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地域雑誌「新川時論21」第2号の紹介


 第2号目次


巻頭言 ─ 品位と社会性の堅持を       (林章)
その昔『新川時論』がありました(その2) (野崎 弘)
早月川を歩く(その2)          (佐伯邦夫)
続・イベントホールの現状と未来を問う
    オーバードホール(富山)・ヘリオス(福野)
           (岩井哲雄 田中光幸 稗田康則)
緊急提言 黒部川の叫びが聞こえませんか  (金谷敏行)
書評   『教科書が教えない歴史』    (野崎 弘)
書評   『高校生詩集─青春の光と影』  (小熊清史)
96とやまテクノフェア記念講演より
  企業改革…課題と戦略         (谷越敏彦)
特別寄稿 スキーが曲がるのは何故?    (尾原和夫)
新川に見る国際交流       (吉田 大 濱田 實)
魚津の歓楽街は全国一か?    (濱田 實 吉田 大)
劇評 『蜃気楼伝説』に拍手        (窪 邦雄)
ネパールへのかけ橋─辻斉さん       (佐伯邦夫)
読者からの便り
編集後記
表紙・藤田 功(入善町) 裏表紙・森 秀子(金沢市)

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書評   『高校生詩集─青春の光と影』



感性の「旬」に時空をこえた共感
─高校生詩集─ 「青春の光と影」 藤縄 慶昭 編
親子で読んでほしい

 この号の書評欄を担当するよう、元教師の同人諸氏から仰せつかった。後述するが、どうもうまくはめられたようだ。
 編者の藤縄慶昭氏は元高校教師。魚津高校をふりだしに、富山中部高校、富山東高校などにつとめ、雄山高校を最後に昨年三月退職。
 三〇年余の教員生活の間に、国語の授業を通じて八千人ほどの生徒に接し、三万編を越える文章を読んだ、とあとがきにある。詩歌・随想など多岐にわたる文章のうち、詩作品に限定し、厳選して編んだとのことである。
 読みすすんでいくと、ところどころで懐かしい名前に出会う。
 藤縄氏が魚津高校で教鞭をとっていたころ、私はそこの生徒だった。しかし、私は先生の授業は受けていない。なのに印象が強く残っているのは、背が高くハンサムな外見のせいだけではなく、そうとうなひねくれ者の生徒をも受け入れてくれる、という匂いを感じていたからではないか。勝手な思い込みかもしれないが、当時、そうとうにひねくれていた一生徒の印象である。
 それにしても、教師はずるい、と思う。
 まばゆいほどに純粋な若者の心の口を開けさせ、覗きこみ、ちゃっかり記録をとって、宝物のように机の引出しにしまい込む。これが、もしも裸体の写真だったら犯罪である。
 「世紀末の青春」への危機感、すぐれた作品を親と子いっしょに読んでほしいという編者の願いには嘘はない。が、先生はずるい、と言われるかもしれない ── そんな後ろめたさも手伝ってか、引出しの中にしまい込んだ宝物を隠しとおすことのできない正直な人なのである。
 人間の感性に「旬」というものがあるなら、やはりこの年代なのかもしれない。いまの自分を省みると、繕いに繕って、やっとヒトの形を保っていることに気付く。書き手たちもまた、やがてそうなることを予感しているかのようだ。しかし、感傷に浸っているばかりではない。毅然として立ち向かい、あるいは皮肉り、笑い飛ばす。
  ─────
 私のまわりで/何かくずれる音を聞きました (高谷真知子)
 なにかを忘れて来たような・・・/その忘れ物はきっと/純粋な心だろう/この心を・・・持ち続けていたい (平島知) 
 冬になったら/雪のペンキで/心を塗りつぶす/そしたら きっと/大人になれる (小野寺縁子)
 小さなためらいの連続に/貴重な時間を失ってしまった/・・/しかし 僕は嘆くまい (猟山勝次)
 よちよち歩きで 曲がり角/やけくそに走って 交差点/どこへ行こうか 赤信号 (井波祐子)
  ─────
 こんなにも鋭い言葉を持っていた彼らは、いま、私とおなじようにくたびれているのだろうか。いや、若い日の心はけっして失われるものではない。げんに、こうして三〇年余の時空をこえた詩に共感している。去年の土のうえに今年の土が積み重なって、それをくり返して、見えにくくなっているだけだ。耕して、まぜくり返せば、また見えてくる。
 ここで、冒頭の話に戻る。元教師の先輩諸氏は、私に、このことを気付かせようとたくらんだようである。それはまた、藤縄氏がこの詩集を編んだ狙いでもある。
 なかなかに教師とはしたたかなものである。

 藤縄慶昭 ふじなわよしあき
 一九三五(昭和一〇)年生れ。東京教育大学文学部卒。国語教師として魚津・富山中部・富山東。雄山高校を経て一九九六(平成八)年退職。著書に「富山の古俳句」(桂書房)、「北国抄」(近代文芸社)があり、俳壇で活躍中。上市町在住。

【編集部より】この本は富山市総曲輪、清明堂書店にて入手できます。(価、1500円)

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ネパールへのかけ橋─辻斉さん



新川元気人…1. ヒマラヤへのかけ橋 辻斉(黒部市)さん

 高校教師の職を早々に見限って、ヒマラヤの国ネパールの首都カトマンズでのホテル経営に身を投ずる異色の人として何度もマスコミに登場、また県内各地で講演活動を展開しておられるのですでに充分ご存知の方も多かろう。黒部市の辻斉さん(五五才)である。
 ヒマラヤの山麓めぐり(トレッキング)は今や花ざかり。とはいえ、言語も習慣もまるで違う遠い異国、憧れはあっても誰でも気軽に、というわけにはいかない。そこで豊かなヒマラヤ登山の経験を生かして、現地で旅行者の受け入れとサポートを、というわけ。しかも、単なるエージェントでなく、トレッキングの拠点となる城(ホテル)まで作ってしまおうというのだからハンパでない。
 まず、莫大であろう、資金はどうするのかー。かつての教え子や山の仲間を中心に支援の輪がひろがっている。それは単なる投資でなく、自分もいつの日にかヒマラヤへ、あるいはいつでもヒマラヤへ、という夢を買うことでもあ。すでにそうした人たちが小グループにまとまり、辻さんの案内でヒマラヤの旅を楽しんでいる。ホテルの方も一部供用がはじまっている。
 去る十一月の中旬、この年末年始のトレッキングツアーの事務手続きのために帰国、一週間後にふたたび現地へ、という慌ただしいスケジュールの合間をぬって、黒部市堀切の自宅にお邪魔して、近況を伺った。
 昨年(95年)3月、魚津高校を退職してから日・ネを往復すること12回。今年は4月、5月、8月にそれぞれトレッキングツアーを消化、目下、12月の4回目のツアーの準備中とか。
 ホテル「山水」の方は、レンガ造りの外側はすっかり出来上がり内装工事中。8月に2階部分の完成とともに仮オープン。12月にキッチン、レストラン、それからなにより日本人によろこばれる「ふろ」が使えるようになる。3月、1・2階部分で正式オープンの予定という。
 ネパールにおける辻さんの活動のもう一つの柱は、山民の、とりわけ子供の教育に対する支援。8月の、ホテル仮オープン記念ツアーのときは、エベレスト山麓のバガンジェという村の小学校に卓球台2台と、ダンボール一箱の文具を寄贈した。
 カトマンズの市街にはストリートチルドレンという、子供のホームレスが、何百人といる。帰国の都度、県内あちこちの中学・高校から呼ばれて講演。また、学園祭での写真展示などを通じて、そういう向こうの子供達の実情を訴えた。生徒会や学年が中心になって、衣類や文具を集めて向こうへ送ろうという活動が広がっている。
 また、中学・高校生が現地へ行って交流という動きもある。今後、この方面をもっと掘り起こしていきたい、と意欲的。
 辻さんは1941年黒部市に生まれたが、少年時代は仙台で過ごす。福島大学学芸学部卒。帰郷、魚津高校、泊高校、入善高校などで体育教師。この間スキー部・山岳部顧問として、たくさんの人材を育成。またネパールをたずねること十回に及ぶ。1995年3月ネパールへの思い止み難く退職、現職に。著書に「魅せられてネパール」「魅惑のヒマラヤ」がある。(佐伯邦夫記)

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編集後記



 何とかしてほしいこと─原稿の締切日の早いこと。給料日の到来の遅いこと。─とブツブツいいながらも、意外に温かい読者の声に励まされ(もっと辛口の批判を覚悟していたのですが)、第2号も何とかお届けすることができました。今年もよろしくお願い致します。(I)
 まことにささやかな、500円いただくには恐縮する創刊号だったのだが、予想外の反響におどろく。心のこもった励ましにも感謝。情報がハンランしているといわれるが、本当に必要なものはかえって不足ということだろうか? いましばらくがんばろう、と思う。(S)
 アルバイトが重なったり、家族に病人が出たりして、今回はあまりタッチできなかったが、第2号もまずまずの仕上がりとあって満足。それにしても、厚生省汚職といい、整備新幹線の「決着」といい、腹の立つことばかり。次号には、書かせてもらおうと思っている。(N)
 依頼、寄稿を含め同人外原稿が急増し、内容に厚みが増したか。特に林章氏の適切なアドバイスには同人一同脱帽、巻頭を飾らせていただいた。氏が指摘する同人内退職者のスタンスについてひとこと回答。いずれも在職中から内外に活発に発言してきた人ばかり。「時論」刊行はその延長線上とご理解願いたい。(MH)
 それにしても資料分析が大変だこと・・・・! 執筆前に疲れはてて、なかなか本稿と取り組めず、一時はリタイア状態。濱田氏の必死の激励と助力のお陰で、なんとか仕上がった。終わってみると不思議なもので、新たな創作意欲がフツフツと又湧いてくる。限りの無いテーマを追い続ける小生の宿命か・・・!? 疲労感を大きな喜びに変えていく作業が一生続くかも・・・・・。(HY)

 仕事が集中した時期だったので、取材活動が思うようにできなく、同人の皆さんに迷惑をかけました。次号からパソコンを使いこなせるよう勉強して、小熊代表の負担を少しでも軽くできればと思っている。(YH)
 DTPソフトをC社からV社の製品に変更。新しいソフトにまごつきながらの編集作業でした。取材にまわる時間がとれれば、あれもこれも、と着想は持っているのですが、なかなか思うにまかせません。今はやりのインターネットにホームページをつくりました。本誌の紹介もしています。電子メールでのご意見や投稿も歓迎いたします。アドレスは下記のとおり。(O)
 E-Mail kyonc@micnet.or.jp
URL http://www.micnet.or.jp/kyonc/


黒部川の叫びが聞こえませんか


黒部川ウォッチング・富山ネットワーク  金谷 敏行


 私は千葉から6年前富山に転居した。妻の実家が立山町にあるというのが表向きの理由だが、高校時代から渓流釣りに夢中になっていた私は富山の自然が何とも魅力的だった。とりわけ、富山の川は一生かかっても採り切れないほどイワナ釣り場に恵まれ、水量も多いし流程も長い。上流でも長竿が使える所、テント持参でしか竿を出せない場所もまだまだ残されている。
 富山に移った当初は、水を得た魚のように休みのたびに釣りまわっていたものの、現在二人の子供を抱え、めっきり釣行の機会が減っているのが最大の悩み?となっている。
 欅平より下流、黒部の本流には毎年釣行しているが、大きなポイントは土砂で埋まり、水の流れもないところが多い。いまから5年前、泊まりがけで猫又から小屋平まで釣り遡ったことがある。鐘釣より下流は、とりわけ砂の堆積がひどく、淵や落ち込みのポイントはほとんど埋まっていて、わずかにイワナの当たりが1回あっただけだった。
 これは、出平ダムの試験排砂が始まる前の、ダム上流の出来事だ。黒部は山が急峻なため土砂の堆積も他の川よりはるかに早い。すでにこのときから黒部川は命の輝きを失いかけていたのだった−。それでも私にとって黒部川は他の川では見られないネイティブな大イワナが出会う川であった。だが、昨年の出平ダムの排砂。渓流釣りの解禁日、3月1日に行われた排砂によって、出平ダムより下流の黒部の天然イワナは全滅した。アユや水生昆虫など含めて。まさに黒部川が死んだ日となった。

 いまでは「黒部川・富山湾を考える会」の人たちが地元で地道な活動を行っているが、あれだけ新聞報道などで排砂問題が騒がれていたのに、当時、富山県内でそのことに対応する市民の動きはほとんどなかった。他の県では考えられないことだ。
 私はこの問題は長良川河口堰に匹敵する問題だと思った。全国で本格的な排砂式ゲートを持つダムは出平ダムだという。ダムによる自然破壊が次第に明らかになってくる中で、排砂ゲートを持つということはダムの矛盾や限界(ダムは水ばかりか土砂もせき止めてしまい、20〜50年先には土砂で埋まるといわれている)を先伸ばしするだけではないのか。川を愛する人間として黒部川の問題を考えていこう、そう思った。
 県の諮問機関である出平ダムの排砂影響検討委員会は、今年4月に「当面出平ダムへのヘドロ化した土砂はそのままにして、毎年の流入分を梅雨などの出水時に、排砂ゲートを使って放出する」旨の提言を行った。排砂方式を使用しない方法を含めてさまざまな検討を行ったことは率直に評価したいと思う。
 しかし、当初の目的であったヘドロ化した土砂をどうするかについては答えていない。そもそも、新しい土砂の上積み分だけがきれいに流れることなどあり得るのだろうか。全国のダムの下流は必ず水が濁っているが、これはダムの放流水と一緒に富栄養化した堆積物が一緒に放出されるからだ。今回の提言は、解決を先伸ばしする中でヘドロは一緒に放出するという、既成事実だけが進むような気がしている。
 排砂をめぐる議論の中で矢面に立つのは県であり、県は排砂の問題を「解決」するために各種の調査を行い、漁協には漁業対策費としてお金まで与えている。でも考えてほしい、問題を発生させたのは事業責任者の関西電力だ。関西電力はこうなる前に6年間も土砂がヘドロ化するまで放置したのか。本来的にいえば補償や対策は関西電力が行うことであり、県は関西電力を指導・監督すべき立場なのだ。
 出平ダムの下流には同じく排砂ゲートを設置する予定の宇奈月ダムの建設が進められている。長良川河口堰の建設強行の「反省」からか、このダムは全国11のダムの一つとして建設見直しも選択肢の一つとして事業審議委員会が持たれたダムだ。公聴会では地元を中心に多くの反対意見があった。しかし、その後の対応からもこうした点に配慮しているとは思えない。事業審議委員会はメンバーには推進の立場で進めてきた地元の首長が半数以上占め、住民団体や自然保護団体などの参加はない。徳島の細川内ダムでは予定地の町長がボイコットしており、事業を追認する機関としての役割しかないともいわれている。
 宇奈月ダムは、当初治水目的だけだったが、発電・利水目的が加わり多目的ダムとなった。その過程で、建設費は5百億だったものが千6百億(長良川河口堰に匹敵する)以上にふくれ上がっている。
 発電能力は最大2万2千Kwを予定。これはダムによって従来の柳原発電所が水没するのでその代替として考えると、7千2百Kwの増加しかない。利水については、地元自治体はダムからの水道水の受け入れに消極的で、県の説得によりようやく今年6月に受け入れを決めたという経緯がある。ここは全国に誇る湧水の里。安くておいしい地下水を住民が利用している。ダムからの水道水が利用されれば、何倍もの値段になって住民の負担になってくる。まずくて、高い水を誰が利用するというのだろう。
 県は下新川地区の恒久水源として宇奈月ダムの必要性を協調するが、本当に水が足りなくなるなら住民に負担を押しつける前に、地元のYKKやアサヒビールなど大企業の地下水の取り入れを規制する方が先ではないか。富山県では、全国平均に比べて地下水の工業利用が4割以上も多い。
 愛本の堰堤より下流では、建設省が毎年億単位の予算をつぎ込んで、新河道計画を進めている。200年に一度の大出水に備えて堤防の強化を行っているそうだ。そんな中で、100年も維持できないダム建設に依拠した治水対策が現実的な対応なのだろうか。
 河川行政を転換し、新たなダム建設を中止したアメリカでは、遊水池の設置や流域への保証などソフト面の治水対策を行っている。その方がダム建設より費用が安くて環境への影響が少ないからだ。
 すでにここまで建設が既成事実化している宇奈月ダムをどうするか。発電・利水利用は前述したように価値が低く、一定の水を蓄える必要性から治水上も問題が発生する。たとえば問題の多い排砂ゲートを使用せず、水門を開放したまま出水時のみ治水対策として水を貯めるダムに転換する。そうした検討があってもいいと思う。このままでいけば出平ダムの排砂は下流の宇奈月ダムに溜まる。宇奈月ダムによって富山湾に土砂は流入する。排砂の問題がなんら解決しないまま、その責任は関西電力から宇奈月ダムの建設事業者の建設省−国に移行してしまう。私は今回の問題に対してこうした危惧を持っている。巨大な民間企業−関西電力の責任がさらに隠蔽されてしまう構造だ。
 黒部川水系では現在14の発電所が作られ、最大90万Kw者発電能力を擁している。その電気のほとんどは関西電力によって大阪などの大都会に運ばれていく。富山では下新川海岸は毎年2mもの海岸線が後退し、砂浜が消失し続けている。そして、富山湾の富栄養化が進行している。(96年9月14日付、北日本新聞には富山湾一体の富栄養化を示すショッキングな観測衛星写真が掲載されていた)原因の多くは相次ぐダム開発である。
 私達富山県民は、川は下より砂浜も水もそして豊富な魚を生む富山湾さえも、いま失おうとしているのではないか。

 96年10月黒部や川の開発の問題を考える市民グループとして「黒部川ウォッチング・富山ネットワーク」が発足しました。共に活動して下さる会員の方を募集しています。

《連絡先−中新川郡立山町若林13−39 ●(夜)0764−63−5607 金谷まで》

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