余白96  

 北日本新聞・カルテの余白 1996

 北日本新聞日曜版「カルテの余白」欄に掲載した文章を収録しました。版権は北日本新聞社が所有しております。引用などの際には、掲載日付と出処「北日本新聞」を明記してください。

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1996.01.07 大震災
1996.02.18 るみえちゃん
1996.03.31 子ばなれ
1996.05.12 ちょっと
1996.06.23 部活

 余白の余白

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1996.01.07 大震災

 阪神淡路大震災から一年がたとうとしている。過日、震災時の歯科医療活動の学会発表を聞く機会があった。
 地震がおきたのが夜明け前だったため、義歯をなくしてしまった人が多い、という話は当初から聞いていた。口や顎の外傷は、もちろん多かったけれども、災害の規模から想像されるほどではない。それは、寝ている時に頭部に強い外傷を受けた場合には、落命するケースが多かったという痛ましい理由によるものらしい。
 意外に思ったのは、口の中がただれるなどの口内炎をおこす人が多かったこと、そして歯周病(歯槽膿漏)が急に悪くなった人が多いことである。歯を磨く水さえなかったことも理由のひとつではあるが、それだけでは説明がつかない。突然の災難と劣悪な生活環境からくる強いストレスが影響しているようだ。
 また、避難所生活が続くなかで、義歯が合わなくなった人も多い。これは体力の消耗によって顎がやせたためであろう。
 炊出しが本格的に始まるまでは、差し入れられる食事は、乾パンや冷えて固くなった弁当がほとんどだった。歯があっても食べにくい。「よく噛んでたべるように」と保健所から指導がされたようだが、歯がなければそれもままならない。野菜類が不足していたうえに、たとえあっても歯がないためにろくろく食べることもできず、ひどい便秘になって苦しんだ、と語る被災者もいる。無理に食べて下痢でもしようものなら、もっと悲惨である。トイレが不足しているために行列に並ばなければならない。
 災害直後、地元の歯科診療所は灘区・東灘区・中央区・長田区ではほとんど壊滅状態、神戸市全体でも四分の三以上が診療できない状態にあった。とつぜん巨大な無歯科医地区ができてしまった。ところが、行政の災害時医療対策には歯科が含まれていない。
 一月下旬から歯科医師会が市内十ヶ所に仮設歯科診療所を開き、巡回歯科診療にも乗り出した。三月末までに四千人余りの患者を治療したという。地元の歯科医はもちろん、歯科大学や各地からのボランティア、そして一番の中心メンバーになったのは地元の病院勤務医たちだった。
 県内に四〇あまりの病院歯科があり、「兵庫県病院歯科医会」という組織をつくって、ふだんからおたがいの交流だけでなく開業医との交流に努めていた。それが災害時に力を発揮したのである。
 現地の歯科医たちは言う。「生きることは食べることだ」と。

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1996.02.18 るみえちゃん

 「るみえちゃんは美しい少女だ。るみえちゃんの一番の心配は、焼酎が買えない日のお父さんのきげんの悪いことだ」
 土門拳の写真集『筑豊のこどもたち』の写真に添えられた作者自身の文章の一部である。
 石炭から石油へ、エネルギー政策の転換にともない、人員整理のために筑豊の炭鉱地帯は失業者であふれていた。三井三池争議が起きたのは昭和三十五年。第一組合と第二組合の対立、暴力団の介入、流血の惨事などで知られる。 激しい渦巻デモや乱闘の場面をニュース映画で見た記憶がある。『筑豊のこどもたち』はその前年に撮影されたものだ。
 この写真集といい、もうすこし以前の写真集『江東のこどもたち』といい、写っている子供たちは私とほぼ同じ世代である。鼻水をたらした子供がいる。素足に短靴をはいた子供たちが路地に群れている。紙芝居を食い入るように見つめる顔が並んでいる。写真を見ていると、どこかに幼い日の自分が写っていそうな気がしてくる。
 さらに土門自身の文章を読んでいくと、失業した夫の歯の治療費を稼ぐために妻が福岡へ働きに行った、十二歳のるみえちゃんと九歳の妹と酒びたりの父親が残された、と書いてあった。こんなところに歯が関係しているとは思いもよらなかった。写真のるみえちゃんは不思議そうな目で不幸を見つめている。
 昭和三十四年は新しい国民健康保険法が施行された年である。いわゆる「国民皆保険」の始まりだった。しかし、じっさいに普及するには数年かかったという。保険でカバーする範囲も限られていたようだ。歯科には「差額徴収」という制度があって、保険で治療しても余分に費用がかかった。
 その後、保険制度は改善されていったが、いっぽうでは「国鉄・健保・米の三K赤字」などと言われるようになり、老人医療費は有料化され、健保本人は無料から一割負担になり、「差額徴収」制度の復活ともいうべき「特定療養費払い」制度が導入された。遠からず健保本人の窓口負担は二倍に、老人も窓口で毎回支払いをすることになりそうだ。さらには、会社員に老人の家族がいると保険料を割増しにすることも計画されている。このところ、社会保障制度の後退にはとどまるところがない。
 閣僚や議員、とりわけ厚生大臣ならびに次官、厚生官僚のみなさまにお願い。るみえちゃんを悲しませないでください。

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1996.03.31 子ばなれ

 夕食後、新聞を読んでいたら、電話がかかってきた。
 「急に歯が痛みだしたので、診てもらえないでしょうか」
 「え、いま急にですか?」
 「はい、そう言っています」
 「あれ? ご本人じゃないんですか。どなたが痛いと言ってるんですか」
 「息子なんですけど・・・」
 若々しい声だ。電話でのやりとりから、息子というからには子供だと思いこんでしまった。おとなしい子ならいいけど、泣いて暴れられたら困るな、などと考えながら、玄関、待合室、診療室と明りをつけ、機械室の電源をいれて、待つことしばし。やがてやってきたのは大人、それも中年と言っていいくらいの男性だった。母親が電話して、父親が子供を連れてきたのだろう、と思った。が、待合室に子供の姿はない。その人ひとり。ご本人だった。
 ということは、先ほどの電話の主はかなりの年配だったことになる。われながら自分の耳のあてにならないことにあきれる。
 女性の年齢はわかりにくい。電話の声はもちろんのこと、面と向かっていても、わからないことがある。大人っぽい身なりをしているので、社会人だと思っていたら、中学生だった、なんてこともある。本人ならばカルテを見ればわかる。子供を連れてきた人に、「おかあさんですか、おばあちゃんですか」と聞きたくなることもあるが、もしも、おかあさんだったら、きっと恨まれるだろう。とりあえずは「おかあさんですか」と聞いておくに越したことはない。姉だったりしたら困るけど。
 ともあれ、いくつになっても親は親、子は子。なかなか子離れできない母親が多い。診察しながら子供に話しかけていると、それを横から引きとって母親が答えることがよくある。いまいくつ? 保育園に行ってるの? なに組なの? きのうの夜ハミガキしたかい? なに色の歯ブラシもってるの? ヒザのキズはどうしたの? だれかとケンカしたのかい? こんな問いかけは、じつのところ答えが聞きたくてしているのではない。子供の恐怖心をやわらげて注意をこちらに向けたい場合があるし、子供の理解力や性格などを知りたくて探りをいれていることもある。いずれにしても、正確な答えよりも、答え方のほうを観察している。そこへ母親が代わって答えたのでは台無しだ。
 台無しとは言いすぎかもしれない。強いていえば、母親の観察にはなっている。

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1996.05.12 ちょっと

 お祭りはあんまり好きでない。というより、ひとごみが好きでない。
 いつのころからかひとごみが嫌いになった。たまに東京へ行って、すしづめの電車に乗ったり、にぎやかな街を歩くと、もうそれだけで疲れてしまう。かつて東京に住んでいたことがウソのような、他人事のような感じがする。
 しかし、子供のころは、お祭りの露店や大道芸を見てあるくのが大好きだった。ガマの油売りを何回も続けて見ていて、しまいには追い払われたこともある。
布の袋から青大将をつまみだして自分の腕をかませ、「たちどころになおーる」とガマの油を塗りつける。もうひとつ袋があって、南の島にすむ「ハブ」という猛毒のヘビをもってきたというのだが、袋のほうに行きそうになっては話がそれていって、なかなか見せてくれない。どんな形をしているのか、どんな色をしているのか、見たくてしかたがなかった。袋のなかでうごめいているヘビは、ずっと見ていても結局さいごまで姿を見せなかった。なぜ追い払われたのか理解できたのは、何年いや何十年もたって人間のずるさがわかるようになってからである。
ヘビの話が長くなってしまった。
お祭りが好きだったころのこと。露店をのぞきながら値段をたずねるとき、「これ何円?」ときいていた。それしか知らなかった。ある日、年上の子供たちが「これいくら?」と言っているのを耳にして、たいそうおどろいた。「いくら」なんて、かっこいいな、便利だな、いくら、いくら、よし今度からは「いくら?」って言ってみよう。心の中でくりかえし練習して、さて本番となると「これ何円?」と口から出てしまうのがくやしかった。
 治療しているとき、「ちょっと待ってください」「もうちょっとで終りだからね」というように「ちょっと」という言葉をよく使う。ほとんど無意識に使っている。
 便利な言葉だけれども、子供には通用しない。幼い心には「もうちょっと」とか「あとすこし」といったあいまいな表現はぴんとこない。やっぱり「いくら」ではなく「何円」なのだ。
『ひと言でつづる看護のこころ』のなかに、こんなのがある。・・・・「ちょっと待ってて」と、そのちょっとが長くてゴメンなさい。(富山医薬大附属病院看護部編・医学書院)
そうだな、私も、もうちょっと気をつけなければ・・・・あ、また使ってしまった。

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1996.06.23 部活

 通院中の子供のお母さんから電話がかかってきた。
 学校検診でムシ歯があると言われて、二回通院しました。そのとき部活を休んだために顧問の先生からこっぴどく叱られて、泣きながら帰ってきました。よほどきつく叱られたみたいで、子供がおびえてしまって、もう歯の治療にいけない、どうしようと言っています。他の部員には、歯の治療に行くから部活を休むと言っていたけど、顧問の先生には伝わっていなかったのかもしれない。いや、直接言ってもだめだったかもしれません。部活の予定表を見ると、二カ月先まで練習や試合がびっしりで、とても通院できそうにありません・・・・
 話を聞いて驚いた。あきれた。腹がたった。直接、その学校に抗議しようかとも思ったが、かえってその子の立場を悪くするかもしれない、と思いとどまった。
 これに似た話は、けっしてめずらしいことではない。朝練にはじまり日が暮れるまで練習、という毎日が続く。歯の治療どころではない。二〇〇〇年国体が近づくにつれてスポーツ関係の部活は異常に熱が入っているようだ。
 中学校や高校を卒業するとき、「これで部活から解放される」と喜ぶ子供が少なくないと聞く。そしてピタリとスポーツと名のつくものを何もしなくなる子がいる。それどころか不登校の原因になることもあるという。これでは何のための部活なのだろう、と疑問を感じるのは私だけではあるまい。日本のスポーツの根性主義については多方面から批判されている。
 私のようなスポーツオンチにはとやかく言う資格はないかもしれない。子供のころ体育の教科は大の苦手、部活とはまったく縁がなかった。そんな私が、中年になってからスキーとテニスを始めた。断っておくが、下手くそである。素質がないうえに勝ち負けに執着しない性分のため、いつまでたっても下手である。それでもやめないのは、楽しいからである。そのうえ健康のためにもいい。仲間もできる。一石二鳥、いや三鳥だ。いまさら根性を鍛えるつもりは毛頭ない。
 こんな中途半端なスポーツ観は通用しないだろうと思いながら書いている。つらい練習こそが教育効果をもたらすのかもしれない。もしかしたら、多少の落ちこぼれはやむをえないのかもしれない。キラリと光るような選手が一人でも二人でも育てば大成功なのかもしれない。
 競争社会の縮図を見る思いがする。

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 余白の余白



 「カルテの余白」がいつ始まった企画なのかは知りません。私は1992年夏から書き始めました。医師・歯科医師が最大時で6人少ないときは4人で順番に担当し、北日本新聞日曜版に連載されたものです。1996年7月いっぱいで企画が終了するまで、まる4年、読者の方から手紙をいただいたこともあり、「読んでますよ」と患者さんに声をかけられることもありました。
 締め切り日があるから書けるのであって、そうでなければ書けなかったと思います。このような機会を与えてくださった新聞社の方に感謝します。
 ホームページを開いたのを機に、私の書いた分を掲載しました。ご意見などはEメールにてお願いしたします。
 
 Eメール宛て先 kyonc@micnet.ne.jp

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