都子さんの詩はどのようにして生まれたか
大山友之さんは都子さんの詩が書かれた背景について話されました。
その要点をまとめてみました。(文責=小熊)
都子さんは1978年4月立教大学社会学部社会学科に入学しました。ご存知のように立教大学はキリスト教系の学校です。チャペルの聖職者(チャプレン)の発案で「昼は汗して働き、夜は人生を語る」機会をつくろうと「大夕張ワークキャンプ」が企画されました。都子さんは1年生の時このワークキャンプに応募し、勤労奉仕や地元の催しへの参加など、さびれゆく炭坑の町で夏をすごしました。
学生たちはやがて卒業し、散りぢりになっていきます。いっしょに汗を流し語り合った仲間との交流をつづけるために、都子さんたちは読書会と会報の発行を計画しました。都子さんは、その名称を「結(ゆい)」とすることを提案しました。
都子さんのノートに、「名前を『結』にしようかな・・・と考えた」という文章のあとにつづけて「赤い毛糸にだいだいいろの毛糸を結びたい・・・」と書かれています。
「結(ゆい)」とは、農村につたわる協力共同の仕組です。読書会「結」の主旨を伝えるために、虹色の毛糸に思いを托して書かれたのが「赤い毛糸に‥」の詩でした。
人それぞれの思い、人それぞれの生き方を尊重しあうことで人間の社会が成り立っていく。人と人が心を通わせ手を結んでいくことなしには社会は変わらない。そんな都子さんの生き方を象徴的にあらわす言葉として「赤い毛糸‥」の詩が慰霊碑に刻まれました。
(注):大町の慰霊碑には都子さんがご両親にあてた手紙の一節が、名立の慰霊碑には堤さんが弁護士になったときに抱負あるいは決意を書いた一文が、それぞれ刻まれています。ロビーで展示したパネルのデータ(PDF)に全文が入っています。
<ブラウザの「閉じる」をクリックしてください>