地域雑誌「新川時論21」第15号の紹介


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記事の紹介
成年後見制度と介護保険
東京通信(10)「超」保守からの体制批判
三セク事始め



「新しい成年後見制度と介護保険」
中田哲二(司法書士)

同時スタートの介護保険と成年後見

 4月、いよいよ介護保険がスタートする。成年後見制度が、介護保険の付け足しのような報道が多い。しかし、成年後見制度が介護保険となぜ同時スタートしなければならなかったのか、あまり論じられていないようだ。ここでは、民法改正などで成立した成年後見制度の概要を確認し、介護保険と成年後見の密接な関係を捕らえたい。併せて若干の介護保険の問題点も指摘してみたい。

新しい法定後見と任意後見

 民法は、これまで禁治産、準禁治産そして未成年者を無能力者として保護の対象としてきた。今回の改正は、これまでの禁治産は後見、準禁治産はおおむね保佐とし、新たに補助の制度を新設した。「精神上の障害により事理を弁識する能力を欠く常況にある人」が被後見人、「精神上の障害により事理を弁識する能力が著しく不十分な人」が、被保佐人である。また、「精神上の障害により事理を弁識する能力が不十分な人」が被補助人である。そしてそれぞれに後見人、保佐人、補助人が付される。以上三制度が民法が定めた法定後見の制度である。一定範囲の親族や市区町村長などの家庭裁判所への申立に基づき選任される。
 「任意後見契約に関する法律」も同時スタートした。痴呆などになる前の契約の締結能力があるうちに、前もって契約で、自己の生活、療養看護及び財産の管理に関する事務などを委託する契約を締結することができる制度である。委託者が、補助の制度と同程度である「精神上の障害により事理を弁識する能力が不十分な状態」となり、関係者の家庭裁判所への申立により、任意後見監督人が選任されると、任意後見が開始する。

制度の概要

 後見制度は、これまでの禁治産の制度と大きな変更はなく、後見人には全面的な財産の管理権、代理権があり、被後見人が行った行為の取消権、追認権がある。これまでと違うところは、日用品の購入その他日常生活に関する行為は後見人の取消権の対象外となったこと。後見人が本人の居住建物等を処分には、特別に家庭裁判所の許可が必要になったことなどである。
 保佐人の制度は、準禁治産の制度に比べいくつもの点で内容を変更している。主なことを列挙すれば、被保佐人の制限される行為に「遺産の分割」を加え、「不動産又は重要なる動産」を「不動産その他重要なる財産」の取得や処分と変更し、その補佐人の権限の範囲を若干広げた。また保佐人に取消権を明示し、本人の同意などにより、代理権を付与することを可能とした。また、浪費者を保佐の制度からはずした。
 新設された補助の制度は、「保佐」のように「著しく」ではないが、より軽度の能力の減退した人にも、制度を拡張する新たな制度である。「保佐」以上に特定の法律行為に限定し同意権・取消権、代理権の一方または双方を付与する。
 保佐人への代理権の付与や「補助」の申立は、本人自身が行う。本人以外の申立の場合は、必ず本人の同意が必要となる。意思能力を全く欠く状態ではない本人が、手続きの中に参加することを保障し、本人自身の意思を反映させて、自己決定権を尊重する。
 少子高齢社会は、高齢者のみの世帯、独り暮らし高齢者、身寄りのないあるいは少ない高齢者の増加を抑えることは困難である。しかし一方、若年層よりは高齢者のほうが、一般的には蓄えが豊かであることが多い。このような人々が、任意後見制度を利用することになるのではと予想される。ボランテアの任意後見人を探すことは難しいからであろう。任意後見人とのまさに「契約」により、能力がなくなったり、減退した後の自らの財産管理や、身上監護を任意後見人に委託し、その報酬を支払う。これが任意後見契約である。この契約は、公正証書で締結しなければならない。任意後見人の権限は、全てこの契約により定める。病状の進行が予想される精神障害者や知的障害者も、この制度の利用が考えられる。
 自らのことは自ら決める「自己決定」が売りだが、将来の自ら置かれる事態を予想することは、極めて困難なことである。任意後見人に付与する権限は、いきおい概括的、包括的とならざるを得ないだろう。

戸籍の記載はなくなった

 これまでの禁治産者や準禁治産者の制度は、その宣告を本人の戸籍に記載していた。プライバシーの保護に欠けると批判されていたところである。そこで「後見登記等に関する法律」を作り、戸籍への記載を廃止し、後見登記を新しい公示制度とした。法定後見、任意後見いずれも「登記」という手法をとることとなった。後見人やその権限などは、登記事項証明書として開示されるが、これを請求することができるのは、本人の極めて限られた親族や後見人などに限定される。
 確かに、従来の禁治産、準禁治産の制度は、本人の判断能力の多様性に対応する点や名称の差別的イメージ、戸籍に記載されプライバシーが侵害されかねないなど、利用することに躊躇せざるを得ない面があった。その点では、新しい成年後見制度は、多様な状態にある痴呆性高齢者、知的障害者または精神障害者には、以前よりは相当利用しやすいであろう。

同時スタートの理由
 
 しかし、成年後見制度がこの4月、なぜ介護保険と同時スタートなのか。成年後見制度の説明が長くなり過ぎたが、ここからが本論である。それは、介護保険制度の導入により、人の生存権、国の生存権保障義務(憲法25条)の内実に関わる日本の社会保障制度が、大きく変質するからである。高齢者を社会全体で支えるとする「介護の社会化」というカモフラージュのもと、高齢者介護の一定の負担を40歳以上の人全員(保険料)と要介護者(保険料と一割負担)に負わせ。多様なサービスの需要に応えるための「措置から契約へ」のスローガンのもと、一般的 に能力が減退せざるを得ない高齢者に、「自己責任の原理」を持ち込み、これからいっそう肥大化するであろう「介護市場」の中に、要介護高齢者を放り込んだのである。「契約」なければサービスなし、まず介護サービス提供「契約」ありき、この「契約」が無ければ介護サービスは始まらないのである。
 確かに、従来の禁治産、準禁治産の制度は、本人の判断能力の多様性に対応する点や名称の差別的イメージ、戸籍に記載されプライバシーが侵害されかねないなど、利用することに躊躇せざるを得ない面があった。その点では、新しい成年後見制度は、多様な状態にある痴呆性高齢者、知的障害者または精神障害者には、以前よりは相当利用しやすいであろう。 四兆数千億ともいわれる介護サービス市場の有望性が喧伝され、介護サービス業者の登録も急ピッチで進められていると報道されている。その中で、介護サービスの提供の前提として、サービス業者との「契約」が必要となる。一定程度以上に意思能力が減退した高齢者は、成年後見人、保佐人、補助人、任意後見人がいないことには、契約を締結することができず、介護保険サービスを受けることが不可能となる。これが同時スタートの理由である。

欠陥が指摘される介護保険

 しかし、問題は介護保険制度の方ではなかろうか。
超高齢社会の到来が必至であることが解っていながら、高齢者介護を税でまかなうことが、「介護の社会化」に反するとは、詭弁にすぎない。
逆に、内容が豊富で、国民の多様な需要に応えられる質の高い介護サービスの制度を、税でもって構築することこそ、憲法が政府に求める崇高な政治的課題である。権利であるべき人々の生存権を、それを保障すべき国家の義務を、何を勘違いして「措置」として、国家からの「恩恵」のごとく誤解させるのか。日本の社会保障制度の貧困は、この「国家の恩恵」的思考に大きな原因がありはしないか。そこからは豊かな福祉国家の理想像はまるっきり見えない。そのような考えが、たとえばバブルに踊った銀行に国家財政を数十兆円も流し込み、同様にバブル時代を謳歌したゼネコンのため、不必要な「公共投資」を垂れ流すなど、不適切な財政運営の「つけ」を、社会保障制度の後退で賄わせる結果となるのある。

 いずれにしても残念ながら、高齢者介護の制度は、介護保険制度の導入によって、「規制緩和」「自己決定、自己責任」「市場主義の原理」へとそのシフトを大きく変更してしまった。
 スタートした介護保険制度には、その本質的矛盾以外に、多くの問題点が指摘されている。介護サービスの質と量の問題。高齢者本人の負担増の問題。市場化されるとしても、社会福祉としての高齢者介護サービスは、基本的人権である、この権利侵害を救済する不服申し立ての制度や十分な監視機関はあるのか。介護認定の調査を委託されたり介護サービスの内容の決定に深く関わるケアマネジャーには、公正性と中立性が強く求められるが、なんとこのケアマネジャーがサービス業者に所属するという問題。地域間隔差の問題。公平、公正な制度運営の問題。などなど。このほかにも様々なことが指摘されている。

成年後見制度は、定着するか

 新しい成年後見の制度は、今後どのように利用され運用されていくのであろうか。問題点山積みの介護保険のソフトランディングのみに悪用されるなら、せっかくの成年後見制度の信用は、失墜しかねない。基本的人権の擁護のための社会保障制度、そのなかに、内容が豊かで質の高い高齢者の介護や医療の制度を構築しなければなるまい。成年後見人には、本人自身の権利擁護に万全を帰することは勿論、むしろ介護の極端な市場主義化に抗し、制度改善に力を尽くすことこそが期待されよう。しかしながら現在、そのような主張や運動などは、非常に鈍いようである。むしろ皆無に近くはないか。このままでは、新しい成年後見制度も、高齢者介護の急激な市場化の大渦に、完全に飲み込まれてしまいかねないと危惧する。

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「超」保守からの体制批判
東京都の外形標準課税の導入
北 海人

 「我が意を得たり」

 2月7日に石原都知事が発表した大銀行への外形標準課税の導入は、庶民の圧倒的な支持を得ている。1か月足らずの間に、全国から「我が意を得たり」と言う反響がE-メールなどで2000件を超えて都庁に寄せられている。2000件というのはおそらく都政史上初めての反響である。
 「バブル発生の責任を取らず、巨額の公的資金を受けながら、中小企業には貸し渋りを行い、預金金利をゼロにして高齢者の生活設計を狂わせてた銀行の責任は重い。課税は当然。」と東京都の発表をきっかけに銀行への批判の声は澎湃として起きている。
 外形標準課税とは、企業の従業員給与とか工場面積とかの「外形」を課税標準とするものであり、所得(利益)を課税標準とするよりは景気に左右されないという性質を持つ税である。地方自治体の安定的財源として戦後一貫して議論されて来たものであり、つい昨年も、さんざん検討しておきながら「景気の現況」から政府税調が実施を先送りしたばかりの税である。「考え方」はすでにあったものであるが、画期的なことは「敢然」と導入を決断したところにある。対象を大銀行に限定したことは極めて戦略的判断であり、政府の銀行への際限ない公的資金の投入に対する強烈なアンチテーゼとして国民には映った。地方税法上も合法的な税であり、これに日頃の銀行への恨みつらみも加わって大喝采をあびている。
 都議会のほとんどの会派の賛成に加え、都の決断に「相談がなかった」と不快感を露わにした越智金融監督庁長官その人が、金融業者に「公的資金はいくらでも出す、監督には手心も加える」とサービス発言し辞任するおまけまでついて、「小骨一本抜かない」で実現する予定となっている。

失われた10年

 日本の90年代は「Missing Ten」(失われた10年)とも呼ばれている。 バブル崩壊後為すべき決断を怠り無為に過ぎた10年の間に、経済システムは崩壊の危機に瀕し生産活動は疲弊した。政治と官僚組織は保身の腐臭を放ち、社会全体に閉塞感が充満した。教育の荒廃やカルト集団の猖獗はこうした社会状況を温床としている。地方自治体も同様である。鈴木知事の後半にバブルは崩壊したが、貯金を取り崩しながら既定の開発路線を突っ走った。青島知事は危機に対して都市博中止以外の何の決断もしなかったにもかかわらず「為すべきことは全て為した」と強弁と自己満足を残して都政を放り出した。大阪で開発路線の破綻後を引き継いだノック知事が、見るべきことをしない内にセクハラで席を追われたのも同様の流れである。地方自治もまた「Missing Ten」であったのである。
 この中での勇断であり、政府と財界への挑戦である。世間の注目を集めないわけはない。マスコミはこぞって石原新税と持ち上げ、貸し渋りやゼロ金利に泣かされた庶民はまるで現代の英雄を見つめるように歓迎している。
 石原知事は、この他にも、矢継ぎ早に「ディーゼル車NO作戦」、都心への車の乗り入れ規制等の環境対策や「心の東京革命」等の教育改革を発表し、審議会などのまだるっこい手続きを経ずトップダウンで決断と方向性を示してきている。この結果、マスコミへの露出度は抜群であり、実行力を強く印象づけている。一方には「ポピュリズム」(大衆迎合)であるとか「独断専横」であるとかの批判もあるが、バブルに踊った鈴木知事や世界都市博中止以外は何もしなかった青島知事、そして自自公の圧倒的な多数の上に乗っているだけで何の理念も見えない小渕首相に比べ、決断と実行力、アピール度において格段の違いを見せている。

体制批判は左翼の専売か

 注目すべきことは、石原知事の政策と手法が、かつての美濃部都政のそれに極めて似ていることである。課税自主権の行使、環境政策、政府に対する挑発的姿勢などは、いずれも30年前の革新都政の政策と手法である。周知のように外形標準課税もディーゼル車規制も都庁内部に蓄えられた知恵であった。これを取り上げ、政府や銀行、運輸業界の反対を予想しつつも決断したのは石原知事である。
 考えなければならぬのは、体制批判は何も左翼の専売では無いことだ。歴史を思い起こせば、社会の閉塞状況では「右」からも体制批判は行われる。二二六事件やナチスの登場との比較は大げさにしても、現在の救いがたいまでの体制の危機が、もはや「右」とか「左」とかの意味すら曖昧になった中で、よりハッキリと分かり易い決断と実行を示す者の登場を待ち望んでいることである。
 「政府が何もしないから東京都がやるのだ。」「あの人役人でしょう!?」とか「銀行員の給料は高い」といった分かり易い物言いをマスコミで繰り返す「扇動的」な知事に向かって世論の支持は雪崩を打つように流れている。もし、今、日本で大統領選挙が行われれば彼は当選間違いないだろう。事実「石原知事は好きでなかったが、今回のことで見直した。」と言う意見や「これまで政治(家)はだめだと思っていたが、これからは投票に行く。」と言う声は少なくない。新たな政治的胎動さえ揺り起こしているかのように見える。

きなぐさい発言

 他方で、この一年石原知事は、憲法論や東アジアの国際問題で挑発的発言を続けてきた。憲法の破棄論を言い、中国をあえて「シナ」と呼び(最近は、「チャイナ」と英語で呼んでいる。)、地震見舞いと称して台湾を訪問したり、中国から亡命中のダライラマ14世が来日すれば会見すると言ったり、「『北鮮』が何かすれば『一撃』する。」と言った具合である。これらの発言について世論は、支持・批判が相半ばするが「人気の都知事」という格好の発言席からのものであるだけにそのたびに新聞に取り上げられている。
 都知事としての決断と実行、国政を退いてなおきなぐさい政治的発言を続ける石原知事の理念は、「日本(人)のアイデンティ」に集約されると思われる。「自分のことを自ら決められなくなった情けない国民」というつんのめった問題意識が根底にある。この性急な問題意識が、閉塞した社会状況の中で文学や思想の世界でなく、地方自治という多くの人の生活に関わる実務と政治の舞台に析出してきたのが、石原東京都知事である。彼はこの思想と実務の飛躍を埋めようとして実務においては大胆な決断で筋を通しつつ、何とかして思想的な「筋」に結びつけようとしているかに見える。
 「太平洋戦争の中で、望まずして戦争に駆り出されていき戦場で死んだ学生達の青春は悲劇に他なるまいが、それ故の緊張それ故の凝縮は他の青春に比べいっそう昇華されていて美しい。」(「文芸春秋」3月号・わが人生の時の人々)とする危険な美学が彼の思想的根底にあり、それを隠していないことこそ注目されるべきである。

「超」保守の特徴

 産経新聞の久保紘之氏がたびたび批判するように石原都知事は保守ではない。「超」保守である。多数の人々の幸福の実現が政治と行政の課題であり、そのための福祉であり民主主義である。戦争の悲劇は、日本だけでも300万人の人々が不本意に生を絶たれことにこそある。緊張の美学を言う前にこの悲劇の回避にこそ政治は心血を注がねばならぬ。しかし、この1年を通じて福祉と民主主義を言わないところに彼の大きな特徴がある。民主主義的方法の欠落は今回の外形標準課税の導入に当たって、何人かの識者が真剣に心配している。それ自身は正義であるとしても導入の手法が大道を行っていないとの心配である。
 時代の行き詰まりは、「超」保守にまたとない登場のチャンスを与えている。「超」保守は、革新の装いと大衆操作そして民主主義の蹂躙を伴って登場することを我々は記憶しておかねばならない。

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三セク事始め  -- 際立つ朝日町の実績
住民の理解と協力を得ているか
本誌・地方自治取材班

 80年代、中曽根内閣の「民活導入」政策のかけ声に乗って作られた多くの「第三セクター」(いわゆる三セク)。街づくりの主力として期待されているが、いまどのように機能しているのか、新川地区の自治体を中心に検証してみた。期待に応えられず赤字経営に苦しむ所、期待どころか関心さえ寄せない自治体など、スタート時とはおよそ食い違った様相が見えてくるのだが……。

定義まちまち資料ゼロ
怠慢ではなく法律違反

 取材を通じて終始歯がゆい思いがした。「第三セクター」という言葉は行政当局には公式には存在しないのである。だから、その定義も各自治体まちまちであった。
 自治体が百%またはそれに近い出資で民間が委託経営しているいわゆる「公社」と、25%以上出資している会社組織を含めるかどうかで解釈が違ってくる。
 我々が手に入れた資料は、富山県が平成11年6月に発行した「県の出資による法人の経営状況に関する説明書」、自治省平成9年1月発行『最新地方公社総覧』中の「民法及び商法等に基づく地方公社一覧」の二つだけであり、表題そのものが「第三セクター」の定義になっている。
 新川の2市3町では、県や自治省が発行しているような資料を見出すことが出来なかった。おそらく作っていないのである。これは各自治体の長の書類の作成・提出義務違反ではないか。
 地方自治法第二百四十三条の三では「普通地方公共団体の長は(中略)出資する法人について、毎事業年度、政令で定めるその経営状況を説明する書類を作成し、これを次の議会に提出しなければならない」と規定している。
 上に掲げた富山県発行の「説明書」はこの条文に基づくものであることはいうまでもない。
 資料不足だけではない。黒部市、入善町、朝日町ではそれぞれ総務部、秘書課、財政課が統括して応対するが、魚津市、宇奈月町は担当部局を複数廻らなければならなかった。縦割り行政の結果だろう。
 「三セク」の定義のあいまいさだけではなく、これに対する自治体の姿勢に?がつくのではないか。
 特に、大きな自治体ほど「三セク」を介しての街づくりへの意欲、創造力、冒険心の欠如が目立つようである。

三セクってなんだ
国・地方自治体に民間活力導入が始まったが…

 第三セクターとは、政府や地方自治体が出資者に加わり、民間企業の資金を合わせて一つの事業を行なう組織だ。株式会社や有限会社、社団法人、財団法人などの形をとる。
 国や地方自治体の事業が第一セクター、民間事業が第二セクターとすると、そのいずれでもない第三の事業形態という意味で使われたマスコミ用語だ。
 経営学では、公私合同企業、公私混合企業に当たる。
 メリットとしては、1.社会資本の形成に民間資本を活用、2.民間企業経営のノウハウを活用、3.議会や官僚組織から比較的独立して柔軟に対応できる、など。ただし、25%以上の出資だと、自治体の監査の対象にはなる。

バブルとともに

 「三セク」が急増したのは80年代からだ。86年の民活法、87年のリゾート法など、国の民間活力活用政策などとバブル経済が重なる。さらに87年の国鉄の分割民営化にともない、採算割れのローカル線を地元の力で存続させる方便として多用されてきた。
 ところがバブルの崩壊で、地域開発プロジェクトがまずゆきづまる。工業基地の造成を目的とした苫小牧東部開発は1800億、むつ小川原開発は2300億の赤字を抱え再建のメドは全く立っていない。
 第三セクター鉄道も同様で軒並み赤字。近くの「のと鉄道」も、一部区間の運行停止に踏み切る。
 「三セク」がともかく続いてきたのは、1.事業計画や経営見通しのチェック体制が不十分、2.公務員の天下り先などになっている、3.経営者が首長ら幹部で、自らの手で破綻を認めにくかったことが幸い?している。

98年は清算元年

 「98年は三セクの清算元年」といわれ、これから「三セク」の清算が急ピッチですすむ理由は次の通り。
 1.金融ビッグバンで、銀行は返済見通しのない「三セク」に投融資する余裕がない、2.市民オンブズマンなど住民側からの行政監視が活発、3.自治体財政の逼迫が「三セク」の整理を迫る。
 それなのに、北陸新幹線のフル規格化は、北陸本線(富山港線などの枝線はもちろん)の第三セクター化を前提にして進められている。新たな県民負担は必至でナンセンスの極みだ。

百%出資の公社が圧倒的

 いま、新川の自治体の「三セク」を列挙すれば次の通りである。
[魚津市]
・財魚津市開発公社
・財魚津市施設管理公社
・財魚津市体育協会
・財魚津観光開発公社
・株魚津インフォメーションセンター
[黒部市]
・財黒部市吉田科学館振興協会
・財黒部市施設管理公社
・財黒部市国際文化センター
・財黒部市体育協会
・財黒部観光開発公社
[宇奈月町]
・財宇奈月町体育振興事業団
・有宇奈月農産公社
・宇奈月国際会館株
・宇奈月ビール株
[入善町]
・財入善町文化振興財団
・財入善町体育協会
[朝日町]
・財朝日町開発公社
・財朝日町文化体育振興公社
・朝日商業開発株
・あさひ株
・株サンパルス
・有あさひふるさと創造社
 大部分が財団法人格を持つ公社である。
 これについて黒部市は例え自治体が百%出資の公社であっても民間に委託することにより、1.経費を削減することが出来、2.効率的な民間経営の手法を導入し、3.公社の目的に副った固有の職員を養成することが出来ると理由を述べている。
 黒部市以外も同じような理由だと思われる。

カエルがヘビを呑んだか
宇奈月町の壮大な実験

 会社形態の典型的「三セク」を説明する。魚津市の株魚津インフォメーションセンター(略称UINK)はケーブルTVを経営するもので、本誌14号で特集したのでこの号では説明を省略する。
 宇奈月町の有宇奈月農産公社は温泉旅館を対象に炊飯、弁当、オードブルなどを供給している。
 宇奈月国際会館株はセレネ美術館と国際会議場、宇奈月ビール株は宇奈月麦酒館を経営する。
 いま、国際会館と麦酒館は膨大な赤字で苦しんでいる。宇奈月町は県内最大の温泉地であるが、峡谷鉄道とスキー場という自然条件に依存する傾向があり、さらに多くの客を誘致しようと観光資源の整備を急いでいた。
 全国的及び国際的ビッグイベントに対応する壮大な構想で建設された国際会館は、同時通訳施設を持つ県内唯一の専用国際会議場で、県からも多額の出資がある。
 長引く不況下でタイミングが悪かったこともあるが、わずか人口6千の町ではやはり「過ぎたるもの」であり、「カエルがヘビを呑んだ」ことは否定しようもない。
 累積赤字6億円のうち県が4億円を補填すると報道されている。
 街おこしのテコになる特産品の中心に地ビールを据えようと、宇奈月ビール株がオープンした当時、半年間は昼食時の待ち時間が1〜2時間になるほど客が殺到した。
 その後急激にブームがしぼみ、引き潮のように客足が減少し、累積赤字は7千万円に上る。
 支配人を公募し、小口バラ売り(びんビールの販売)など必死の立て直しを図っている。
 しかし、旅館業者、旅行業者、観光業者から以下の厳しい声があり、会社当局がこれをどう受け止めるかがカギとならないか。
 曰く「空室があるのに客を待たせて平然としている」「消費者のニーズに耳を貸さない」「添乗員やバス運転手へのサービスゼロ」「しょせんお役所仕事」ー。会社経営のソフト開発が急務となろう。

朝日町横水は三セク銀座ー

 朝日町の朝日商業開発株は商店街の再開発事業の中心「あさひショッピングセンターアスカ」の経営、あさひ株は特産品「バタバタ茶」の販売に当たる、いずれも町独特の企業である。
 有あさひふるさと創造社は総合イベントハウス・「なないろKAN」を経営する。ここは最初から社長を公募し民間色を強めている。
 朝日町横水の一角に「百河豚(いっぷく)美術館(町出身の篤志家から施設・運営費の寄進を受けた財団法人)」、史跡・「不動堂遺跡」、民俗資料展示・「歴史公園」などそれぞれ異質の施設をを配し、「なないろKAN」にセンターの役割を果たさせるアイデアは注目される。
 歴史公園にある町から移築された商家の管理人(方言丸出しのおばさん)がふるまうバタバタ茶の味は格別で、各施設見学客の休憩所に利用され、事実上のセンターになっている。
 「なないろ(七色)」に象徴される機能過多のせいか、ややまとまりを欠く印象だが、これからの大きな課題であろう。
 今春4月1日オープンの「株サンパルス」は新川広域圏東部環境センター「エコぽーと」に隣接する環境ふれあい施設・「らくちーの」を経営する出来たての「三セク」。環境センターの余熱を利用した温泉が目玉だが、娯楽と研修を兼ねたスグレ施設と見た。
 朝日町はこれら「三セク」の経営状況について、「街づくり政策の一環として行なっている事業だから、政策経費として財政が負担できるだけの赤字は織り込み済み」とのこと。
 新川では、朝日町が「三セク」として最も機能していると見た。

カネを出せば口も出せ
情報公開が先決

 自治体の財政規模に応じた適正な出資による堅実経営は、「三セク」評価の重要な条件ではあるが、赤字経営不可を絶対の基準にすることには賛成しない。
 過疎や高齢の対策に運行する福祉バス会社の赤字は行政サービスの一部として許されるだろうし、国際レベルの観光資源を持ちながら未開発の自治体では、ベンチャー的な先行投資も必要であろう。
 最も大切なことは、どのような公社・企業を設立するにせよ、それを維持発展させていくために全住民の理解と協力が得られるかどうかである。言い替えれば、情報公開が完全に保障されていることである。
 どの自治体も「三セク」に多額の出資をしている。カネを出す以上は口も出す、額に応じた責任も果たさなければならない。
 いまの新川の自治体は、宇奈月と朝日を除いては、口も出さず、責任も果たしていない。動きは極めて緩慢で、関心も意欲も鈍い感じがする。
 地方自治法の規定による報告書提出義務も果たしていない。本当の出資者は納税者だというのにーー。
 これから「三セク」公社・企業の数は増えることがあっても減ることはない(自治省は平成11年1月の『最新地方公社総覧』では平成8年に比べ、791社増え、ついに10135社になったと発表)。街起こし、街づくりのための組織(TMO)がどんどん必要になってくる。地方分権も待ったなしに進行する。自治体職員だけでなく、住民の総力が必要なのだ。
 「三セク」を自治体の外郭団体と見下ろし、官僚の天下り先にしたり、利権ポストの受け皿にすれば、その瞬間から地方自治は崩壊するであろう。
(地方自治取材班=田中光幸、野崎弘、濱田實で構成)

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