北日本新聞「ドクターのひとりごと」1994
北日本新聞夕刊「ドクターのひとりごと」欄に掲載した文章を収録しました。版権は北日本新聞社が所有しております。引用などの際には、掲載日付と出処「北日本新聞」を明記してください。
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1994/04/13 金属床(きんぞくしょう)の入れ歯
今年四月の保険診療報酬改定で、金属床の総入れ歯に、保険が適用されることになった。おもに入れ歯の内側、舌と触れる部分が金属でできている。薄いので違和感が少ないのと、丈夫でこわれにくいという利点がある。このことが、逆に、修理や修正がしにくいという欠点にもなる。むしろ、複雑な形になる部分入れ歯のほうを、丈夫な金属床にしたらいいように思うが、こちらは従来どおり、保険の適用にはならない。
金属床は、コバルト・ニッケル・クロムなどの合金を使い、「ロストワックス法」と呼ばれる精密鋳造技術を用いて作られる。顎の複製模型の上にワックスで原型を作り、鋳型材の中に埋め込んでから、電気炉でワックスを燃やす。こうしてできた空洞が鋳型になる。この合金は千二百度以上でないと融けないので、鋳型や鋳造機械も特別のものを使う。ステンレスの包丁と同じような硬い材質なので、研磨作業にも大変手間がかかる。
さて、金属床はほんとうの保険適用ではなく、「特定療養費制度」の適用である。一部分を保険で給付し、残りは自費で支払う。全額自費の時よりは負担額が少なくなるが、それでも高額な費用がかかることに変わりはない。厚生省は「選択の多様化に対応するために、特定療養費制度の活用を図る」としている。一種の「ぜいたく品」扱いなのである。もしそうだとしたら、国民から広く集めた保険料が、お金に余裕のある人のために、余分に使われることになってしまう。これは社会保障の趣旨にそぐわない。もし、必要不可欠な医療であれば、正式に保険を適用すべきであろう。
どこまでが必要不可欠で、どこからが「ぜいたく」にあたるのか、こんな大切なことが、実は非公開で決められる。患者の意見、医師・歯科医師の意見が反映されるような仕組みにしてもらいたいものだ。
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1994/05/11 保険で良い入れ歯
「保険で良い入れ歯を」との意見書が、多くの地方議会で採択されている。富山県では三六市町村のうち二十、半分をこえている。全国でみても、約四八パーセント、やはり半分くらいの地方議会が採択している。三重県、山口県にいたっては県議会も含めて、県下すべての市町村が採択している。文面はそれぞれに異なるが、共通しているのは、現行の保険での評価額が低すぎることを指摘し、保険で良い入れ歯が作れるよう改善を要求していいることである。
じっさい、上下の総入れ歯を作ると、約二万円の赤字になる状態は異常である。今年の四月、保険の点数(評価額)が改定され、入れ歯の評価が高くなった。これは、地方議会の意見書採択があったおかげだと思う。しかし、赤字を解消するまでにはいたっていない。とくに、問題として取り上げられたのが「総入れ歯」中心だったためか、部分的な入れ歯については、改善の不十分さが目立つ。
入れ歯などを作るはずの技工士が、入れ歯を作らなくなってきて、外注に頼っている歯科医院は困っている。今回の保険の改定で入れ歯を作る気になるかどうか、悲観的にならざるをえない。というのも、彼ら技工士の間では入れ歯離れどころか、離職が増えているからである。富山県内の実際に仕事をしている技工士は、わずかだが増えている。ところが、隣の石川県はやや減少、福井県では激減している。福井県はメガネ産業が盛んなことで有名だが、この業界に流れるらしい。技術が生かせるからである。石川県では彫金関係に流れる、と聞いた。幸か不幸か、富山には彼らにとって転職するに都合のいい産業がないだけなのかもしれない。
せっかくの意見書に水を差すようだが、「良い入れ歯」どころか、保険で入れ歯が作れるかどうか、が危なくなってきているのである。
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1994/06/06 歯がたりない
年に一回か二回、三歳児検診の当番がまわってくる。
「さあ、歯がいくつあるか数えようね」
子供の恐怖心をはぐらかす常套手段である。
「あれれ、一本たりないな。おかあさんのおなかの中に、おいてきちゃったのかな」
乳歯の数がたりないことが、ときどきある。多くの場合は、本来は二本の歯が合わさって一本になっている、「癒合歯」(ゆごうし)と呼ばれるものである。完全に欠如していることはまれだ。ほとんどが下の前歯である。一本にしては歯の幅が大きい。板チョコみたいに、まん中に縦の溝が見える。
癒合歯の発現頻度は、報告者によって違うが、だいたい二パーセントくらい。日本人には多いらしく、欧米での調査結果の二倍から三倍ほどになる。五十人の子供がいれば、一人くらいは癒合歯をもっている勘定になる。ありふれた異常と言っていいだろう。
「たりないよ」と言われても、子供はケロっとしている。が、母親はドキっとするらしい。自分の産んだ子供の身体に、欠陥が指摘されるようなものだから、無理もない。母親の目から涙があふれてきて、なだめるのに苦労したことがある。
癒合歯は一本の歯にしては幅が大きいが、二本ぶんあるわけではない。六、七歳ころに永久歯とはえかわるが、このとき、永久歯が二本でてくる場合と、一本だけの場合がある。二本のことが多いみたいだ。二本でてきたとき、すきまは一本半くらいしかないので、並びきらない。ねじれたり、でこぼこになる。歯並びの治療が必要になることがある。また、癒合歯は根も幅がひろいので、はえかわるとき、抜けにくい。
このように、多少は気をつけなければならないこともあるが、深刻に悩むほどのことはない。むしろ、三歳ころは虫歯ができやすい時期だから、そっちのほうに気を回してほしい。
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1994/06/07 食べない・かまない
先日、三歳児検診のため保健所へ行った折、アンケート結果のパンフレットが目にとまった。気になったところをメモしてきた。 平成二年から三年にかけての一年間に、魚津保健所で三歳児検診を受けた子供を対象にした調査である。
朝ごはんを食べるかどうか、の質問に対して、「食べる」との答えは七九.三パーセント。きちんと食べていない子供が二割くらいいることになる。いまどき、食べる物がないはずはない。食べる時間がないか、食べる気がないか、どちらかだろう。
何年かまえ、「かめない子」が問題になったことがある。食べ物を口にいれたまま、いつまでもモグモグやっていて、なかなか飲み込もうとしない。はなはだしいのは、口の中に食べ物をいれたまま保育園に行ってしまう。「かめない子」が多発する原因のひとつに食欲の欠如が指摘されている。間食が多い、身体を動かす遊びをしない、だから、おなかがすかない。食事の時間だから食卓に向かっているだけ。これでは、どんなに上手に作られた料理もおいしくないにちがいない。
もうひとつ気になったのは、「食事のときテレビを見るか」という項目だ。「見る」子が五五.二パーセントもいる。「見ない」は三六.二パーセントである。ちょうど食事どきに、子供向けの番組が多い。食べながら見てください、と勧めているようなものだ。
テレビがおもしろいと、手も口も止まってしまうにちがいない。気持ちがテレビのほうに行ってしまっていたら、食べ物の味もわからないのではないだろうか。とうぜん、かむ回数も少なくなるであろう。こうやって、かまないことが習慣になってしまう。
「かめない」ことは結果であって、「食べない」「かまない」ことのほうが問題だと思う。また、そのような生活習慣をつくっているのは大人であることにも注意をうながしたい。
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1994/07/06 世界口腔保健年
今年は「世界口腔保健年」である。WHOが、四月七日の設立記念日を「世界保健デー」として、毎年その年にふさわしいテーマを取り上げて世界にむかってアピールする。今年、四六回目のテーマが「口腔保健」であった。
こうなった背景には、日本の「八〇二〇運動」がある。ハチマルニイマルと読む。八〇歳で二〇本以上の歯を残そう、というスローガンである。
二〇本以上の歯があれば、食べるのに不自由しない。ふつうに食事ができる老人は元気である。このような内容の調査結果が発表され、注目されはじめたのが一〇年ほどまえだった。「八〇二〇運動」というかたちで国があと押しするようになったのは三年ほどまえからである。
この運動が国際会議などで注目をあび、WHOの目にとまった。七月には、口腔保健に関する世界会議が、日本で開催される。
以上が、「世界口腔保健年」のいきさつである。
先だって、保健所の保健婦さんたちと話をする機会があった。そのとき、成人の歯の健康において、日本は先進諸国のなかで、優秀なほうか、駄目なほうか、どちらだと思うか、と聞いてみた。全員が日本は劣等生だと答えた。
ところがそうではないのである。以前WHOが行なった大規模な調査のなかで、三〇代後半から四〇代前半にかけての成人のうち歯が一本も無い人の割合が報告されている。それによると、日本はゼロなのに対し、アメリカ一一%、デンマーク一〇%、オーストラリア一三%、ニュージーランドにいたっては三六%。歯が残っている率にかけては、日本はダントツに優秀なのである。日本が優秀なのは、自動車や電子技術ばかりではないのだ。また、これを支えているのが、「世界一安上がりな医療保障制度」と言われる、健康保険制度であることもつけ加えておこう。
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1994/07/25 司法博物館
松本市の郊外に「司法博物館」がある。松本インターチェンジから車で二・三分、となりに「日本浮世絵博物館」がある。浮世絵博物館のほうは超モダンな建物なのに対して、司法博物館は古めかしい。明治期の裁判所の建物を移築したとのことである。
受け付けを見上げるようにして入口の階段を上り、ぎしぎしと音をたてて廊下を歩く。当時の法廷が再現されていて、被告席の付近に立つ。裁判官や書記官の人形がぐるりと囲んで見下ろしている。そのいでたちは、まるで閻魔様だ。これでは、言いたいことの万分の一も口にできなかったことだろう。
訴訟関係の記録はとうぜんとして、江戸時代の捕り物道具の展示や「女工哀史」「ああ野麦峠」で知られる製糸女工関係の展示、木下尚江記念館などもある。奥まったところに襦袢(じゅばん)のコレクションがある。どうも場違いな、といぶかしく思いつつ解説を見ると、むかしから事件の裏には女ありウンヌン、とのことである。こじつけとはいえしゃれている。この和服の下着の名称、ポルトガル語に由来するらしい。
ほんらいの司法関係の展示のなかに、戦争裁判のコーナーがある。ここに、太平洋戦争当時の首相、東条英機氏の「歯型」があるはずだった。A級戦犯として処刑された同氏の歯型を作った歯科医がいて、それが他人の手にわたり、まわりまわって博物館に展示されることになったらしい。が、プライバシーの侵害にあたるとの抗議があって、現在は展示されていない。歯型をのせていた台だけがあった。たいへん几帳面だったという東条氏の歯は、見てみたかった。
人権とのかねあいはともかくとして、歯型は個人の識別にたいへん役にたつ。つい先だっての中華航空機事故の際にも、身元の確認に歯科医が活躍している。自分の歯型を作っておけば、イザというとき役にたつかもしれない。
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1994/08/08 おいしい指
「おいしい指はどれ?」
えへへ・・と笑いながら、親指をそおーっとだす。
「ここの先っぽから、おいしいのがでてくるんだね。甘い?」
「うん」
「先生にもなめさせてよ」
「ヤダよーーーだ」
子供の「指しゃぶり」は、無理にやめさせようとしても、うまくいかない。そればかりか、精神的な抑圧になるという意見もある。すくなくとも、指がおいしいと答える間はやめさせようとしても無駄である。ただ何となく癖でしゃぶっている、自分でもやめようと思っている、そんな時期になってから子供の意志に沿いながら、バンソウコウを貼るとか、手袋をはめるとかの手段を考えたほうがいいようだ。
母親のおなかの中で胎児は指をしゃぶっている。乳児の指しゃぶりは生理的なもので、異常ではない。指しゃぶりは「心の杖」、乳幼児期には必要なもの、とさえ言われる。
問題となるのは幼児期の後半、四ないし五歳以降である。指しゃぶりが長くつづき、程度もきつい場合には、歯や顎の異常を引き起こす。単なる癖のばあいは先に示したような、バンソウコウや手袋が有効だが、心理的な背景があるばあいはむずかしい。
そのようなときの方法を岩倉政城著「口から見た子育て」(大月書店)から引用させて頂く。
1.指をしゃぶることについて、けっして叱らない。 2.指しゃぶりをしている手を、抜きとらない。 3.子どもがやったよい行動は、かならずほめる。 4.一日五回以上子どもをほめたかどうか、母親が自分自身を点検する。
同氏は、富山市在住の作家、岩倉政治氏のご子息であり、現在、東北大学歯学部の助教授をなさっている。この著書は、口や歯の病気と家庭や社会とのかかわりに目を向けたユニークなものだ。豊富な実例を示し、平易に解説している。乳幼児をもつ父母に勧めたい一冊である。
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1994/08/16 オランダの保険
雑誌をめくっていたら、オランダ在住の人が書いている文章が目にとまった。保険制度について書かれている。
それによると、オランダでは、六カ月ごとに歯科医院を訪れて検査を受けることが義務づけられている。この義務を守れば治療を無料で受けることができるが、逆に、怠ると全部自己負担になるとのこと。
もし、このような制度が日本で実施されたら、全額自己負担になってあわてる人が続出するにちがいない。しかし、ほんらいはそれくらい予防を重視すべきだと思う。とくにヨーロッパ諸国では予防や定期検査を重視している、と聞いている。医療保険制度と連動させるかどうかは別にしても、予防については国の事業として行なうのが当然と考えられているようだ。とりわけ子供にたいする医療は手厚い。国境を接する国々にとって、国民を健康に保つことは、国を守ることにつながる。病人だらけの国だったら、やがて地図の上から消えていってしまうだろう。そういうきびしい歴史の背景がある。
日本の保険は、治療についてのみ給付するのが原則になっている。だから、「どこも調子の悪いところはないけど、検査してください」と言って受診すると、これは保険外となる。
治療に限定、といいながらも給付率がじょじょに低くなってきている。かつて、健保本人は無料が原則だった。「高い保険料を払っているけど、万一のときは保険証がある」との安心感があった。やがて、初診料の一部が有料になり、いまは一律一割負担、しかも、一部負担の制度は拡大されつつあり、実質負担は二割をこえているのではなかろうか。保険証のありがたみはだんだん薄れてきている。
日本の保健医療への財政支出は先進国のなかで最低レベルにあり、WHO(世界保健機構)の基準では「低開発国」になると聞く。このあたりから「普通の国」になってほしいものである。
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1994/08/24 土曜日の夜
土曜日の夜、風呂の湯沸器が壊れた。修理は月曜日以降になる。仕方がない、公衆浴場へいくことにする。
いまはやりの「マーフィーの法則」に、「歯が痛みだすのは、おうおうにして土曜の夜である」というのがある。もっとも、このばあい、翌日まで我慢すれば「休日当番医」制度があるので、治療を受けることができる。今年度から、休日の夜間も当番医が待機している。
風呂に話を戻そう。
風呂場で歯を磨く人がいる。ふだん診療室で歯磨きを点検するときは、相手も身構えているから、ほんとうの自然な状態が観察できない。公衆浴場はかっこうの観察の場である。浴槽につかって見渡す。いたいた。
気持ちよさそうに磨いている。手の動きが力強い。カクテルのシェーカーを振るような激しい往復運動。手の動きにつれて、頭も、いや身体ぜんたいがふるえるように動く。口のまわりには歯磨き剤の泡がいっぱいついている。たっぷり歯磨き剤をつけたのであろう。いかにも満足した様子でウガイをする。ブクブクウガイのついでにガラガラウガイ。この間、二・三分であろうか。
歯磨きのやりすぎによる弊害がある。歯の根元がクサビ型に擦り減ってしまう。痛みがでてくることがある。
原因の第一は歯磨き剤のつけすぎ。含まれている研磨剤が歯を削る。最近は研磨剤を減らした製品や研磨剤を含まない製品もある。歯磨き剤は、ほんの小量でいい。使わなくてもいい。ただし使わないと歯が黒ずんでくるのが難点だ。
次いで、力の入れすぎ。往復運動の大きすぎ。爪を押したとき下の肉が白くなる程度の力。ペンを持つような感じで歯ブラシを持ち、一〜二cm程度の細かい往復運動がよい。軽いタッチでゆっくり時間をかける。
しかし、こんなおとなしい歯磨きで、風呂場で歯を磨く人を満足させることができるかどうか、心配である。
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1994/**/** 医者の早食い
「お医者さんって、食べるのが早いんですね」
ある集まりで、医者は早食いが多い、という話になった。学会会場になったホテルで、食事の光景を見た人がおどろいたとのことである。ゆったりした雰囲気のはずのレストランで、立ち食いソバみたいに、次ぎから次ぎに食べ終えていく様子は、たしかに異様に映ったことだろう。
「早飯早糞早算用は商人(あきんど)の心得」、などと言う。食事中に読んでいる人、きたない話ですみません。自営業の人には概して早飯が多いのではないだろうか。医師のばあいは勤務医も早い。歯科医も例外ではない。よく噛んで食べなさい、と患者には言うにちがいない。時間にゆとりがない。時間があっても気持ちにゆとりがない。昼食の時間が十分にとれないこともしばしば。昼休みだからといって、食事と休憩だけに充てられない。会議の予定が入っているときなど、診療が終るなり、オニギリを片手に車で出かけることもある。
「一日三〇種類以上の食品を、一口三〇回噛んでたべよう」
成人病予防のキャッチフレーズである。よく噛んで食べると、消化がよくて太るように思うかもしれないが、逆なのだ。
食べると、血液のなかの血糖値があがる、それを感知して、「そろそろオーケーです」という信号がだされて、食べるのをやめる。ほんらい、腹の皮がつっぱってしまう前に満腹感が発生する。電気コタツやエアコンのように、自動的に制御されていて、食べすぎにならないよう、コントロールされている。
「早食い」すると、「もういいかい・もういいよ」と調節する機能が働くひまがない。その結果、食べすぎになる。だから、よく噛んでゆっくり食べることは肥満の防止になると言われている。
反面教師という言葉がある。ひとのふり見てわがふりなおせ。食事については、医者を反面教師としてほしい。
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1994/09/20 飼犬に噛まれる
「テーブルの上に入れ歯を置いといたら、犬がねえ。まったく、悪いことするんですよ。何を食べてるのかと思ったら、入れ歯じゃないですか。びっくりしたですよ。コラーって言ってしかっても放さないものだから、耳をひっぱって頭たたいて取り上げたんですけど。直るでしょうか。ほんとに困ったもんですわ」
かわいがっている犬なのであろう。悪態をいいながらも、目が笑っている。
飼犬に手を噛まれる、とは言うが、飼犬に入れ歯を噛まれる、とは初耳だ。入れ歯の一部が欠け、歯にかかるバネの部分も曲っている。とりあえず、バネを修正して口の中に入れてみる。
「なんだか、チクチクするところがあります。かむと痛いです」
「とんがったところがあるんですね」
「そうそう、そんな感じです」
入れ歯を外して、もういちど確かめる。へりに歯のあとがついている。さすがに犬は丈夫な歯をしている。感心している場合ではない。欠けたところを継ぎ足し、ぎざぎざになったところを磨く。
「はい、これでいいでしょう」
「ありがとうございます。ほんとにいたずらな犬で・・・」
帰ってから、犬はまた小言を聞かされることだろう。
入れ歯を外していて、誤って踏みつぶしたり、ゴミといっしょに捨ててしまったり、といった失敗はすくなくない。タッパーかコップに入れるように言うのだが、ついついテーブルの上や洗面所の片隅に置いてしまうようだ。
入れ歯を入れる容器が市販されている。洗浄剤に入れ歯を浸しておけるようなしくみになっている。けっこう高価なものである。そこまでしなくても、ましてや入れ歯より高価な容器なんて本末転倒だ、と冷やかな目で見ていたが、やっぱりないよりはあったほうがいいみたいだ。とくに犬を飼っている人には。
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1994/09/26 洋食と入れ歯
「若い者たちは肉が好きでね。ステーキたらゆうものを食べさせてくれるけど、これが食べにくくてね」
八〇歳すぎの老人の弁である。上下総入れ歯でステーキはつらい。ステーキばかりではなく、生野菜のサラダも難しいのではないだろうか。洋食のメニューのなかには、入れ歯の苦手なものが多い。そうはいうものの西洋人も入れ歯をいれているし、むしろ、総入れ歯の人の比率は欧米のほうが高いはずである。
入れ歯を専門に研究している人によれば、和食洋食オールマイティな入れ歯を作るのは難しい、とのことである。和食は、どちらかというと噛みつぶす感じ、それも、噛みつぶされる寸前の歯ごたえが大切なのだという。それに対して洋食は、奥歯で噛むときでも、切り刻む感触に近い。両方に合わせるのは難しい。
あちらを立てればこちらが立たぬ。両方たてれば身がもたぬ。いちばんいいのはほっかむり。と、逃げるわけではないが、すこしばかり言い訳をさせてもらおう。
入れ歯で天然の歯のような歯ざわりを味わおうとすることに、そもそも無理がある。食べ物の大きさや固さを感じとって力の入れぐあいを微妙に調節できるのは、天然の歯があればこそ、入れ歯はしょせん作り物である。
和食で育った日本人は、無意識のうちに和食向きの噛み方をしているにちがいない。剣道の達人とフェンシングの達人が試合をしたら、どっちも手を出しかねてにらみ合ったままだった、という話がある。流儀が違う、しかも入れ歯、とハンディが重なれば勝ち目がない。
幸い、洋食が好きな高齢者は少ない。将来、和洋折衷の食生活で育った世代が歳をとって入れ歯を入れるとき、歯科医はおおいに悩まされることになるだろう。いちばん悩まされるのは本人だ。今のうちから自分の歯を大切にしておいてほしい。
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1994/10/03 気がかわりました
入れ歯ができあがって、さあ入れようという日になってから、「気がかわりました。入れ歯はやめにします。誰か別の患者さんに使ってください。」と言われたことがある。入れ歯はひとつひとつが手作り、他人には合わないし、いちど使った材料は再利用もできない。
「いや、これは他の人に使うわけにはいかないんですよ」
あれこれと説明してみたが、「まあ、こういうこともあるってことですよ」と、逆に説教されてしまった。たしかに、世の中にはいろんなことがある。むりやり口をこじあけて入れ歯を入れるわけにはいかない。こうなると患者の立場のほうが強い。
「誰か別の患者さん」に使えると思ってかどうか、型をとってから入れに来ない人がいる。病気やケガで来れなかった、身内に不幸があった、といった気の毒な場合もあるが、「忘れていて、行きそびれた」という場合が圧倒的に多い。
長いあいだ放っておくと、歯の位置や顎の形が変化して、合わなくなる。もういちど型をとりなおして、あらたに作らなければならない。結果としては、「気がかわりました」と言われたのと同じことである。
作ったけれども入れにこない場合、健康保険では「未装着物」(みそうちゃくぶつ)といって、2カ月くらいたってから所定の費用の一部を保険の支払い機関に請求する。残りは患者から徴収する、とのきまりになっている。しかし、来ない患者から徴収せよ、とは無理がある。事はこれでは終らない。税金の申告をするときには、そのままでは帳尻が合わなくなるので、未収金とか貸し倒れ金とかいう会計処理をする。使い道のない入れ歯は「産業廃棄物」なので、専門の業者に引きとってもらう。もちろん有料である。
損得はともかくとして、せっかくの労苦がむくわれなかった、ないがしろにされた、というむなしさがいちばんこたえる。
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1994/10/12 歯がはえる
「なかなか歯が生えてこないんですけど、大丈夫でしょうか」
歯が生えるのは、目に見える成長の一里塚だから、どの親も気にする。乳歯は生後六カ月くらい、永久歯は六歳くらいから生え始める。ただし、個人差がかなり大きい。もっとも、親が気にするのは乳歯のほう。永久歯ともなると、六年間無事に育って安心してしまうのか、関心がうすれるようだ。六歳臼歯とも呼ばれる第一大臼歯は、奥のほうにでてくるので見えにくいせいもあるが、生えてきたのを知らない親が多い。この歯は永久歯のなかでも一番大きく、もっとも働き者の歯である。
数年前、日本小児歯科学会が歯の生える時期についての大がかりな調査を行なった。というのは、歯が生え始める時期が早くなっているのではないか、生える順番が昔と違ってきているのではないか、との声が臨床医からあがっていたからである。調査の結果は、やはりそのとおり、とでた。
たとえば、永久歯は下顎の六歳臼歯・下顎切歯の順番で生えてくる、と私は教わった。が、いまは、下顎切歯・下顎六歳臼歯の順番で生えるほうが多い。
歯が生え始める時期も早くなっている。しかし、生え終るとでもいうか、全部の永久歯がそろう時期は、逆に遅くなっている。
歯が生えてから一・二年、むし歯になりやすい、抵抗力の弱い時期がある。生えてきてから、表面が丈夫になっていく。これを歯の「成熟」と言っている。ウイスキーを樽に入れて「熟成」させるようなものだ。
さきの調査では、歯が早くに生え始めて、ゆっくりと生え終る、との結果であった。このことは、歯が未成熟な状態にある期間が長くなってきていることを意味している。すなわち、むし歯になりやすい期間が長くなっているのである。
始まりだけでなく、終りにも気を配らなければならない。
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1994/10/26 初任給
歯科大学を卒業して国家試験に合格すると、歯科医籍に登録され、歯科医師免許が交付される。これで、法的には歯科医師として認められたことになるので、すぐに開業してもかまわない。しかし、たいていは大学病院などで研修することになる。卒業したては「研修医」という肩書で入局することになる。この大学研修医の給料が七〜八万円。民間病院でも一五万円以内と聞いている。一般社会でいう「初任給」である。六年間の学業を修了したにしては激安の初任給である。都会の大学や病院だったら、アパート代も払えないのではないだろうか。
研修期間が終ったら「助手」になる。が、狭き門である。定員が定められているので、空きがないとなれない。仕方なく研修医のまま何年も過ごすことになる。たとえ助手になれても薄給である。研修医ほどではないにしても、せいぜい一般の大学卒の初任給くらいではないだろうか。
助手のあとは、講師、助教授、教授となっていくが、これはもう狭き門と言うのもはばかる。門なら、狭くても開いているのだろうが、こちらは十年に一回、二〇年に一回開くか開かないかの扉である。薄給に耐えてきたツワモノたちである。研究生活に生きがいを見いだしている。
大学の役割は教育と研究であるが、大学病院では診療も行なう。大学病院は収支のことは考えずに、高度な先進的医療に取り組んでほしい。が、そうは問屋がおろさない。このばあい、問屋でなく、国であろうか。採算性も厳しくチェックされるようだ。
最近、大学での研究がやりにくくなったと聞く。「行政改革」のあおりで研究費が少なくなっていることと、診療重視のために時間がとれなくなっていることが原因のようだ。未来の医療、将来の国民の健康を考えると、首をかしげたくなる改革の方向である。
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1994/10/19 甘えん坊
「いやだぁ、ジーはいやだ、掃除機いやだ。ワァーーー」
泣くだけでなく、手足をばたつかせて大騒ぎ。歯科ではおなじみの光景である。掃除機というのは、口のなかの唾などを吸い取るための吸引装置のことである。痛くもかゆくもないのだが、音が大きい。これを嫌う子供が多い。
診療室に入る前、待合室にいるうちから大騒ぎだ。いや、家を出るときから騒いでいる。診療所の外から泣き声が近づいてくるのが聞こえることもある。
治療どころではない。治療の練習から始めることになる。最初は歯を調べるだけ、つぎは歯磨きの練習、薬を塗る、機械の歯ブラシで歯磨き、と少しづつ馴れさせる。治療はなかなかはかどらない。最近は、目が弱くなってきたせいか歳のせいか、とても疲れる。つくづく根気と体力の稼業だと思う。定年のないのがつらい。
おなじみの光景、とは言ったが、おなじみでなかった時期もある。二十年余り前、「むし歯の洪水」と言われるほど子供のむし歯が多く、なかなか治療してもらえないため、社会問題になったことがある。その後、子供の歯の状態はだんだんによくなってきた。一時は、ずいぶんよくなって、乳歯の「神経の治療」をしなければならないような、進んだむし歯がめずらしいくらいだった。だから大騒ぎする子供も少なかった。ところが、最近、また状態が悪くなってきているような気がする。「むし歯の洪水」のころの子供たちが、今の親である。なにか因果関係があるのだろうか。
この三・四年、もうひとつ気になっていることがある。甘えん坊が多い。診療しながら、カルテを見ると、思っていた年齢より二歳くらい上のことがしばしばある。態度や言葉が実際の年齢より幼い。親離れ子離れが遅くなっているのだろうか。豊かな時代の二代目からあと、ずっとこの調子だと先が思いやられる。
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1994/11/07 あした、また来てね
保育園の歯科検診にでかけた。子供達は、検診器具を入れてある容器が気になるらしく、そっちにばかり目がいって、なかなか正面を向いてくれない。年少組ともなると、白衣を見ただけでも泣き出す。こんなときは保母さんの出番。
検診が終ったあとは、歯科衛生士の出番。歯磨きの練習だ。
「歯ブラシの持ち方、おぼえていますか」
「はーーい。こんにちわ、と、さよーなら、でーす」
元気のいい返事。春の検診のとき、歯ブラシの毛を手前にする「こんにちわ」の持ち方と、その逆の「さようなら」の持ち方を教えた。半年たっても、ちゃんとおぼえている。鏡とにらめっこしながら、熱心に歯磨きをする子がいるいっぽうで、指導用の特大の歯型に興味津々、何人かがかわりばんこに触っている。
就学前の子供には、歯磨きは難しい。かなりの手や指の器用さが要求される。自分で歯磨きをしても、汚れは落ちていないと思ったほうがいい。だから、この時期には習慣づけに重点を置いている。年長組は就学を控えての「予習」である。歯をきれいにするのは親の仕事だ。
「よる、ねるまえに、おかあさんに歯をみがいてもらおうね」
「はーーい」
「でも、おかーさんねてしまうよ」
「おとうさんでもいいんだよ」
最近では、育児に熱心なお父さんも少なくない。
「おうちのなか、まっくらだもん」
「えー。早く寝てしまうんだ」
「うん」
「じゃ、もっとはやくにみがいてもらおうよ」
帰り支度をしていると、ひとりの園児が走り寄ってきて、何か大声で言って、また走り去っていった。
「あした、また来てね」
ずいぶん気に入られたものだ。もちろん、歯科医の私ではなく、歯科衛生士のほうである。
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1994/11/16 仏像の顔
最近の学会は、難しい実験やら統計の発表が多く、だいぶくたびれてきた頭では、なかなかついていけない。数字がぎっしり並んだ表やグラフのスライド、それをやつぎ早に見せられると、眠くなるよりも目がまわりそうになる。これぞ、と思う発表を聞く場合には、前もって配布される「抄録集」を読んで予習しておかないと、まず理解できない。
だが、ときには何の予備知識なしでも楽しめる発表もある。先日、ある学会で仏像の顔についての発表があった。
鼻のあたまと下顎を結んだ線をEラインと呼んでいる。Eはエステティック、つまり美的なことである。定規を鼻のあたまと下顎の一番前に合わせてみてほしい。唇が定規に触れて少々圧迫されるくらいが、標準的な日本人である。逆に、唇が触れないかまたは先端がかすかに触れる程度は、西洋人的な顔立ちである。
お釈迦様は、インドの人だから、アーリア人の流れをくみ、ヨーロッパの白人とは親戚のようなものだ。西洋人的な顔立ちが本当なのであろう。
面白いことに、飛鳥・奈良時代の仏像は西洋人的な顔立ちが多く、平安時代になると日本人的になる。中学校の歴史の勉強を思い出して頂きたい。聖徳太子が創始したとされる遣隋使・遣唐使が続いていたのが飛鳥・奈良の時代に一致する。そして、平安時代、菅原道真の建議によって遣唐使が廃止され、日本独自の文化「国風文化」が栄える。
平安時代末期から鎌倉時代にかけて、日宋貿易が盛んだった時期には、ふたたび西洋的な顔立ちの仏像が増えるという。仏像の顔は、日本の国際交流と関係があるようだ。国際化とともに、バタくさい顔に人気がでるのかもしれない。最近のタレントの顔を見ていると、ちょっと目には日本人だか欧米人だかわからないこともある。
ためしに、自分の顔に定規を当ててみると・・・やっぱり日本人だなあ・・・
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1994/11/30 歯磨き剤
学童の歯磨き調査はめずらしいものではない。またか、と思いながら、雑誌のページをめくった。
歯磨きの回数は一日三回がいちばん多く、わずかな差で二回、あとはぐっと少なくなって、一回、四回の順。三回と二回を合わせると、約九割になる。ゼロ回はいない。歯磨きの習慣は良好のようだ。
ここまでは、ありふれた調査結果である。その先が面白い。歯磨き剤を使っている子と使っていない子と、どっちがきれいになっているか。なお、使っていない子は二五%、大半は使っている。
歯科医や歯科衛生士ならニヤリとするだろう。結果の予想がつくからだ。歯磨き剤を使っている子のほうが、汚れている。歯磨き剤を使っている子の汚れている割合が約六五%に対して使っていない子は約45%である。こんなデータをそのまま公表すると「歯磨き剤を使うと歯が汚れる」などと受け取られかねない。歯磨き剤の名誉のために付け加えると、同じ条件で歯磨きをした場合、歯磨き剤を使ったほうがきれいになる。これは実験で確かめられている。
問題は、同じ条件でないところにある。歯磨き剤を使わないほうは、使わなくても歯は磨ける、という認識をもったグループであり、ていねいに磨いていることが想像される。逆に、なんとはなしに磨いているグループでは、歯磨き剤を使うと口の中が泡だらけになるのと、香料のせいでスッキリした感じになってしまうために、さっさと切り上げてしまう。洗剤を入れても洗濯機を回さないなら、洗剤を使わないで回したほうが汚れが落ちる。当り前のことだ。
結論。歯磨き剤を使わなくても歯はきれいになる。歯磨き剤を使うと、もっときれいになる可能性もあるが、逆に手抜きになりがちだ。蛇足。歯磨き剤を使うときは、ケチくさく、ほんのちょっとだけ使いましょう。
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1994/12/06 忙しい子供たち
「このつぎ、金曜日はどう?」
「えーーと、だめ。塾だ」
「じゃ土曜日は」
「ピアノ」
受け付けの窓口では、こんなやりとりが多い。ちかごろの子供は忙しい。週に一日か二日しか空いていない子がめずらしくない。教育熱心な富山の県民性であろうか。もっとも、教育熱心でなくて点数熱心なのだ、との声も聞く。
中学生になると、塾や習い事にかわって部活で忙しい子が増えてくる。二〇〇〇年国体に向けて運動部の活動に熱が入っているようで、最近はとみに忙しいみたいだ。
学校保健委員会の席で、治療を受けない子、治療を中断している子のことが問題になることがある。治療カードを渡してもなかなか治療済みのカードが戻ってこない。治療完了の率をクラス別のグラフにしたり、名前を貼り出したり、と、余りに気負いこむのもどうかとは思うが、早めに治療するにこしたことはない。そこで部活について指摘すると、きまって「そんなことはありません、申し出があれば部活を休ませます」との返事が返ってくる。たぶんウソではない。申し出れば、との条件つきではあるが。
先輩やコーチが熱心に練習しているのに、歯の治療のために休みます、とはなかなか言い出せない。建前としては任意だけれども実質的には強制、そんなことは大人の世界では日常茶飯事である。その微妙なところを感じとることができないと、社会からはみ出しかねない。
この子たちは、いまのうちから大人の社会の「しがらみ」を学んでいる。それは、歯の治療が少々遅れることよりも、はるかに教育的価値があるのかもしれない。大人になったとき役に立つにちがいない。
しかし、大人の社会の陰湿な部分を、改善するのではなく増大することになりはしないかと気にかかる。やはり、建前と本音がかけ離れている社会は住みにくい。
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1994/12/21 側弯症と歯
姿勢が悪いと思っていたら背骨が曲っていた。姿勢が悪いから曲ったのか、栄養のアンバランス、あるいは運動不足が原因か、と一時期話題になった学童の側弯症だが、最近は耳にすることが少なくなった。統計をみると、学童の「脊柱および胸郭の異常」とされている分類項目は〇・四%ほどである。
姿勢が原因、というのは分かりやすい。右のほうに凸な曲りかたが多いことは、右手に鉛筆を持って机に向かうときの左肩が下がった姿勢を連想させる。女子に多いのも、熱心に勉強するのは女の子だからかな、と思わせる。
が、そう単純でもなさそうだ。
少々古い資料だが、十年余り前、子供たちの体力・運動能力の総合的なテスト結果は向上しているのに、背筋力が低下していることに警鐘を鳴らした人がいる。側弯症はもとより、疲れやすい、腰が痛いなどと年寄りみたいな症状をもつ子供たちの異常の根本は、背骨を支える筋肉の力、それも瞬発力でなくて持続力の低下にある、という仮説である。(正木健雄「子どもの体力」大月書店・一九七九) 生活環境の変化から、ふだん全身の力を使うことがなくなってきていることが背景にある。
ところで、側弯症と歯の関係を調べた人がいる。ある学会の報告集を見ていたら、学生時代にお世話になったことのある先輩の名前を見つけた。次いでタイトルを見たら、側弯症と歯がテーマだった。
側弯症の子が奥歯で噛みしめるときの力は正常な子より弱い。口のまわりの筋肉が収縮するときの活動度を調べると、左右のアンバランスがみられる。歯並びの悪い子が多い。などの異常が指摘されている。
体力・運動能力が総合的には向上している、というのは実は十数年前の話。近年は低下している。口のまわりの筋肉や関節の異常が多くなっているのも、このあたりに原因があるのかもしれない。
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