地域雑誌「新川時論21」第20号の紹介


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記事の紹介
巻頭言・ドラマフェスティバルの存続を望む 窪 邦雄(滑川市 演劇評論家)
新川のグルメマル秘情報 <夏季編>(琴更 屁坊)


 ドラマフェスティバルの存続を望む

窪 邦雄(滑川市 演劇評論家)  

 3月24日と25日の2日間、今年で第3回目になるコラーレ(黒部市国際文化センター)主催のドラマフェスティバル第3弾が開かれた。
 参加したのは、創立50年の歴史を持つ劇団から生涯学習講座の「お芝居教室」まで、県内のアマチュア演劇の7グループである。小劇場演劇もあれば民話劇もあり、創作劇に一人芝居と、内容も方法もさまざまだったが、それぞれに楽しく見ることができた。一昨年の第1弾は見落としており、今回が2度目の観劇だったが、昨年に比べても充実したフェスティバルになっていた。
 県内には、年に1、2回の定期公演を持つグループが16、7はあるだろう。町民演劇などを入れると23、4にはなるかもしれない。
 公演はそれぞれのグループが個々の条件にもとづいてするので、時には日時が重なって見落とすこともある。その意味で、こうして2日間の日程でまとまって見ることができるのは、疲れはするものの、見る側からすればありがたい。
 以前富山市民プラザでこのような催しが持たれていたが、その後どうなったのか、最近は話を聞かなくなってしまった。それだけに、コラーレの企画には大きな拍手を贈りたいのである。

削減の対象なぜ文化が先に

 ところがこのフェスティバル、今年が最後だという。これには驚き、かつがっかりした。
 市の財政事情によると聞けば、こちらの口をはさむことではないが、それにしてもこの国では、予算削減となると、どうして直ぐに文化事業に結びつくのだろうか。
 もちろん問題は一黒部市だけではない。上は国から末端の地方自治体、いや民間の企業に至るまで同じである。バブル期に文化々々の大合唱のもと、鳴り物入りで喧伝された企業メセナも今はほとんどその声を聞かない。最近の名門スポーツクラブの解散なども、同じ文脈の中にあると言ってよいだろう。
 いったいに行政が文化と関わるとき、箱モノ、つまりハードつくりに始まり、そこで終わってしまう場合が多い。しかし、新川地区の文化ホールは、入善、黒部、魚津と、いずれもソフトの充実を視野に入れた、先進的なホール活動をしている。とりわけコラーレは、高野悦子さんをかかえているとはいえ、コラーレ名画祭を定着させ、ドラマキッズやキーボードオーケストラなど、子供たちの活動にも力を入れている。地元出身の音楽家のためのリサイタルも、よく開かれているようだ。
 ドラマフェスティバルも、当然そうした動きの中から生まれたものであろう。とすれば、ここはもう一度、文化事業本来のありように戻って、考えなおしてもらえないものだろうか。
 文化はたしかにお金を食うし、しかも後に形として残るものではない。しかし、「米百俵」ーー小泉首相のたとえ、はずれていると思うーー文化にかけるお金こそが、市民にとっての真の「米百俵」である。
 他人様のふんどしで相撲を取るみたいで気が引けるが、黒部市当局の再考をお願いしたいものである。

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新川のグルメマル秘情報 <夏季編>

ウグイスと歌の掛け合いが仕事?

琴更 屁坊


 新川の食を論ずる場合、山菜(やまもん)を抜きにするわけにはいかない。
 フキノトウが終わって、春たけなわともなると、屁坊山人の耳には、ゼンマイやワラビが地面を割って芽吹く「音」が聞こえるのだ。そこで車を駆って林道を「山菜場」へと向かう。
 山がありさえすれば必ず山菜がある、というわけではない。樹木、なかでも戦後壊滅した都市を復興するために、と掛け声をかけて造成された杉林の中には山菜どころか、雑草さえも生えていない。密生した杉の葉が日光を遮って、地面には杉の落ち葉しかない。ではどこへ行けばいいか。
 赤松と雑木の混成林、杉林の伐採跡。とりわけ高電圧の送電線の下の戦後植林した杉が伸び過ぎて、おそらく多額の保証金を電力会社からせしめて伐採、材木は腐るままに放置してある場所が、「ねらいめ」である。
 杉だけという単一樹種の林はその下に日光も通さず、野鳥やクマなどの餌となる木の実も実らせない。それと、たいした意味もないダムによって、河川を横切ることも出来ず、食えなくなった野生動物が人里へ下りてくる。
 そのうえ杉林の困ったことは、杉花粉を撒き散らして、かつて耳にしたこともない「花粉症」という新しい病気を作り出して医者を喜ばせたり、一昨年の大雨で岐阜県の杉の単一林の崩壊で、神通川からの流木が富山湾の西部を埋め、杉林の保水力のなさを実証したことだ。
 ま、ぼやきはそれくらいにして、本論に移ろう。

タラノメ
ーこれが持つビタミンと脂肪

 春たけなわといったある日、屁坊山人は例年の山菜場へと赴いた。が、なんと10センチの残雪。しかし、このまま帰っては山の神に笑われる。そこで、例年のタラノメ林へ赴く。と、5センチほどのタラノメが芽吹いているではないか。軍手(なぜか今でもそう呼ばれる)をはめた手で摘む。帰宅。天プラは最高。タラノメの持つ栄養は最高というが、古稀を過ぎた男には、何のご利益?もありませんでした。

ワラビ
ーこれが持つヌメリの神秘

 山菜、といえば誰でもワラビを挙げるのではないか。屁坊山人は今年、早春から初夏までの期間、山菜を求めて10回以上山へ入った。
 その収穫はというと、タラノメ、ワラビ、ゼンマイ、山ブキ、山ウド、ススダケといったところ。それぞれにグルメとしてのコメントがあるはずだが、冗長はよくない。ワラビに絞ろう。
 ワラビという植物について困ることは、ゼンマイと違って地表に出てくるタイミングが不定、つまりランダムなことなのだ。亡父が言っていたが、「ワラビは、俺たちはゼンマイと違って、ポツポツ出んまいか、と6月いっぱい出る」ということだ。
 それゆえに、ワラビを採りに行った時の袋には出初めの柔らかく太い物から、成長してこわそうな物など、玉石混交とか「老若混交」といった状況になる。ま、それは避けるわけにはいかない。
 ワラビの料理の中で、これが決め手というのを披露する。チト面映ゆいが、荊妻のオリジナルだとは、鼻下長の屁坊山人の意見である。
 まず、ワラビをボウルに入れる。理想的には木炭だが、この頃はそれも無理、スーパーで「重炭酸ソーダ」を買ってそれを振りかける。その量は試行錯誤されたい(0765−72−0807へ電話すると荊妻が出る)。そこへ大量の熱湯を注いで、鍋の蓋をして24時間放置。水洗。5センチに刻む。調味がなんと「さざなみ」という塩コンブ、コンブを細かく刻んで塩をまぶしたものだ。ワラビの持つ香りとヌメリが、堪能できる。
 ものの本によると、ワラビのヌメリは特殊な澱粉で、その根から採った澱粉で作ったノリはワラビノリとして古文書の補修にも用いられているという。
 山菜の採取の場合、忘れてならぬことは、職業として採取するわけではないから決して、むさぼってはならない。
 山へ入ると好奇心の強いウグイスが近づいてきて、盛んにその美声を披露してくれる。それに対して下手でもいい、口笛でホーホケキョと返答してやると、ま、なんちゅう下手くそや、とばかり一段と声を張り上げて模範を示してくれる。
 屁坊山人の場合、山菜採りの半ばはウグイスとの「のど自慢会」で終る。

ワカメ
初夏、押し寄せる海の幸
ー海外から安物が入ってくるが

 古い話だが30年も前のこと、当時新川の海岸のほとんどは自然海岸に近く、現在の人工海岸からは想像もできない。
 当時、初夏の波浪警報の出た翌日など、前夜早目に寝た山人は、早朝に車で竹竿に8番線で作ったカギをつけた物を持って、入善や泊の海岸へ走ったものである。
 目的はいうまでもなく、解禁前の柔らかい天然ワカメが波浪で千切れて岸へ漂着するものを採集することにある。
 北陸の波の高い日は、気温が低い。海水温はいうまでもなく低い。しかし、ここで逡巡するのは真の新川人とはいえない。一旦浜へ降りたら、長靴などあっても役には立たない。目(まなこ)は、押しては返す波間に見え隠れするワカメが標的だ。
 ワカメを求めて浜へ来たのは、男ばかりではない。数は多くはないが、老若男女といっていい。勢い競争となる。見目麗しき乙女もいる。それが、おそらくヘソまでも海に浸けてワカメを求める姿は圧巻である。
 昔の唱歌に「五月雨のそそぐ山田に 早乙女が裳裾濡らして」という部分があったと記憶するが、とにかく、こういう場面の女性の奮闘ぶりというものは男はかなわない。これは節分の豆まきや、涅槃会のダンゴまきの女性方のありさまを考えればいい。
 この光景を、屁坊山人が常々尊敬する国語学者に語ったら「あの娘のマメは冷えてコリコリしてるだろうな」と答えて、山人をいたく失望させた記憶がある。
 現在、こういった光景は見られない。それは中国や韓国から安いワカメが輸入されるのが原因といえる。しかし、それらは一旦ゆでて、乾燥するなり、塩をまぶしたものだ。
 山人によれば、熱処理したワカメは(酵素が)死んだワカメである、という。では屁坊氏はどのように保存するのか。その秘伝を披露する。
 これも荊妻の発明であるが、ワカメの「葉」を軸から外して、多めの食塩で揉む。すると大量のアクが水と一緒に流れ出す。それを一晩ザルで水を切り、3百グラムずつに分けて、冷凍。解凍すると塩抜き、そのまま刻んで酢の物、みそ汁などにする。海の香りがそのまま味わえる。メカブはそれなりに旬の筍などと煮れば最高。

岩ガキ
ー漁業権が厳しい

 山人たちは、いわゆるガキの頃から夏ともなれば、梅干しを入れたオニギリをいくつかと、タガネ、水中メガネを持って海水浴に行った。
 海底は砂場もあるが、漬物石ぐらいの石が集まった「ガキガイ場」と称する場所がある。素もぐりで岩ガキがいくつか着生している手ごろな石を抱えて、岸に向かって海底を歩く。途中石を置いて浮上、息継ぎをしてまた潜る。岸に上がるとタガネで岩ガキを外して、生で食べたり、焼いて食べたりして、一日を浜で過ごしたものである。
 黒部川扇状地の海岸には清冽な伏流水が噴出して、海底は「汽水」となっていて、そこで育つカキの味は絶品である。
 かつて洗足学園短大の田島一郎学長、池田弥三郎教授と、桜井高校の数学科連中が飲んだ時、「富山のカキはRのつかない月が旬なんだ」と池田教授が息まいていたのを思い出す。その岩ガキもお盆を過ぎると産卵がはじまって味が落ちる。6月7月が旬と見ていい。
 この頃は、例の離岸堤にそれこそビッシリと着生している。昨年までは、年に数回は素もぐりで収穫、腹いっぱい食えたが、昨年の8月ごろから、漁業権を主張する立て札が立ち、難しいことになった。
 ガキの頃から親しんでいる岩ガキについて、山人らの漁業権は認められないのは心外である。
 時論関係では同人の「さ」氏が来て、「少し」採取、山人の庭で焼いたり、生で食べたり、と腹いっぱいとなったが、いわく「こんな旨い目に会ったことはない」と。
 あの岩ガキを幻の味、思い出の味にはしたくないものではある。

ホタルイカ
ー龍宮からのおいしい「使者」

 5月に入って、晴れた暖かい日が続いたあと、漁師がいう「下り嵐」という西よりの弱い風が吹く夜、ホタルイカの大群が産卵のためか、海岸(とはいっても、汚染度が低い海岸)へ押し寄せる。いわゆるホタルイカの「身投げ」である。
 これが全くない年もあるが、こういった「うまい日」に遭うには、根気よく早朝の浜へ通う必要がある。棚の下にボンヤリと立っていてもボタ餅は落ちてはこない。
 用意する物は、タモ網、バケツ2個以上、空きビンに醤油を半分入れたもの(これは生きの良いイカを沖漬けにするためのもの)。目指す浜は砂浜でない海岸、とだけ言っておく。砂を噛んだホタルイカは食えない。
 流れ藻の上で動かないものでも素手でつかむと、鮮度が分かる。岸の岩の空洞に手を突っ込むと、生きのいい奴がチクリと噛み付く。朝日の中でよく見ると、一人前に墨を吹いているものもいて笑わせる。生きのいいものと、そうでないものをバケツを別に捕る。
 この5月は2日続けて5キログラムずつ捕った。帰宅、冷えた身体は温水シャワー、その間、荊妻は生きのいいものをサシミにつくる。また大量のお湯を沸かして、茹でる。茹でたものはスーパーで買うものとは違って、甘味がある、と評判がいい。縁者に配布。余ったものは日光で干して佃煮が最高。
 かくして、このところ毎朝4時から起き出して、走り回っている。このほかに50坪の畑もあるのだ。
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