BYPASS94

 


諌鼓を打て

 
『とやま保険医新聞』のコラム「バイパス」など、機関紙誌に発表した雑文を掲載しています。


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1993|1994|19951996199719981999 |2000




バイパス原稿 94.2

 「政治改革」、「国民福祉税」、「日米首脳会談」と、つぎつぎに混乱が続く。そのため診療報酬改定の四月実施が危ぶまれていたが、なんとか実現しそうな見通しとなってきた。HUロケットにあやかったわけでもないだろうけれども、「二段階引き上げ」方式になるという。
 実質二.七%、「二段目」が半年遅れだから実際にはもう少し低くなる。厚生大臣は「経営安定に必要な水準が確保できた」と言うが、何を根拠にした発言なのか、疑問だ。前回の改定時と同じく、「医業経営実態調査」の結果が公表されていないのである。実態よりも予算配分すなわち政策を優先しますよ、という意志表示であろう。悪い前例をつくってしまったものだ。
 政権交代があっても、低医療費政策の基本姿勢にはいささかも揺るぎがない。さすがは官僚国家日本である。一説によれば、政治の混乱に乗じて、官僚の発言力、とりわけ大蔵省の力が大きくなっているという。以前から「大蔵省厚生局」などと陰口をたたかれていたが、いまは「課」くらいになったのかもしれない。それどころでない。何の前触れもなく、新税が飛び出してくるところなど、立法府でさえ記者クラブ並である。
 先日、大蔵官僚の質疑応答をテレビで見た。門外漢を小馬鹿にしていることが、言葉や態度の端々に窺える。泣く子より地頭のほうが、やはり強いようだ。

バイパス原稿 94.5


 政治改革・行政改革を掲げた細川政権があっけなく消えてしまった。功罪それぞれあろうが、昨年十一月成立し、今年十月施行される「行政手続法」は「功」に入れていいだろう。
 たとえば、第四章、行政指導。指導は「任意の協力」が基本であり、処分等をちらつかせて「指導に従うことを余儀なくさせ」てはいけない。指導に「従わなかったことを理由として不利益な扱いをしてはならない」。などと明記されている。
 じゅうらい野放図に行なわれてきた行政処分・行政指導・許認可等についての指針となる法律である。いままで法律がなく、各省庁の通達のみで恣意的に行なわれていた、それがそもそも異常だった。また、「行政指導は非関税障壁」だとする「外圧」も成立の背景にはある。ともあれ、忌まわしい「個別指導」や「監査」が、今までのような高圧的なやり方では違法行為となるであろう。
 かといって、既得の権限を死守するのが役所の習性であり、おとなしく引き下がるとはとうてい思えない。三権分立どころか、官僚による三権ぶん取り、といわれるご時勢である。「行政手続法」を、いかに骨抜きにするか、対策を練っているに違いない。
 なにごとも最初が肝心。骨を抜くか、魂を入れるか、官と民との綱引きである。民のほうの綱を引く勢力が少ないのが気がかりだ。

バイパス原稿 94.8


 経営の名医がほしい大病院
 最近話題の本「大往生」(永六輔・岩波新書)の冒頭部分に出てくる川柳である。沖縄の病院関係者の作。ほかにも、平成の子供は一姫半太郎、人生は紙おむつから紙おむつ、などの楽しい川柳が紹介されている。
 ともあれ、経営の名医がほしいのは大病院ばかりではない。中小病院も診療所も、ノドから手がでるほどほしい。しかし、そんな気持ちにつけ入る悪い奴もいる。医療経営コンサルタントなどと自称する詐欺が多発している。無一物になるまでムシり取られるそうだ。うまい話には用心したほうがいい。
 先日、新聞に「病院収支赤字に」との記事が載っていた。見落としてしまいそうな小さな見出し。中医協の「医療経済実態調査」を報じる記事であった。全国平均で赤字になる、というのは大変な事態である。増えるいっぽうの経費の中で、減価償却費だけ減少しているのが目を引く。精いっぱいの経営努力であろう。世の中ぜんたいが不景気だから仕方ないさ、と聞こえてきそうだ。が、景気のいいときには取り残され、不景気にだけ付き合わされたのではたまったものではない。
 今回の診療報酬改定は四月と十月との「二段階」であった。十月実施分が決定してからの調査結果発表である。点数改定後に調査結果を公表するのが恒例になってしまった。換言すると、改定が済むまで調査結果を隠ぺいするのが習わしになってしまった。見積もりなしで契約書にハンコを押させるようなものだ。
 これでは悪質コンサルタントと変わらない。ほんとうに必要なのは医療行政を正す名医なのかもしれない。

バイパス原稿 94.10


 十月九日、立山山麓。芳見橋に百数十人が並んだ。北海道から九州まで、全国各地から集まった人々だ。初対面の人がほとんどである。しばしの黙祷のあと、各々の手を離れた菊の花が空中を飛ぶ。花は、四十メートル余りの落差を、ゆっくりと川面に向かった。
 富山個別指導事件一周年を期して、審査指導問題全国交流集会が開催された。ちょうど十月一日から「行政手続法」が実施されたところでもあり、新井章氏(茨城大学教授・法学)の講演は時宜を得たものであった。もし、この法律が一年早く実施されていたら、不幸な事件は起こらなかったかもしれない。
 だが、法律ができたからといって、行政側が遵守するとはかぎらない。そもそも「指導大綱」が守られていなかったことが事件の原因である。たとえば、法律の網の目をくぐるべくピアレビューが検討されている。第二、第三の犠牲者を出さないために、保険医は「青本」より先に法律書を手にしなければならないのかもしれない。
 人は、死ぬ寸前の一瞬の間に、人生の全てを振り返るものらしい。最後は不安感よりも安堵感に近いともいう。臨死体験の多くがそう語っている。
 自分の死を無駄にするまいと立ち上がる人々が、きっといる。頼んだよ。そんな声が芳見橋の彼方から聞こえてくるようだ。

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1994−3 保団連評議員会・発言メモ

 富山の保険医自殺、「富山個別指導事件」につきましては、全国の協会からのご支援に感謝いたします。全国から、多くの激励の手紙を頂いております。また、昨年おこなわれた「追悼集会」には、各地から多数のご参加を頂きました。富山協会としても、設立以来最大の取り組みでした。これをやらなければ協会の存在意味がない、という位置付けで取り組んできました。その結果、県下の医師・歯科医師の信頼が高まり、会員も増加しております。
 すでに何度も報じられていますので、事件の経緯については割愛し、いくつかの要点に限って報告いたします。
 この事件に対する関係各方面の対応には、きわだった特徴があります。
 まず協会ですが、いちはやく正確な事実関係を報道しました。とかく、このような事件に際しては、ありもしないデマが飛び交います。やっぱり不正があったのではないか、莫大な借金があったらしい、株で失敗した、などなど。協会事務局は、この事件に取り組むにあたって、事前に注意深く調査し、これらが根も葉もない噂にすぎないことを確認しました。そのうえで、迅速に報道したのです。このことは、遺族の方々からも、たいへん感謝された点です。
 つぎに県医師会ですが、残念ながら、地区医師会が抗議声明を発しているにもかかわらず、会員の擁護よりも、県当局を擁護するような姿勢に終始しました。県当局よりも行政寄り、という奇妙な位置に立ってしまい、かえって以後の立場が無くなってしまったように見受けられます。富山県医師会にかぎらず、各地の医師会・歯科医師会もそうではないかと思われますが、事務局長が県厚生部の「天下り」先になっている。そこに端的に示されるように、「行政との癒着」と批判される構造があります。いざというとき、会員よりも行政の片棒をかついでしまうような体質は問題です。
 さて、県当局ですが、物的証拠がないのをいいことに、徹頭徹尾、責任逃れをはかっています。立会い人、同行した事務スタッフ、居合わせた他の医師の証言、これだけの証拠があっても、認めません。そればかりか、ほんらい当事者の技官の言動を調べるべき県警が、抗議に立ち上がった地区医師会役員に、「何のために抗議するのか」と聞きにくるというような、見当違いなことをする。役所はヤクザみたいなものです。追い詰めるのは容易なことではありません。
 もうひとつ、マスコミについて。最初のうちは、大きく扱っていましたが、次第に小さく扱うようになりました。あまり大きく扱わないように、との「天の声」があったと聞いています。地方のマスコミは地方の権力に弱い、ということを知りました。しかし、のちに読売新聞の全国版、日経メディカル、フェイズ3といった全国紙(誌)で大きく扱われています。地方権力が操作できるのは地方マスコミどまりのようです。
 最近の動向について、簡単に触れておきます。事件以後も個別指導は続けられていますが、やり方・態度が劇的に変わりました。まともになりました。当事者の技官は、3月で退職が決まりました。事件の責任は認めないままですが、実質的には引責辞任ではないでしょうか。県医師会執行部も総入れ替えとなりました。事務局長も辞任しました。これらの方々も、事件に直接関係ないと言明していらっしゃるそうです。
 富山協会では、この事件の経緯や全国から寄せられた手紙・ファックスなど、膨大な量の資料を後世に残すべく、記録集の編集・出版を予定しています。また、秋には、審査・指導・監査の問題についての全国的な交流集会を企画しています。これは、保団連の事業となります。亡くなった先生の命日に、現場に近い場所を予定していますので、ぜひ、ご参加をお願いいたします。
 さいごに、今後のことなどについて、お願いがあります。
 協会の文書でも、ほとんど触れられていないのですが、昨年成立した「行政手続法」が今年秋に実施されます。じゅうらい野放しだった「行政指導」、これには「個別指導」も含まれるわけですが、そこに基準が制定された。これからは、この法律に照らして、適正な指導かどうかが判断されることになります。行政の横暴から自らを守るために、この法律を研究する必要があると思います。
 
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 あの日あの頃   月刊保団連1994.10月号(No.458)

 私が東京医科歯科大学歯学部に入学したのは、昭和41年、NHKのテレビドラマ「おはなはん」が人気を集めていた頃です。
 親の強い希望で、不承々々歯学部に入りました。戦前、歯科医院に書生として住み込み、やがて検定試験を受けて歯科医師になろう、そんな父の夢は、戦争のため中国大陸に渡るとともに消え去り、それどころか結核を得て帰国。戦後、歯科技工士になったものの、忘れ難い夢を息子に托したという次第でありました。戦争の玉突き被害とでも申しましょうか。
 いっぽうでは花の東京へのあこがれもあり、合格通知を受け取ったときには単純に喜んでおりました。ところが、入学してみると、教養課程は千葉県市川市、それも、駅からバスに揺られてかなり行ったところ。バス通りを外れると畑や溜池などもあり、狐や狸が出ても不思議でないような細道を通って下宿にたどりつく。おおいにがっかりしたものです。
 昭和41年から47年までの6年間、いま思うとずいぶん騒然とした時代でした。東大医学部のインターン闘争から「安田講堂事件」に至る学園紛争の嵐。東京都知事に革新系候補の美濃部さんが当選し、全国的に革新首長が増えていく。成田闘争、ベトナム反戦運動なども盛んでした。しかし、浅間山荘事件、連合赤軍リンチ殺人事件あたりから、しらけムードが広がっていきました。
 入学後すぐに「セツルメント」(注)に参加しました。お茶の水から地下鉄丸の内線で三つめ、茗荷谷で下車、東京教育大学の前の坂道を下って、すりばちの底のように低くなったところが「氷川下セツル」の活動地域でした。
 徳永直の小説「太陽のない町」の舞台、共同印刷を中心として、下請け孫請けの零細企業が軒を並べる。横町にはいるとパッタンパッタンと紙を折る機械の音が聞こえ、インクの匂いがただよってくる。街角で積み下ろしされているのは印刷された紙の束や出来上がった本の束、紙とインクに人が群がっている町です。
 学生たちは自らを「セツラー」と呼び、氷川下セツルメント病院の裏にあったバラックが「ハウス」、6畳ほどもあったでしょうか、ここで「レジ」と称する交代の宿直がありまして、謄写版のインクの匂いが充満する「ハウス」にセンベイ布団を敷き、時を忘れて話込んだものです。
 写真●は「ハウス」での会議。中央が会沢智也君、現在立川相互病院歯科に勤務、いまや民医連歯科の古狸。右が岡村登君、いち早く母校・医科歯科大学医学部保健学科の教授になっています。どこにそんな要領の良さがあったのだろうかと不思議です。このふたりとは同期でしたので、よくツルんであるいたものです。
写真●は駒場で開催された「第19回全セツ連大会」(1969)の分科会。黒板に「保健部」と書かれています。セツルメントには法曹部、児童部、保健部などの部門がありました。アルバムのメモを見ると、座長は清水ヵ丘セツルの「ベトコンさん」(左)、あかつきセツルの「こんちゃん」(右)となっていますが、どこにあったセツルか、いまとなっては記憶が定かでありません。ほかにも高瀬川セツルなど、保健部をもつセツルが全国にいくつかありました。
 保健部に属しておりましたので、健康等に問題のある家庭を訪問する、集団検診を行なう、といった活動をしていました。ほんとうに役にたったのかどうか疑わしい。それどころか仕事の邪魔していただけかもしれませんが、血圧計を持って、受持ちのいくつかの家庭をまわっていました。たとえば、Tさんは製本の孫請けをしている高血圧のおじさん。奥さんとふたりで仕事をしている典型的な孫請けの家内工業です。目のまえで夫婦ゲンカが始まって慌てたこともあったけれど、機嫌のいいときに二二六事件の体験を語ってくれたりもした。青二才の学生を、よく家に上げてくれたものです。
 歯学部に入学したものの落胆と後悔で元気をなくしていた私にとって、セツルは医療人としての原点になっています。
 「ひとりはみんなのために、みんなはひとりのために」
 「ひとりの百歩より百人の一歩」
 セツルでよく耳にし、口にしたスローガンです。
 情緒的平等主義的に響くかもしれませんが、難しいイデオロギーや倫理観よりも、あたりまえすぎて忘れられてしまいがちな単純なことが大切ではないかと思っています。
 氷川下セツル保健部には東大、医科歯科大、女子医大などの医系学部および看学のほか、栄養大、文京学院などからも学生が参加していました。写真●は都立公衆衛生看護学院の学園祭のため、展示の準備をしているところです。写っているのは、後に私の妻になる学院生です。当時は双方ともそんなことは意識しておりません。写真はたまたま写したものです。
 このとき、私はマツダキャロルという軽自動車を借りて、資材の運搬などを手伝っておりました。雨漏りするので傘を常備し、サイドブレーキが甘くて坂道には停めれない。なにせ廃車寸前のところをナンバーをつけなおして借りてきた車でした。あとで聞いたことですが、「へえー熊ちゃんがクルマ運転してる」と驚いていたそうです。「熊ちゃん」とは若かりし頃の私の通称であります。当時は車をもっている学生はおろか、運転免許を持っている者すらめずらしかった。
 ともあれ、あっちこっちの学生が集まっていますから、学園祭シーズンは大いそがしでした。
 いま、セツルメントのような地域活動はどうなっているのでしょうか。写真●は1970年「新人セツラー歓迎会」でのひとこまです。(中央が筆者)この頃には新人の参加が少なくなってきていました。学生気質も変わってきていますし、高度経済成長後の日本では、対象とする地域そのものが少なくなってきているかもしれません。
 セツルとは話題が違いますが、ちょこっと付け加えさせてください。
 学生時代の後半はセツルと並行して、歯科学生による無歯科医地区や下町での検診、健康教室などの活動に力を入れるようになっていきました。それは私にとっては歯科医としての原点になっています。
 また、その頃、「大学と開業医との公開討論会」なるものを企画し、保団連の大田和先生や故・今村先生などに参加していただきました。迷惑な学生だと思われたことでしょう。しかし、そのような場に出てきて、理想と現実のギャップを率直に語ってくださった。ここに私の開業医としての原点があります。
 セツルメント活動は戦前と戦後にピークがあり、私たちの世代のセツルは、それから見るとママゴトみたいなものかもしれません。保険医協会の先輩の中には、きっと正統派の元セツラーがいらっしゃるはずです。機会がありましたら、ぜひその体験を記録に残して頂きたいものです。


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