地域雑誌「新川時論21」第18号の紹介


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記事の紹介
巻頭言・5年目の「新川時論21」(小熊清史)
コンビニのレジから見た未来(琴更 屁坊)
「毛勝山山名考」<補遺>(佐伯邦夫)


5年目の「新川時論21」    
    幕を引くか、舞台を回すか
小熊清史  

 5年という節目を機会に幕を引くか、舞台を回すか……と前号の編集後記に書いたら、お鉢がまわってきました。以下は私見です。同人の総意でもなければ、大勢でもありません。
 「辛口の地域評論誌」を高らかに標榜して事は始まりました。思えば重たい旗を掲げたものです。かすかな風もずっしりコタエます。
 ちっとも辛口じゃない、もっと批判精神を発揮せよ、という批判をたびたびいただいています。いっぽうでは、批判だけでいいのか、対案(オルタネート)を示せ、という批判も繰り返しいただいております。そのたびに重たい旗をうらめしく見上げます。
 悪口雑言を浴びせるだけの批判なら、口達者で根性が座っていれば、簡単にできるかもしれません。しかし、事実にもとづいて根拠ある批判をしようとすると、とたんに難しくなります。情報公開の時代とはいえ、材料はなかなか手に入らず、各号に1本、それらしい記事を掲載するのがやっとです。
 対案を示せ。できるものならやってみろ……情報を独占ないし優占する立場からの挑発的な批判は、国政から日常的な身の回りまで広く分布しています。
 対案を提示して論争できるなら、それにこしたことはありません。しかし、情報が共有されているという前提条件が必要です。
 大切なのは情報の公開ではないですか? 賛成にしろ反対にしろ、はたまた対案や提言にしても、情報公開・透明性の徹底なくしてはありえません。お上の言うことだから、エライ人の言うことだから、と無批判に受け入れられていることがあまりに多すぎます。
 本誌は「同人」によって発行されています。企画・取材・執筆・編集・校正・配布・集金・宣伝…とぎれることなく続く作業が「発行」の中身です。鬱屈への口封じには、「同人」は便利な名称ではあります。好き者が集まって道楽をしている、書きたい者が書きたいことを書いている、だから当然だ、と。嫌いじゃできないのは確かですが…。
 「同人」は閉鎖的な響きを持っています。
 それに逆らって、開かれた雑誌にしたい、と思いつづけてきました。掲載記事をふりかえると、4分の1から3分の1が同人外からの寄稿(読者欄は含まず)です。これを逆転させたい。書き手から書かせ手になろうと努めてきました。しかし、紙の上に文字を並べていくことは苦痛を伴うのが普通です。喜びを見出すのはアブナイ人じゃないかな?
 書いてくれと求めることは、時と場合によっては開き直りにもなります。言葉にもならない思いを引き出し、それを書きとめていこうという「聞き手」の姿勢に欠けていたと反省しています。
 以下は夢。
 XX年後、富山県東部。地域に根ざした情報を発信するNPOがある。インターネットを中心に、扱うメディアは幅広い。取材ボランティアや編集ボランティアなどが、手分けして作業している。彼らの間に伝説がある。大正と平成の時代に「新川時論」という地域雑誌があったそうな……

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21世紀 この日本はどこへ行く?

―コンビニのレジから見た未来―

琴更 屁坊

この夏の初め、知り合いのコンビニエンス・ストアの経営者(とはいっても実は開店の経費の一部を負担して、オーナーと呼ばれている)に頼まれて、土曜、日曜と火曜の週3日、朝6時から13時までつまりパートのおばさんの確保の最も難しい時間帯のいわゆる店番をすることとなった。
主としてレジ係りだが、時に弁当、おにぎり、すし、料理パン、雑誌、乳製飲料などの検収(検品と収納)と期限切れに近い商品の廃棄などもする、なかなかにハードな仕事である。
これで時給600円とは、円の価値は相当に高いのだ。ゆめゆめ浪費してはならない。
かつての月給取り仕事とは違って、なかなかに変化があり、いろいろな職業の人たちとの交流もあって、毎日が新鮮で楽しかった。
しかし、強めの冷房と、立ち仕事がたたって、久しく息をひそめていた持病の「アルファベットの7番目の病気」が出て来て、2ヶ月で心ならずも撤退を余儀なくされた。
が、それはそれとして、この間に垣間見た「新しい世の中」は驚きに満ちていて、世の中、今後どう展開するのか。それが良いとか悪いとかは別として、受け止めた事実を多少のコメントを付け加えて箇条書きにしてみたい。

大震災も3党連立も天罰

まずエレクトロニクスというか、いま流行のITがコンビニという消費の最先端でいかに活躍しているかに驚かされる。
フランチャイズの本部と出先の店とは24時間、数本の電話回線で結ばれている。それらは店内に流れる音楽、テレビゲームの宣伝の映像、レジスター2台、商品の検収、廃棄をバーコードで記録したリモコン機のデータを送る本機2台。その他に、プロ野球や歌手、グループサウンズの地方公演などの前売券の発券機などなどである。本部では時々刻々と把握できるわけだ。NTTなどの情報会社の株価が天文学的なのも納得できる。
「捨てる文化」というべきか、廃棄物の量と質も驚異である。
特に、1日に4回金沢から配達され検収される弁当、料理パン、おにぎりといった期限が時刻で表示されるファーストフードを廃棄する作業は、戦中戦後米ヌカ入り団子やサツマイモのツルを「主食」としていた人種としてはまことに、まことにつらく、我と我が身を切り刻むような痛みを感じる。
菓子パンや食パンは、当日の日付のものは廃棄。世界の人口の三分の一から半分は飢えているというのに。こういった日本人に天罰が下らぬとするなら、世の中神も仏も無い。
もっとも、阪神淡路大震災に続く一連の災害はその現れかもしれない。それよりも神仏は、3党連立政府の形で出現して悪政という罰を下している最中かもしれない。
廃棄作業といっても、エッチな写真誌や雑誌などは気分が軽くなる。(「やはり年だね」という不埒な声が聞こえるよ)
「おはようございます。いらっしゃいませ」「ありがとうございます。弁当はレンジいたしましょうか。はい、わかりました。○○円になります。2千円お預かりいたしました。○○円のお返し。ありがとうございました。またよろしくお願いいたします」などと口と体に休みがないのが10時半から12時半。
とにかく、時間の経過するのが意識されない。これで時給600円。お金ってまことに貴重なものなんだ。
若いお客は男女を問わずほとんど口を利かない。だんまりがナウいと思っているんだろうか。

良い客悪い客

土曜日の朝必ず立ち寄る、中古車を陸送するトレーラーの運転手と親しくなった。
埼玉県の人で、大手の運送会社を定年になってからのんびりと週1回小遣い稼ぎをしているという。大型トレーラーの運転手ならばさぞ荒くれたと思いがちだが、なるほどこうした温厚な人柄であればこそ長年無事故で勤まったのだなと思われる。
早朝のひまな時間帯で、途中の道路状態や時には孫の話までしてくれた。
困ったお客は、トイレだけに用事のある人。2時間も3時間も本や雑誌を立ち読みしてそのまま出ていくお客。何も買わずに店内をウロウロする小中高校生である。
一応は死角なしのビデオに収録はされているのだが…。
また、1部500円と高い競輪新聞をじっくり読んで買わずに帰る人、などなど人間いろいろである。
毎日曜日午前8時過ぎに、子ども連れで弁当、料理パン、菓子パン、ジュースといった朝食一式を買う若い奥さんが何人かおられる。
いまどきのコメは精米技術が進歩しているから昔のようにゴシゴシととぐ必要がない。水を入れてスイッチポンでうまいメシが炊けるはず。しかもお金はそんなにかからない。
歐米人に比べて腸の長い日本人は日本食を続けないと大腸ガンになるという説がある。この日本はどこへ行く?

道徳の規制緩和進む

「明日、田植えなのでお昼に弁当とオニギリを○○個ずつ用意して」という電話はまだ我慢できるとして、「明日、田植えなので菓子パンを○○個用意して」は我慢するには抵抗がある。
これではコメ余りを農民自身が助長しているのではないか。この日本はどこへ行く?
極め付けは次の事実に凝縮されている。
ある日曜日、レジで中学2年生ぐらいの女子生徒の買い物を打ち込んでお金をもらった。ひとしきり客足が途絶えたときに、隣りのレジのおばさんがいわく「琴更さん、いまの中学生が買った灰色の箱、何か分かった?」「さあ、チョコレートかなんかだろ」「あんた遅れているなあ。あれはコンドームなんですよ」。――さすがの小生も仰天「マ、マ、まさか。ソ、ソ、そんなもの売っとるがあ。買っていったのは中学生やぜ」「イボイボ付いたがとか、3種類ほどあるよ。本当にあんたって遅れとるなあ」
まったく恐れ入谷の鬼子母神、ぼんやりしていると化石扱いされて、藤村某氏に70万年前の地層に埋められそうだ。
日本には、キリスト教やイスラム教のような一神教の持つ禁忌や戒律がない。あるのはお祭り神道、お払い神道、葬式仏教、観光仏教。日本ほど道徳的に「規制緩和」の進んだ国はない。
そこで、改めて問う。21世紀、この日本はどこへ行く――――?と。
ことさら・へぼう=1929年、入善町生まれ。元富山県公立学校教員)

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「毛勝山山名考」<補遺>

「谷」の地域(片貝)に混じる「沢」(信州名)

佐伯 邦夫


 毛勝山は、山体正面の「ケカチ谷」からとった名。ケカチ谷は、その下の「アブキ谷」にまとまり、東又谷を経て片貝川となる。
 「ケカチ谷」は、年中雪の消えない谷のこと。「アブキ谷」は、峡谷の側壁が水流でエグられて、庇状をなしている(所のある)谷の意。ともに長野県北部の小谷(おたり)村や新潟県西頚城あたりの方言という。
 ではなぜ、親不知の天下の険を越えて、それが、越中奥山に入り込んでくることになったのか。これについて前号では、戦国末期、越後落人がややまとまって当流域奥地に移り住んだことを述べた。
 片貝谷は、山険しく、耕作出来る所が極めて限られている。生業を山に求めるしかなく、しかも、遅れて来た者にとっては、すでにいた者の生活圏の外にそれを求めるしかなく、さらに山深く入り込んでいったと想像される。
 在来の名称があっても、それを駆逐して、彼らの名称が行なわれていくほどに深く奥山とかかわることになったのでは。

「沢」は信州以東

 さて、今回ここに補うのは谷川を「沢」と呼ぶこと。本来越中にはその習慣がなかったのだが、片貝源流には「大明神沢」など、いくつか「沢」という呼称が混じることについて。越後入植者の活動を裏づける一材料としてー。
 山岳雑誌『山と渓谷』の2000年10・11月号で、遠藤甲太氏が、主として黒部川を例にこの「谷」、「沢」の問題について考証を展開している。それに動かされて本稿を起こすことになる。
 山の谷川を「○○谷」といったり「○○沢」と呼んだりされるが、西日本は「谷」で東日本が「沢」。その境界線がなんと富山と長野の境という。で古くから一般に信州では「沢」越中では「谷」というふうに覚えられてきた。
 この境界線は親不知あたりにはじまり、ぼけたり、ゆれたりしつつ、ほぼフォッサマグナにそいつつ南へ走る。境界線に極めて近い位置にある黒部川では両者が混在。特に峡谷中流部に「沢」がたくさんあるのは、信州人が後立山を越えてかなり出入りしていたことを物語る。だから信州人がほとんど入らなかった下流部(宇奈月〜欅平あたり)には「沢」はなく、「森石沢」が例外的にあるのみ。
 さて、信州人の侵入がほとんど考えられない早月川の場合はどうか。こまかい地名までつぶさに調べても「沢」は一つもないのは見事。

片貝にある「沢」

 同様に信州と全く境を接しないのが片貝。ここも基本的には「谷」。しかし、国土地理院の地形図からは「小沢」と「大明神沢」をひろうことができる。
 小沢は南又谷の入口にある。南又谷の最も大きな支流(しかるに小沢とは?本流を大沢と見ての名?)。大明神山の西面を形成する。
 もう一つの大明神沢は阿部木谷の源流。毛勝山頂上へつき上げる毛勝谷と対をなす。大明神山北面を形成。急峻な谷で、夏、秋も下部に多量の残雪が堆積する。藩政時代の古図にも見える古い名。
 「ケカチ」「アブキ」はセットのものと前号から述べてきたが、「大明神沢」また、これらと同根と言うべきだろう。そしてその背後に、先に述べた越後落人の影が色濃くにじんでいるように思われる。
 なお「阿部木谷」は「アブキ沢」とも呼ばれていたふしがある。というのは本誌15(2000年盛夏号)で紹介した毛勝山の「点の記」(三角点埋没記録・明治40年)に、同点への経路として「青木沢」の名をあげている。アブキをアオキと聞き違えたものと思われる。

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