北日本新聞・カルテの余白 1994

 北日本新聞日曜版「カルテの余白」欄に掲載した文章を収録しました。版権は北日本新聞社が所有しております。引用などの際には、掲載日付と出処「北日本新聞」を明記してください。

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1994.01.09 犬の歯
1994.02.20 熱い風呂
1994.03.27 英語・日本語・発音
1994.05.01 土偶の顔
1994.06.05 病院の歯科
1994.07.10 六月の花嫁
1994.08.14 牧場の朝
1994.09.18 ドク・ホリディ
1994.10.23 電話です
1994.11.20 いっしょに歳をとって
1994.12.18 日本の中のドイツ

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1994.01.09 犬の歯

 たまたま市内のショッピングセンターへ行った時のこと、駐車場が不思議なざわめきで満ちていた。ただ混みあっているのではない。ワゴン車がたくさんいる。人も多いが、犬がたくさんいる。かといって、うるさくほえているわけでなく、礼儀正しい犬ばかり。犬の品評会だった。これでも同じ犬の仲間かと思うほど、大小・色とりどり、実にさまざまな犬がいる。四百もの品種があるそうだ。人間と犬の関わりは古く、一万年も昔にさかのぼるらしい。
 さて、身近にいる犬の犬歯(けんし)は何本あるだろうか。犬は四二本の歯を持っている。と、書物には書かれているのだが、もしかしたら何百種もの犬の中には例外もあるかもしれない。ともあれ、四二本全部が犬歯なのではない。哺乳類の歯は切歯(せっし)または門歯(もんし)と呼ばれる薄い前歯、犬歯と呼ばれる尖った歯、奥歯のなかでも小さめの小臼歯(しょうきゅうし)、大きめの大臼歯(だいきゅうし)で構成されている。これらの歯の数は動物の種類によって異なり、分類のための重要な目印にもなっている。哺乳類の犬歯は通常四本であるが、ウサギの仲間には犬歯がなく、牛の仲間には二本しかない。セイウチの巨大な牙は犬歯だが、ゾウの牙は切歯である。カモノハシやアリクイに到っては歯をもっていない。このような例外もあるが、人間も犬も典型的な哺乳類であり、犬歯は四本である。ペットの世界で犬と勢力を二分する猫も四本だ。
 この犬歯、根が長く頑丈にできている。とくに肉食の動物では、獲物をとらえるために発達して牙になっている。牙を失うことは死を意味する。犬歯のことを「糸切り歯」ともいうが、「ロープを切るのに使う」という漁師がいたのには驚いた。いくら頑丈とはいっても、退化した人間の歯には負担が重すぎる。治療してかぶせた歯には、糸も危ない。セラミックなどの人工材料は衝撃に対してもろいからである。
 人間の犬歯にはもうひとつ大事な働きがある。犬や猫は頭を左右に傾けながら食べる。顎をずらして咬むという動作ができないのだ。唇や舌を上手に使うこともできない。だから、頭をかしげることによって、食べ物をずらして食べる。人間の顎は犬たちとは比べものにならないくらい複雑に動く。そのとき犬歯が顎の動きをガイドする働きをしている。これが失われると「顎関節症」(がくかんせつしょう)という病気をおこすことがある。ハサミの代用ではないのである。


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1994.02.20 熱い風呂

 風呂のはいりがけは熱いもん、コタツのはいりがけはぬるいもん。幼い頃、よく言い聞かされた。すきまから雪が吹き込むような昔の風呂場、はいりがけはことさら熱かった。しかし、「風呂のはいりがけは熱いもん」と呪文を唱えながら我慢していると、しだいに身体が慣れてくる。
 今、開業した頃のことを思い起こしている。
 「開業したら二年間は監獄に入っているようなものだよ」と先輩が教えてくれた。半分は「おどし」だろう、と多寡をくくっていたのだが・・・
 大変さはむしろ診療以外のところにある。「なぜ、こんなことを。こんなことをするために六年間も大学へ行っていたのか?」などなど、当時のメモに愚痴が書きなぐられている。
 まずは「点数」にふりまわされる。試験があるわけではない。健康保険の診療にはこと細かく点数が決められていて、一カ月ごとに集計して提出する。花札や麻雀では特定の札が集まると点数が一挙に大きくなる「やく」があるが、保険の点数はその逆で、組み合せで減少する決まりが山ほどある。それらをチェックしなければならない。提出する用紙を「レセプト」と称するが、これが英和辞典のようなちいさな活字で印刷されていて、丸をつけたり数字を書き入れたりする。もし性別のところに丸をつけ忘れようものなら、返却されて支払いは翌月以降に延期となる。
 病院に勤務していたので、保険の実務はまったく知らずに過ごしてきた。十月に開業し、てんやわんやで年を越したと思ったら、こんどは税金の申告である。
 当時、「一律七二%経費」の特例法があった。「医師優遇税制」との評もあったが、いわば公定どんぶり勘定である。しかし、この便利な方法は利用できなかった。開業したてのように、経費がそれ以上にかかる場合は、実際にかかった費用を計算しなければならない。借金はあっても貸しているものは何ひとつない、なのに「貸し方・借り方」なんて、何のことだ。これは今もってよく分からない。
 そんなこんなで十七年前の冬は、毎晩、レセプトや帳簿を眺め、時折それらを横にどけて専門書を開き、ぶつぶつ不平をつぶやき、酒を飲み、酔っては寝る、そんな日々であった。やがて、煩わしくは思うものの怒りまでは感じなくなっていった。開業は「はいりがけの風呂」だったのか。ストレスに適応した反面、大切なものまで失ったような気がする。

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1994.03.27 英語・日本語・発音

 受験シーズンが終わった。受験生のみなさん、家族のみなさんごくろうさま。約三十年前、私が受験生だった頃も「受験戦争」と呼ばれていた。一期校・二期校がなくなり、センター試験にA日程・B日程、前期・後期、と複雑になっただけで、相変わらず受験戦争である。
ひとつの大きな変化に気がついた。いまの大学入試の科目と配点をみると、英語の比重が非常に大きい。入試科目に国語がなくて英語があるところが少なくない。ちょっと行き過ぎではないか。なぜ日本人がこんなに英語を勉強しなきゃならないのか、理解に苦しむ。むしろ、日本語の勉強をしたほうがいいのではなかろうか。国際化の時代だからこそ、日本語や日本の歴史・文化を、より深く理解することが求められているように思う。
 だいぶ前になるが、県内にホームステイしている米国少年と一日を過ごす機会があった。野菜をぜんぜん食べないので、「野菜は嫌いか」とたずねた。ところが、彼は喜々として「好きだ、とても好きだ」と答える。なのに、やはり食べようとしない。それどころか、いまにも立ち上がりそうに、そわそわしている。どうやら、ベジタブル(野菜)がビジット(訪問)と聞こえたようだ。
 情けないことに、発音もヒアリングも駄目。中学から大学まで、長いあいだ英語を勉強したはずなのに、こんなありさま。言い訳をさせてもらうなら、私たちの年代は英会話の教育は受けていない。さいごには、紙とエンピツで筆談となった。これは通じる。なんだ、こんな簡単なことを言っていたのか・・・
 日本語には発音の種類が少ない。英語には母音だけでも二〇種類以上ある。母国語の発音が少ないことが、外国語を学ぶときハンディになっている。しかし、少ないから原始的なのではなく、発達した言語ほど発音は少なくなっていく傾向がある、と何かで読んだ記憶がある。
 歯、とくに前歯は発音に大切な役目を果たしている。抜けたらしゃべりにくいのは当然だが、ちょっとした形の違いや歯並びの変化も発音に影響を与える。しかし、日本語はわりと影響を受けにくい。だから、発音に対する関心が低くなり、歯に対する関心も低くなるのだ、と言う人もいる。英語を重視するなら、歯も大事にしてほしい。
 とはいうものの、日本人の英語が下手でどこが悪い、なまりがあるのはあたりまえだ。と、実は開き直っている。


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1994.05.01 土偶の顔

 桜の弱々しく控え目な色にくらべると、桃の花は力強く遠慮のない鮮やかさだ。山肌が一面にその色。クレヨンで塗りつぶしたようになる。山梨県一宮町(いちのみや)の春の風景である。
 中央高速道を東京から名古屋方面に向かう途中、笹子トンネルを抜け、甲府盆地が目の前に開けてくるあたりに「釈迦堂パーキングエリア」がある。ここに隣接して「釈迦堂遺跡博物館」がある。パーキングエリアから遊歩道があって、急な坂道を二・三分登る。
 日本一の桃の産地である一宮町と、日本一のブドウの産地である勝沼町が境を接する所にあり、北向きの窓から、それらの果樹で覆われた山々を眺めることができる。右がブドウ、左が桃である。
 ここには、高速道路建設中に発掘された「釈迦堂遺跡群」の出土品が収められている。先土器時代から奈良・平安時代までの遺跡が発掘されているとのことだが、メインは「土偶」である。日本全国で出土した土偶の一割を占めるという。博物館の一角に、土偶の顔写真と現代の子供たちの顔写真をたがいちがいに並べたパネルがある。なかなかのアイデアだ。子供たちの表情と同じように、土偶の表情もまた千差万別である。
 土偶というと、宇宙人みたいないでたちのものを思い浮かべがちだ。歴史の本にはたいてい載っている。が、それは縄文時代晩期のもので、ここの土寓はもっと古い中期のものがほとんどだ、とのことである。実物は案外小さい。顔の部分は、親指と人差し指で輪を作ったときの大きさくらいだ。さほど手がこんでいない。何のために作られたものか、諸説があるらしいが、子供のおもちゃというのも有力な説だという。縄文土器を作っている大人のからわらで、子供が土偶をせがんでいる、そんな光景を想像させられる。
 土偶の顔はことごとく丸顔である。おそらく、縄文人は、ほとんどが丸顔だったのであろう。食生活と顔の形については、歴代徳川将軍の顔の変化がよく引合いに出される。世が太平となり、生活がぜいたくになるにしたがって、顔が長くなる。長くなって、下の顎がほっそりしてくる。現代では、一般庶民の顔も長く細くなる傾向にある。美少女・美少年と言われるタイプは、まさにそれだ。このような顔だちを「ウィークプロフィール」(弱々しい顔ぼう)ともいう。実際、咬む力が弱いという調査結果がある。現代の美的感覚では、やはり桃より桜なのだろうか。


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1994.06.05 病院の歯科

 「じゃ、いまから行きます。よろしく」
 「ああ、心臓が止まったら知らせてくれよ。ここで碁を打ってるから」
 物騒な会話を交わして医局を出る。心臓が止まったら、というのは冗談が半分だが、半分は本当である。
 二十年ほど前、病院に勤めていたときのこと。歯科診療室は医局のすぐそばだった。その日、入院している心臓病患者の歯を抜く予定があり、心電図モニター装置を借り、担当医に待機してもらっていたのである。前日、心電図のおさらい。もっとも、この患者のばあいは、動いているか止まっているかしか判別できないような波型である。しかし、脈拍がなくても、ケイレンのように細かく収縮していることがあるので、イザというときにはやはり必要だ。碁を打っているのは内科と外科の医師、モニター装置には、心臓蘇生のための大きな電極がついている。救急器具や薬品を、さりげなく近くに配置する。患者よりもこちらのほうが緊張している。
 さいわい何事もなく抜歯がすんだ。医局へもどる。
 「終りました。どうもどうも」
 「え、もう終ったのかい。こっちはまだまだだわ」
 碁のほうは、まだ序盤戦。碁盤からあげた顔には安堵の表情が浮かぶ。当時の私は大学を卒業したての新米である。碁を打ちながらも気が気でなかったのであろう。
 このような危険度の高い診療は、個人開業した今はとてもできることではない。病院という設備・人・組織があってはじめてできる。近年の医学の発達はめざましい。病気をかかえながら社会生活を送っている人が多くなっている。これは病院の歯科で診てもらったほうがいいな、と思うような場面がしばしばである。が、新川地区の公的病院には歯科がない。かかりつけの病院と連絡をとりながら、できるかぎりのことはするが、富山まで行ってもらうこともある。
 歯科は採算性がわるい。たとえば、初診料・再診料が他の科より三割くらい安く定められている。病院の昼休みは短い。昼飯を食べそこねるくらい診療しても、他の科にはかなわない。科長会議や医長会議というのがあって、各科の収支状況の一覧表が定期的に配布される。経営改善が議題になることもある。だから病院の歯科医は肩身の狭い思いをするらしい。らしい、でなくて、私自身もそうだった。
 人口高齢化とともに、病院の歯科の必要性は、ますます高まる。採算のことはさておいて、すべての公的病院に歯科を開設してほしい。


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1994.07.10 六月の花嫁

 六月の日曜日、結婚式にでかけた。たいへんな混雑ぶりだ。神殿の前では、二列にならんで挙式の順番を待っている。
 結婚式場で、ヨソの受け付けに記帳してしまって、冷汗をかいたことがある。間違われたほうも、知らない名前に首をひねったことだろう。それいらい、めざすカップルの名前を念入りに確かめるようにしている。受け付けにはまだ人がいない。早すぎたようだ。ふたつならんだ受け付けの左側、と確認し、ロビーでひと休みする。
 六月の花嫁(ジューンブライド)は幸せになる、という言い伝えがある。「ジューン」(六月)のもとになったのが「ジュノー」という女神。日本でいえば天照大神にあたる、格式の高い神様なのだが、自分の月に結婚した花嫁をえこひいきするらしい。洋の東西をとわず、古代の神々はとても人間臭い。
 花嫁は私の医院で働いていた歯科衛生士である。退職したので、「いる」でなく「いた」になってしまった。結婚しても仕事をつづけよう、と思っていたようだが、嫁ぎ先が自営業なので、家業を手伝わなければならない。
 歯科衛生士という職種、一般にはなじみがうすいかもしれない。高校卒業後、二年間の専門教育を受け、国家試験をへて資格が与えられる。歯科における看護婦と保健婦の役目を受けもっている。なくてはならない職種である。
 彼女らの「就業率」は低い。資格を持っていながら仕事についていない人が多いのである。いちにちじゅう立ち仕事。終業時間が遅い。患者は、院長に言いにくいことを彼女らにぶつける。おまけに、アカの他人だと思っていると、親戚の知人のそのまた親戚だったりして、愛想が良かったの悪かったのと言われることがある。医療関係の仕事に共通したことだが、心身ともにストレスの多い仕事である。
 「卒業後五年たったら半分も残っていなかった」
 「一〇年以上だと、クラスで二人か三人がいいとこ」
 彼女らに聞いてみたら、こんな返事が返ってきた。しかし、最近は「就業率」が持ち直してきているようだ。理由は簡単。不況のために、女性の就職が難しくなり、転業しようにも行き先がなくなったのである。
 保育園のこどもたちのために作った紙芝居「歯ブラシ長者」が、彼女の、歯科衛生士としての最後の仕事になった。紙芝居を演じている光景をビデオに撮って、記念の品として手渡した。六月の花嫁さん、お幸せに。


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1994.08.14 牧場の朝

 「おーーい、変な車がくるぞ。運転手がいないぞ。おばけだ」
 後輩の声だ。そんなばかな。男のくせにうろたえるな。
 指さす方角を見ると、たしかに、運転席には誰もいないように見える。やがて、車がちかづいてきて、その理由がわかった。子供が運転していたのだ。座ると手足が届かないのであろう。立ったままハンドルにしがみついている。それでも顔の上半分しか見えない。土けむりをたてて車がとおりすぎた。小型トラックである。
 「なんだ、あれ。ナンバーもついてないじゃないか」
 牧草地のなかをはしる農道である。信号はない。交番もない。ふた昔半ほどまえの夏、富士山麓の開拓村でのエピソードである。
 学生時代の夏休みは無歯科医地区での検診・健康教室などで明け暮れていた。朝からびっしりのスケジュールをこなし、宿舎に帰ったあと反省会、それがすんでから翌日の打ち合せ。第一班は○○君と○○さん、受け付け、第二班は・・・などとやっているうちに夜が明けることもしばしばだった。
 この開拓村では、集会所に泊めてもらった。夜、キャンプファイアーを焚き、村の青年団と交流。だが、双方とも相手を窺うばかり、焚火のむこうとこちらに別れてしまって、まるでにらめっこだ。
 青年団のひとりがギターを抱えている。
 「おーい、歌でもうたおうか」
 歌が始まっても、いまいちしっくりしない。お互いのレパートリーが微妙に食い違っているようだ。やがて、意を決したように青年団のリーダーがビールを持って学生の群の中にとびこんできた。
 「おい、飲めや」
 なんのかんの言っても同じ世代の若者同士、やがてふたつの群は混ざりあい、ギターのまわりには学生も集まり、あっちこっちで座りこんでワイワイやりはじめた。こんどは、ハメをはずしすぎないように、と心配になる。心配するべき立場の最上級生であった。が、疲れと酔いと興奮とで、後のことはよくおぼえていない。
 翌朝。牧場は緑の絨毯になって霧のなかをただよっていた。きれいとかロマンチックとか言いあう仲間の声が聞こえる。二日酔いの頭には特効薬であった。
 戦後、外地から引き揚げた人たちが多くの開拓村を開いた。この村もそうだ。歴史のツケを回されたあの青年たちは、いまも村にいるだろうか。そして、あの霧はいまも村の朝をつつむのだろうか。


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1994.09.18 ドク・ホリディ

 映画「ワイアット・アープ」を見た。三時間一一分の長い映画である。登場人物の多い洋画は苦手だ。顔と名前を覚えきれない。とちゅうで、誰が誰だか分からなくなってしまいそうになる。
 ワイアット・アープといえば、西部劇でおなじみの保安官、銃身の長い拳銃バントライン・スペシャルをあやつる。その相棒役がドク・ホリディ、西部きっての早撃ちガンマンでありナイフのつかい手でもある。そして彼らは実在の人物であり、実際に起こった事件をもとに、何回も映画化されている。
 「歯は大丈夫か。代わりはないからな」
 ドク・ホリディが初対面のワイアットに話しかける場面である。
 「OK牧場の決闘」では、一〇年前にドク・ホリディがワイアットの歯を治療したことになっている。ドクターのドク、彼は歯科医だったのである。
 名前を思い出せないが、別の映画では、「この治療はどうだ」と聞くワイアットの口の中をのぞいて「まあまあだよ」「でも、オレのほうが腕がいいかな」といった会話があったような記憶がある。
 「雪山讃歌」の元歌「いとしのクレメンタイン」は「荒野の決闘」の主題歌。ここでは外科医になっている。それだけでなく、映画の始まりと終りに登場する床屋が歯医者の看板をいっしょに出している。この映画の監督は歯科医にたいして個人的な恨みでもあったのかもしれない。
 昔の西洋では、理髪師が歯科あるいは外科を行なうのが普通だった。歯科医師制度ができるのは近代になってからである。この物語の時代は一九世紀末であるから、すでにアメリカには歯科医学校がいくつかあり、そろそろ大学の歯学部ができはじめていたはずである。歯科医学教育では、アメリカがもっとも進んでいた。しかし、一方では古い時代の歯科、理髪師による歯科治療も行なわれていたであろう。
 ドク・ホリディは歯科医学校を卒業した正規の歯科医だった。なのに、どこで道を踏み外したか、飲んだくれで女たらし、賭博狂いのガンマンになってしまった。肺結核にかかっていたことが、そうさせたらしい。結核は当時の死病である。なお、彼は一九八六年、結核療養所のベッドの上で亡くなった。享年三六歳。
 もし、自分ががんの宣告を受けたらどうするだろう。どうも、仕事を放っぽりだすだけのゆとりもなさそうである。


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1994.10.23 電話です

 「東京のスズキさんから電話です」
 診療中に、受け付けから電話の取り次ぎである。
 東京のスズキ、ああ、あいつか。久しぶりだな、何の用事だろう。と、受話器を取ると、友人の鈴木君とは似ても似付かぬ若々しい声。
 「センセイ、税金対策はお済みでしょうか」
 「え? ゼイキン?」
 途中になっている患者と、脳裏に浮かんだ友人の顔と、いきなり飛び込んできた税金の話と、頭を切り替えるのが大変である。一瞬の空白状態をとらえて、立て板に水を流すとはこういうことかと感心させる流暢さで、話し始める。
 他人に心配されるほどの稼ぎもない。が、税金は少ないに越したことはない。税金を払うと何も残らない、それどころか、足りなくなることがあるのはどういうことだ、かねて不思議に思っている。
 ところで、立て板に水の落ち着くところは不動産投資。どこそこの駅の近くにマンションがあって、それを買って賃貸すると、なにがしかの節税になり、やがて売却されてもよし相続されてもよし。賃貸不動産を相続すると節税効果が抜群・・・
 いやはや、まだまだ死にたくはないのに、税金どころか遺産相続まで心配してくれるとは、たいそうおせっかいな。そもそも、労せずして金を手に入れるという考え方じたいがおかしい。
 そういえば、マンション投資で苦労している友人がいる。いくつかのマンションに投資したあげく、土地つきの自宅を売ってマンション住いをしている。本末転倒とはこのことである。甘い話には用心。
 「私、そんな話には興味ありませんので、悪いですが、いま仕事中ですし、電話を切らせてもらいます」
 ここで、はいそうですか、とは引き下がってくれない。あげくは、税金の仕組みも理解できないのか、このボンクラ、とでも言いたげな、さげすみの調子を帯びてくる。
 「診療中だから失礼します」
 最後は不愉快な気分で、相手が話しているのをかまわず電話を切ることになる。こんな電話がしばしばかかってくる。だから、「東京のスズキさん」とか「大阪のヤマモトさん」などという電話には身構えてしまう。ところが、時には本当の友人だったりするから困る。「はい。どこのヤマモトさん?」と、構えた声で電話を取ったら先輩だった、なんてことが実際にある。
 なんとかならないでしょうか、迷惑なセールス電話。医者はあなたがたが思っているほど金を持っていませんよ。


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1994.11.20 いっしょに歳をとって

 「トシをとりました。先生といっしょにトシをとっていきます」
 開業以来かかりつけの患者さんである。年齢はひとまわりほど上であるが、最初に来院された時は、今の私よりずっと若かったことになる。言われて自分の姿を思う。その頃は白髪はちらほら程度だったが、今は白と黒どちらが多いかわからないくらいだ。
 約二〇年の間に、智歯(おやしらず)二本を含めて、三本の歯を抜いた。四十歳以降の二十年間、平均では智歯は含めずに十本ほど歯を失うから、優秀なほうだ。それが、今回の来院で奥歯を一本抜かなければならなくなった。実は、この歯が無くなると、取り外し式の入れ歯になる。はじめての入れ歯である。その無念さが「トシをとりました」という言葉にこめられている。
 「歯科医が歯を抜く時は、自らの敗北を認める時だ」と、先輩から教えられたことがある。言葉どおりに受け取るなら、くる日もくる日も敗北感と懺悔に明け暮れていなければならない。とても身がもたない。
 これは理想論。そういう姿勢で臨みなさい、との戒めとして受け止めている。時には抜歯に至った経過をふりかえってみることが大切だろう。
 抜歯することになったところには、ブリッジと呼ばれる治療がしてあった。歯が抜けたところの両隣から橋をかけるようにしてつなぐ治療であるが、その橋ゲタにあたる歯である。ふたつある橋ゲタのうち、片方の歯がぐらついてきて、レントゲンで調べると、歯を支える骨がなくなっている。歯周病(いわゆる歯槽膿漏)の進行した状態である。残念ながら抜くしかない。
 橋をかける治療は、橋ゲタの歯に、本来の負担の五割増(場合によってはそれ以上)の負担をかけていることになる。そもそも削ってかぶせた歯には金属と歯との境界があり、汚れがつきやすい。だから歯周病になりやすい。いったん治療をして人の手を加えた歯は、天然の歯にくらべてハンディがある。それを一人前に長持ちさせようとするなら、それなりに定期検査や日常の手入れなどに手間をかけなければならない。治療したら歯が悪くなった、と言う人がいるが、これは逆うらみだ。
 この患者さんの場合にも、もっと管理を徹底していたら、抜かずにすんだかもしれない。すくなくとも、もっと長持ちしただろう。
 定期的に検査して管理する、と口で言うのはやさしいが、何十年にもわたって実行するのは大変なことだ。


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1994.12.18 日本の中のドイツ

 信州人は日本の中のドイツ人。
 「信州に上医あり」(南木佳士・岩波新書)の一節である。信州の人間は教養ゆたかで理論的、悪く言えば理屈っぽい。何人かの知人・友人の顔を思い浮かべる。なるほど。思い当たる人が多いような気がする。どういうわけか、よそで生まれて、いま長野に住んでいる人にも当てはまる。
 この本は、農村医療で有名な佐久病院と、その院長・若月俊一氏を描いている。佐久病院は厚生連、つまり農協をバックとした病院である。地域医療と高度な医療を両立させながら急速に発展した。
 学生時代、友人とふたりで佐久病院を訪れたことがある。もう二十年以上も前になる。小諸で信越本線から小海線に乗り換え、臼田町で降りる。田園風景の中、場違いな印象をあたえる大病院であった。当時すでに五百床を超えていたのではないかと思う。
 そのころ、卒業後どうしようかと迷っていた。佐久病院の歯科に大学の先輩がいたので、見学を申し込んだのである。
 先輩に会って、病院内を見学。近くの料亭で「鯉のあらい」をごちそうになったこと、マンションのような独身寮があったこと、国際学会が開催できる大講堂があったこと、などが印象に残っている。
 見学のあと、医局の片隅で話を伺った。
 病院歯科は、とかく売店や理容室のような福利厚生施設みたいに扱われがちだ。病院歯科には一般歯科診療所にはない役割があるはずだ。とはいうものの歯科は採算性が悪いからなあ・・・
 佐久病院の常勤歯科医は当時二名。病院の規模に対して少なすぎる。病院の職員を断っても、患者からの要望には応えきれない。入院患者にはミキサーを買ってもらう。入院中はミキサー食を食べてもらって、やがて元気になったらどこかで治療するように勧める。元気になればいいけどね。来る患者を断らないつもりなら、医師一〇人に対して歯科医師が三人の割りでいないと不可能だ。職員や比較的問題の少ない人は一般の歯科医院にお願いするにしても、病床一〇〇につき常勤歯科医一人はほしい。
 「こんど来るときは、ゆっくりきなよ。あっちこっち観光案内するから。車の免許とったんだ」
 先輩の声に送られて列車に乗った。
 いま、病院の台所はどこもが火の車だと聞く。公的病院の七割、民間病院を含めても半分以上の病院が赤字をだしている。病院歯科で働く仲間には、逆風に負けずにがんばってほしい。


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