時論-6  

地域雑誌「新川時論21」第6号の紹介





 
特集・現場から見た教育シリーズ<その1>

それは生徒の天下であった  ─新制中学草創物語─

濱田 實


 語り尽くされたようで尽くされぬ教育論議。教師体験を持つ4人の同人がインサイドから教育現場を語る。新教育発足50年を思い、まず放つ第1弾。草創期の新制中学をただのノスタルジアで終らせてよいものか。

もう勉強せんでもいい

「平和ニッポン」「民主主義」のスタートを告げる新憲法が公布されても、冬の教室は戦争中と同じで、ストーブは供出されたままで寒かった。昭和二十一年も押し詰まった十二月の暮のことである。
ここ魚津町立村木国民学校(現魚津市立村木小学校)の六年生の教室で、県立魚津中学校へ進学を希望する生徒が約十名ほど「残り勉強」をしていた。当時、中学校への進学希望者は一割程度で、六年担当の先生は、希望者に受験指導をするのが例になっていた。
受験指導といっても今のような組織的なものではなく、先生の好意から出た塾に毛の生えたようなもので、先生も来たり来なかったりだったが、それなりに生徒たちは真剣に勉強をしていたようだ。
火の気のない教室で、マントを頭からかぶって、寒さにちじかむ手をこすりながら、利夫たちは黙々と鉛筆を走らせていた。
ガラッと教室の戸を開けて昭夫がとびこんできた。
「オイ!みんな。もう勉強せんでもいいぞ!」
「試験なしで、みんな中学へ行けるんじゃ!」
「新制中学ちゅうもんができて、みんなそこへ行くようになるんじゃ!」
やつぎ早やの昭夫の言葉に息を飲まれていたみんなから誰ともなく「ワー!」と歓声が上がって、ノートや鉛筆をほうりあげる者、廊下へ飛び出していく者。ひとつのパニックが学校中を駆け回っていった。
利夫はパニックの渦に巻き込まれながら、入学試験で試されなくなった自分の力に対する不安を感じたが、やがて大きな解放感に浸りはじめた。
年が明けた始業式の朝、利夫たちは、校長から正式に学制の改革と新制中学の発足、国民学校の閉幕を告げられた。
思えば昭和十六年、入学時に国民学校に変わってから、利夫たちだけが純粋の国民学校児童であった。

ボロ校舎の壁は薄かった。

入学式に行って、校舎のあまりのヒドさに利夫は驚いた。講堂とはいえまだ独立校舎だけ良い方である。他の三校、角川、加積、海望中学は、小学校に間借りすることになる。 ボロ校舎にイタズラ盛りの生徒が入ったのだから無事ですむはずがない。柱の陰で将棋を指す者、押入でフテ寝する者が続出。哀れをとどめたのはボール紙で張った天井である。傘や拳で突き破られ、アッというまにハゲ落ちてしまった。
イタスラッ子たちは、ハゲ落ちた穴からはい上がり、天井裏で鬼ゴッコを始める始末。全校集会中に天井からおっこちて先生方を青くさせる事件も起きた。
町当局は、九月から大町小学校に隣接して新校舎を作り、三年生は名ばかりで、保育所の遊技場ほどの狭い所へ、大町、村木両小学校の卒業生約四百人が押し込められていた。おまけに床は土間がムキ出しであった。
教室へ案内されて、また驚きが増えた。和室を二間ブチ抜いて、畳をめくった所が教室であった。真ん中には柱が二本デンと立っていたし、丁寧にも後には押入まで付いていた。 新制中学が発足するのに最初の難問は校舎であった。
敗戦直後の地方自治体に財源の余裕などあるはずもなく、利夫の進んだ魚津町立魚津中学(現西部中学)は、社員寮改造のボロ屋との時、旧魚津高等女学校に校地を開いてくれたが、利夫はわずか三ヶ月のボロ校舎暮らしを忘れることができない。
新制中学のすべてがそこに凝縮していた。先生と一緒に、宿直室に泊りこんで、明日の教材作りに夜を徹したこと。肝試しをしたこと。大小の砲列を並べて二階の窓から小便の雨を降らせたこと。などなど……。
ボロ校舎の壁と同じように、先生と生徒を隔てるものは何もなかった。
校舎の整備とともに、その壁はだんだん厚くなってしまった。

師弟合作の創造的授業

隣の小学校同士といえば、犬と猿の間柄で、道でスレ違うときなど、歯を剥きだしてニラミ合ったものだが、魚津中学で机を共にしはじめて、大町・村木両小学校出身同士は奇跡的に仲よく、トラブル一つ起こらなかった。
高等科(旧制の学制の一つ、実業学校へ進む予備コース)出身の一つ年上の健一たちの存在が大きかった。健一たちにすれば先輩風を吹かせたくても、相手は圧倒的に数の多い下級生集団である。積極的に同化し、リードする道を選んだ。
年が一つ上の分だけ、学制改革の意味を分かっていたといえる。「これからの学校は、上級生も下級生もない、平等の時代なのだ。一緒に新しい校風を作らなければらない」と利夫たちに説いた。
先生の宿直のとき遊びに行こうと提案したのも健一である。食料不足の当時で、農家は米、八百屋は野菜、漁師は魚、それぞれ持参の上、十数人の生徒が毎晩、宿直の先生のところへ押しかけた。
 「生徒を子供扱いしないでもらいたい」
 「先生の話ばかりで授業を進めないでもらいたい」など熱っぽい議論が交わされた。
 「君たちが勉強したいことはなにか」「興味のある授業とはなにか」先生からの反論もあった。
進駐軍の指導によるカリキュラム(指導要領)は非常に革新的なもので、すべて生活・経験学習を中心に編成されていて、系統学習を叩き込まれていた戦前の教師たちには歯が立たない部分が相当あったらしい。
先生にとっても生徒の要望はまさに「渡りに舟」であった。
「明日の授業をどう運ぶか」「どんなプリントを用意するか」「実験準備をどうするか」など、宿直室の師弟共同作業の中から作られていく。
毎日の授業が非常に創造的になったのは当然である。
利夫たちの授業は県教育界から注目され、授業参観の希望が引きも切らず、そのため利夫のクラスは「研究授業屋」と呼ばれる始末。
そのことより、毎日の授業があれほど「張り合い」があり「緊張感」で過ごせたことはないと、五十年たったいまでも、クラスメートと誇りにしている。

信玄袋をもって登校

精神的にも、身体的にも急成長期にある中学三年間をずっと上級生で過ごした経験は、利夫たちの年代だけかもしれない。しかも、先生たちからは、新学制の成否は「君たちの双肩に掛かっている」と期待され、オダテられっぱなしの中学時代であった。「お山の大将オレ一人」という気分が、この年代にみなぎっていた。
 授業でさえ師弟合作で行われたのである。生徒の自主性を尊重するクラブや生徒会活動などは、まったく「生徒の天下」であった。たとえ授業でサエなくても、どこかで頭角を現わそうと各人がシノぎあっていた。
一つ年上の健一は、生徒会長・副会長は利夫たちに譲り、自らは会計を握って、生徒会どころか、先生まで支配してしまった。健一は生徒会費を学校事務の手を通さず、各クラス会計に集めさせ、現金・通帳とも一切自分が管理した。
登校のとき、彼はカバンの他に大きな信玄袋を持ってくる。その中に、十数万円の生徒会の全財産が入っているわけだ。
予算編成のときは、クラブ顧問の先生も健一のところへ頭を下げて頼みにくる風景が見られた。
生徒会行事はもちろん、校章の選定、図書の購入、学校新聞・生徒会誌の発行などはほとんど生徒の手で実施された。
「教師の指導が必要だ」「管理上マズイ」といった教師の声はまったく聞えてこなかった。
それどころか「生徒に任せておけば間違いはない」「ちょっとしたアドバイスだけで生徒はいろんな創意・工夫をしてくれる」と抜群の信頼を生徒に寄せていた。
生活・経験学習で鍛えられた生徒の実務能力はすばらしいものがあった。旧制中学出身の教師は「まったく別の人種を見るようであった」と、今でも評している。
「管理主義」という言葉は、当時の教育用語には存在しなかったのである。

野球ばかりではないサ

「六・三制野球ばかりがうまくなり」
新制中学発足当時の川柳だが、安手の教育内容を皮肉ったものである。
たしかに野球はモーレツに流行した。空地、道路の脇、田圃の中子供たちがやるのは必ず野球であり、ゴムマリ、三角ベース、板切れ、なんでも野球の用具にしてしまった。 運動がまったく苦手な利夫も、草野球に親しんだ。いや、親しまされたといってよい。「勉強が出来ても運動が出来なければダメ」という空気が新制中学を支配していた。利夫もいつのまにか野球部に入ったのだから恐ろしい。むろんレギュラーになれやしない。 おなじブキッチョ仲間に和行がいた。彼は、体が回らない分だけ頭を働かせた。野球雑誌・スポーツ新聞を片端から読みあさり、監督以上の野球通になったのである。ベンチの作戦は和行が立て、なんと県の大会で優勝してしまった。
「文武両道」という言葉は使われなかったが、「なんでも出来る」ことを生徒も先生も求めた。運動部と文化部の両方に所属することは当たり前であった。
文化祭には会場準備、デコレーション作りに運動部が協力をし、中には演劇のエキストラを演じた運動部もあった。
運動部の大会には文化部が応援団を編成し、遠征費カンパのための有料文化部発表会も開かれた。
女教師の堀内先生は、フォークダンスを普及させようと希望生徒を募ったところ、アッというまに全校生の半分が集り、放課後の講習会は大ダンスパティーになってしまった。堀内先生はその中からモデルチームを編成し、彼らとともに婦人会や青年団のダンス普及に走りまわった。
「野球ばかりがうまくなり」の皮肉に対して「野球ばかりではないサ」と彼らは胸を張ってうそぶいている。
だれでもがマルチ人間になれる学校の雰囲気が作られていたのである。

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これでいいのか日本の農業
コメは新川の基幹産業だ
小熊清史



 土佐の乱

 95年11月1日から施行された「新食糧法」の正式名称は「主要食糧の需給及び価格の安定に関する法律」である。ほんとうに需給と価格を安定させたのだろうか。
 「新食糧法の趣旨は生産も流通も自由、減反に県は関与しない」─1年前の正月、高知県・橋本大二郎知事の発言は「土佐の乱」と呼ばれ、全国に波紋をよんだ。3月には岩手県東和町が減反から手を引くと表明した。燎原の火のごとくに燃え広がるかと思われたこの動きは、東和町の挫折にみられるようにひとまず沈静化した。
 流通の自由化によって米の価格が下落するいっぽうで減反は強化されている。農家にはダブルパンチだ。日本の農業は大きな曲がり角にさしかかっているようだ。

 水田は国土を守る

 日本の耕地面積は減少しつづけている。1960年以降、約2割の水田が消滅した。これまでは強い通貨「円」のおかげで、自給できなくても世界中から食料を買い集めることができた。相場をつりあげ、飢えた貧しい国をさらに飢えさせもした。市場経済には明暗がつきものである。陰りの見えはじめた日本経済、いつまでも円は強いのだろうか。逆の立場になることもありうるのだ。
 耕地は、環境の保全にも大きな意味をもっている。水田のもつ公益的機能を評価した研究がある。たとえば洪水防止効果を、同程度のダムを建設する費用に換算する。試算では、水田の公益的機能は年間4兆7千億円である。(91年三菱総研の調査より)

 翻弄される農家

 兼業農家の青木大政さん(入善町)に聞いてみた。
 昨年の米の値段が2万1千円以上、今年は3千円程度下がった。農協に納めた分は「仮渡し金」が支払われ、8月に精算されるので、まだ実感がわいてこない。田植えや稲刈りなど、部分委託をしていると赤字になる人も多いだろう。肥料代や農薬代もかかっているけれども、いちばんこたえるのは農業機械の償却だ。
 自分の田は1・7町歩だが、何軒かの農家でまとまって順繰りに減反する。個々をみると年によって減反率が異なってくる。今年は少なかったが、来年は5割ほどの減反になる。集団化して連続した1町歩以上の水田を減反すると補助金が割り増しになるので、こうした方式がとられている。ただ、道路や用水が間にはいると「連続」していない、とみなされることがある。
 こんど「とも補償」という制度ができて、コメをつくった農家が拠出金を出し、減反した農家に補償金が支払われることになった。仕組みが複雑で、農家でも理解できない。  減反の割り当ては、県から市町村に配分されるので、地域によって異なる。助成金がおりるのは県が指定した転作作物を栽培する場合だけで、他のものをつくってもダメ。いま、指定されているのは、牧草・大豆・麦の3種類だけだ。このあたりでは球根栽培が盛んなので、転作耕地に球根を植え、収穫してから牧草を植えている。
 麦も植えているが、種蒔きが秋なのに、減反割り当ての発表が1月なので、作付け面積の判断が難しい。いまは麦を政府が買い上げているが、これも近いうちに廃止される。
 青木さんは数年後に定年を迎える。年金と農業の将来に不安を感じている。

 富山米は上位だが

 平成9年11月28日の大阪取引場における自主米の取引価格を調べてみた。全58銘柄のうち、コシヒカリが20を数える。上位13位まではコシヒカリが独占し、以下は「あきたこまち」やササニシキが食い込んでいる。富山コシヒカリは8位である。
 魚沼コシヒカリは別格としても、最上位グループの新潟産コシヒカリとの差が60キロあたり2千2百円以上あるのに対し、コシヒカリの最低グループとの差は千5百円ほどである。「あきたこまち」やササニシキの最上位との差は千円ほどだ。順位ほどには価格で優位にたっていない。
 品質にそれほどの差があるのだろうか。市場での評価を高めるためには、たとえば「新川米」としてブランドを確立する努力も必要ではないだろうか。

 富山は5番目に少ない

 農水省が発表した平成10年度の生産調整目標面積は96万3千ha、全国平均で35・5%である。富山県は28・5%、少ないほうから数えて5番目。マシなほうだともとれるが、そのぶん転作作物への対応が遅れている。
 減反は自由であり、行政はガイドラインを示すだけ、というのがタテマエだ。罰則はないとはいいながら、協力すれば助成金が支払われ、協力しなければ政府米の買い入れの対象からはずされる。いま検討されている「所得補償」制度からも除外される。助成は地区単位で行われるので、一人だけが抜け駆けでコメをつくることができない仕組みになっている。
 がんじがらめなのである。ならば、地方の名産にもつながるような転作作物の育成にも力を注ぐべきであろう。農協と市町村が協力しなければならない。また、県においては指定作物を見直すことが必要である。

 需要拡大を

 日本の農産物のなかで、唯一自給できているのがコメである。なのに、ウルグアイ・ラウンド農業合意によって、コメの輸入が義務づけられている。いっぽうでコメの消費は、昭和50年の水準から20%程度減少している。とくに若い世代と女性のコメ離れの傾向が目立つ。これでは減反と需要減のいたちごっこである。根本的な解決のためには需要の拡大しかない。さまざまな側面があろうが、ここでは学校給食を取り上げてみたい。
 戦後の学校給食は54年(昭和29年)「学校給食法」の公布によって始まった。主食はパンだった。パンにバターをぬり、チーズを食べ、ミルクを飲むことで、アメリカ人のようにアタマがよくなり体が成長するのだ、と言い聞かされた。しかし、日本人はやはり日本人であった。アメリカ人への劣等感だけが残った。近年では健康に良いということから、欧米で日本食の人気が高まっている。
 洋風一辺倒だった学校給食に76年から米飯が導入された。95年現在で平均実施回数は2・6回となっている。しかし、同時に「単独校方式」から「センター方式」へと調理の方式が変わってきているために、せっかくの米飯の良さが生かされていないきらいがある。
 次に高知県南国市のユニークな試みを紹介する。

 南国市の試み

 76年から米飯給食に政府助成が行われている。しかし、学校給食会を通して政府米を使用することが前提であり、週3回程度を想定した施策であった。
 南国市は、これを週5回とし、地場産の自主流通米を使用することにした。学校給食会を通すことによる経費、週3回を超える分と自主流通米を使うことによる補助率の低下、これらによるコストアップが1人あたり月50円になるが、市が負担することになった。
 炊きたてのご飯を食べさせるために、各学級に炊飯器を設置した。しかも、こうすることでセンターに委託炊飯する場合にくらべて年間1千万円も節約できたという。
 推進したのは農業委員会である。実現までには紆余曲折があったが、決め手は文部省が96年5月に出した「学校給食用自主流通米の使用について」という通知であった。教育的な見地から、学校給食に地場産の自主流通米を使うことを奨励する内容である。
 「地元の米を、地元の水で、炊きたてを食べる」のが一番だという。南国市の子どもたちは、最高のぜいたくを味わっている。食べ残しはほとんどない。南国市では、コメだけでなく、他の食材にも地場産のものを導入することを検討している。

 産直・有機栽培にとりくむ

 これからのコメ作りの方向を示すヒントになるのではないかと考えて、有機栽培にとりくむ南保順孝(なんぼ・よりたか)さんを訪ねた。入善町舟見のお宅はスーパー農道に近く、玄関には「有機微生物農園」と書かれている。意外なことに南保さんは地元出身ではない。島根県松江市の生まれで、学生時代に知り合い結婚した奥さんの実家が入善だったのだ。

 有機栽培にかける

 有機栽培にとりくんで20年。農薬を散布すると体調が悪くなる体験をしたことが有機栽培にとりくむきっかけになった、という。ちかごろ、有機栽培、無農薬栽培、自然農法といったラベルが目につくが、ときには実際とは異なるものがあり問題になっている。県が推奨している「有機米」も、100%ではなく、60%有機肥料だ。農薬散布6回を3回にした低農薬栽培である。南保さんは、完全有機無農薬をめざしている。ただし、有機肥料さえ使えばいい、というものではない。

 土の命は細菌

 土の中にはおびただしい細菌が生きている。それらが植物の生育に適した状態にすることが土づくりだ。糸状菌(かび)主体から細菌を主体とした微生物になるように管理する。とくに放線菌が大切だ。健康な土は細菌と共生しているのである。
 有機栽培の水田には、トンボのヤゴなどが生息し、それを狙って鳥やコウモリがやってくる。夕方になると、南保さんの田んぼの上に、コウモリが群れているのがみられるという。有機栽培の水田には稲の間にクモが巣をはっている。そうやって、自然の食物連鎖が害虫の繁殖を防いでいる。
 しかし、有機栽培と従来タイプの栽培と、田が入り交じっているのは、お互いにとって好ましいことではない。南保さんは有機栽培がもっと普及することを願っている。かつて有機栽培にとりくんだものの、脱落していった農家もある。手間がかかって、収量が少なく、農協の買い取り価格がそれに見合ったものではなかったためだ。

 おいしいコメを

 「おいしい、安全、安心なお米」が南保さんのキャッチフレーズだ。有機資材に微生物を繁殖させた手作り肥料、木酢などの天然物を利用した害虫駆除、加えて籾の乾燥でも温度管理に気を配る。出来たコメは食味計で測定してもらって、自己評価する。一等二等といった外形だけではなく、消費者がおいしいコメを求めていることへの備えである。
 魚沼では食味で細かくランク分けをしている、収量を多くしすぎると食味が落ちるので、10aあたり7・5俵程度に押さえている、ともいう。味のライバルは魚沼コシヒカリだ。

 産直に活路

 南保さんは、有機栽培のコメを直接消費者に販売している。自作分が8町歩、委託を受けて耕作している分が6町歩ある。受託農地は、10aあたり27500円の借り賃を支払う。この中には減反による転作農地も含まれる。
 人気が上々なのはいいが、減反のために、注文を受けている分を出荷できるかどうか心配だという。集団転作や「とも補償」の制度が、せっかく努力して築いてきた有機栽培と産直システムの足をひっぱるのだ。
 産直などの意欲的なとりくみについては、減反対象からはずすなどの措置がとれないものか。農家の嘆きを減らす、減嘆の施策を切望する。 

 あとがき

 農業にはまったく無縁の者が、日本の米はどうなるのだろうか、という疑問・不安から出発し、こんな記事を書くことになった。おびただしい資料と格闘し、また、南保さん、青木さんに初歩的なことを教えてもらいながら、なんとかまとめた。ピントのずれた論点もあるかもしれない。農協のありようについても様々な意見があるが、筆者の能力を超えるので、触れなかった。ドイツのクラインガルテン(市民農園)の日本版についても触れたかったが、紙幅が尽きた。これが呼び水になって、農業にかかわっている人が、みずから語ってくれることを望んでやまない。 (小熊)

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新川元気人<5>

製作に妥協許さぬ─入善町の女流陶芸家・米沢越路さん



 小さい頃より芸術に志したという。地元の入善高校を卒業し、美大へ。そして、京都の清水で6年修業を積んだのち、故郷へ戻ってきた。
 当時、若い女性が陶芸の道を志しているということで、マスコミの話題になり、いろいろな人との出合が多かったそうだ。
 アトリエには雑然と作品が並んでいる。皿や壺といった食器類からオブジェまでと、手がける範囲は広い。芸術家としての自分の感性を表現するには、オブジェが向いているという。「しかし、全く売れないわ」と笑う。
 「お茶でもどうぞ」と出されたコーヒーの器も、湯飲みともカップとも言い難い。それでいて手にしっくりとなじみ、口当たりも良い。世間一般のコーヒーカップは、完成された形と大きさ、重さをもつのだろうが、そんなのばかりがコーヒーカップじゃないといったところか。
 ○○焼きという伝統はブランドだという。彼女はそれも好きだが、そこにアートがあるのかと疑問を投げかける。また、世間とのつき合いがわずらわしいとも言う。接点が多いと、世事にかまけ、自己の感性が曇るのだろうか。といいながら、子供に対する教育に情熱を燃やしている。そのせいか、PTAなどから講演の声がチョクチョクかかる。
 自分は常にメッセージを送る側に立ちたいという。しかし、求めるものは自分を感心させるものを製作することだと、あくまでも芸術の中心は自分だと主張する。
 作品の製作は体力と日数を要する。構想を練り、それに応じた土を求め、形を決め、色をつける。そして、釜を焼く。
 ところが、できた作品はその瞬間、過去になってしまう。もう次に向かって構想を練り、自分の中で熟成させねばならない。
 陶芸は一人遊びだ。土をこねながら自己との対話を続ける。そして、いろいろな束縛から自分をどれだけ解放してやるか、自分のメッセージをいかに作品に込め、他に伝えるか、の連続だ。仕事はすべて計算づくめ。色も形も妥協は許されない。「まぁ、いいか」ではダメだから、自分の体調を整えるという自己管理が大切になる。
 主張から見て、どんなにか難しい人だろうと想像されるが、恐ろしくザックバランで、明るい人柄だ。「自分のたべる茶わんは、自分でつくるなど楽しいことだと思わない?そんな風に、自分を喜ばすことを発見してほしい。自分を楽しませることに対して、他人の目や、他人の評価など気にせず、自分が大切だと思うものをつくってほしい。そうなれば、世の中、もっと明るくなると思う」と結ぶ。今後ますます、明るく楽しい作品をつくってほしいと願う。(岩井哲雄)

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