供は親の背中を見て育つ。
ほんとうにそうだろうか、と友人たちと議論になった。一所懸命働いている、それを見て育ってほしい、というのは親の願いではある。だけど、と議論ははじまった。
・・・・まず第一に、会社に勤めていれば、「いってきます」と出かけるうしろすがたしか見ないじゃないか。それだってあやしい。出勤時間と登校時間が違っていればすれちがいだ。第二に、いまどきの子供は親を見るよりもテレビを見ている時間のほうがすっと長い。親よりもテレビから強く影響を受けるかもしれない、いや、きっとそうだ、「子供はテレビを見て育つ」なのだ。
・・・・ちがうちがう、背中ってのはたとえ、象徴だ。実物を見るかどうかは問題じゃない。面と向かってお説教をたれなくても、親の生き方が、生きる姿勢が、自然に伝わるってことだろ。テレビなんかにゃ負けやしない。オレは負けないぞ。
・・・・とはいうものの最近のテレビドラマはすごいよ。忙しい親、とくにオヤジなんかはそんなもの見てる暇がないかもしれないけど、犯罪・暴力・虐待・軽薄、などなど、ともかく一日だけ社会勉強だと思ってテレビをつけっぱなしにして見ろよ。ヘアヌード写真なんかよりフツーのテレビ番組のほうがよっぽど害毒を流していると思うけどな。
・・・・勝手に茶の間に飛び込んでくる、そんなハエやカみたいなものに負けてたまるか。でも、なかなか手ごわいかもしれんな。専門の勉強した連中、特別に訓練したプロの連中がつくってるんだからなぁ。プロデューサーなんてのは一流大学出が多いっていうじゃないか。
・・・・そういえばこんな駄ジャレがあるよ。「親は子供の背中を見て老いる」だって。いやだね、ぞっとするくらいリアルだね。子供がへなへなに育って、その背中を見ている親がおいぼれていくなんて、悪いシャレだよ。やだやだ。
どうも「背中」派の旗色が悪い。テレビ全部が悪いわけではないけれども、他にもコンピュータゲーム、おかしなマンガなど、「背中」には強敵がたくさんいる。
診療所兼自宅で開業している私の背中は、サラリーマンの親よりも見られるチャンスが多いはずだ。しかし、子供たちが自らすすんで「あとを継ぐ」と言わないところをみると、どうやら、私の背中もあんまり見られたしろものではないようだ。私ばかりではない。さいきんのオトーサンたちの背中は・・・・
《もどる》
1995.10.15 鬼歯
乳歯が生えはじめるのは生後六カ月前後だが、かなりの個人差がある。なかには生まれたときにすでに生えていることがある。これを「先天歯」(せんてんし)というが、俗に「鬼歯」(おにば)ともいう。発生するのは、ほとんどが下顎の前歯の場所であり、〇・〇一%から〇・一五%の頻度といわれている。研究者によって数字にずいぶんちがいがある。正常な乳歯が早く生えてくる場合と、余分な歯が出てくる場合とがある。母親の乳首に傷をつけたり、自分の口の中に傷をつけたりして、先端を丸めるなどの治療が必要になることもある。
昭和三六年、医師のストライキともいうべき「保険医総辞退」闘争があった年である。この年の夏、九州のある地方で、歯が生えて生まれた子を気にして自殺した母親がいたそうだ。江戸時代初期の書物には『日本にはおろかなる風習があって、歯の生えた子が生まれると、鬼の子だといって殺してしまう』と書かれているという。さらに古い書物に、『歯の生えた子が生まれて、これは鬼だから山に埋めたほうがよかろうか、と相談されたが、坊主にするのが一番よろしかろう』とも書かれているそうだ。つまり、「鬼歯」は、歯の生え方が普通でない、という意味ではなく、赤ん坊が人間ではなく鬼である、という意味で使われていたようだ。鬼の歯は生まれながらに生えているらしい。
そもそも鬼とは何ぞや、という議論を展開するだけのゆとりも能力もない。もともとは神の仲間でありながら、神の秩序に反逆したアウトローたち、という鬼の定義があることを紹介するにとどめる。(馬場あき子「鬼の研究」ちくま文庫)
反体制側から体制側へ乗り換えるのは、古来めずらしくないことのようだ。山姥の子である「金太郎」が、その超人的な能力によって「坂田金時」になる話は、鬼の子の出世物語である。鬼が超能力をもっているのは当然である。しかし、この話は、鬼の世界から見れば変節とも言える。
現代の政治では、体制・反体制とまでおおげさではないにせよ、節操なんてものはどこかへ飛んでいってしまった。だが、金太郎とはちがって、超人的な能力を発揮して難問を快刀乱麻というわけにはいかないようだ。
話がとんでもない方向へ行ってしまった。「鬼歯」が生えていても心配はいらない。そのかわり超能力も期待してはならない。
《もどる》
1995.11.26 「しかる」と「ほめる」
「いやだ。いやだ。おかーさーん」
診療室に子供の泣き声がひびく。歯の治療は誰もが嫌う。子供がいやがるのは無理もない。
ちかごろの子供は泣きかたにも迫力がある。「バカヤロー、いやなんだよー」とどなりつける子供がいる。ここまでくると、すごんでいるといったほうがいい。思いどおりにならないと、エスカレートしてくる。「おかあさんのバカヤロー、歯医者さんのバカヤロー」と、威勢がいい。歯に触ったとたんに「痛い、へたくそ」などと言われると、こちらのほうが泣きたくなる。
おろおろとしている母親、だまってにこにこしている母親、「見るだけだからね」「帰りにいいもの買ってあげるからね」と、なだめようとする母親、さまざまである。
こんなとき欧米では、「ちょっと失礼」と親が子供を連れ出して、尻をひっぱたく。と、聞いたことがある。お国柄であろうか。
めったにないけれども、大声をだして子供の患者をしかりつけることがある。そのときの状況判断、タイミングは実に難しい。理解力があることが前提になる。明らかに分かっていながらわがままを言っている場合である。本当に恐怖心から泣いているときは、しかったら逆効果になる。演出はもっと難しい。ただ大声をだしても駄目。いまどきの子供は大人を怖がらない。一瞬にして驚かせ、ちょっぴり怖がらせ、しかもポイントをついていかないといけない。くどくどしいと、お説教になってしまう。お坊さん以外の者が説教をしても効果はないようだ。役者のセンスが要求される。
治療がおわってからの親の態度もさまざまだ。「痛かった? ねえ痛かった?」と、まるで「痛かった」と答えなければならないみたいに問いかける親、「はずかしや」と子供をこづく親。しかし、「がんばったね」とほめる親は少ない。
ある育児雑誌の質問に「しかるのとほめるのと何対何くらいがいいのでしょうか」というのがあったそうだ。何事もマニュアルの時代とはいえ、かぞえるようなものでもあるまい。あえてマニュアル風に言うならば、わがままにたいしては「なだめるよりしかれ」だと思う。しかし、終ったあとは、百パーセント「しかるよりほめよ」である。どんなに泣いていたとしても、終ったあとは「がんばったね」とほめてやってほしい。
《もどる》